第53話 看板娘と台風一過
その後、田辺は十五分ほど子犬と遊ぶと、ケージに戻した。
「ふぅ……待ってろよ。きっと連れてってやるからな」
「この子は……ゴマちゃんか。よし、サロンに行ってみよう。二人がどうなったのか心配だ」
「おう……なんか藤崎、大丈夫そうだったな」
「あ、お前もそう思ったか?」
「ああ、
「かもな……でも、良いやつだな」
「ああ。俺もそう思う」
俺は田辺を連れて、一階に降りた。
「散歩は一日一回で大丈夫。それ以上は疲れちゃうし、体調を見て途中で引き返してもいいからね。とにかく、この子のペースで」
「はい。わかりました」
藤崎は楓からなにやら指導を受けていた。
「楓、どうなった?」
「あ、蒼汰。藤崎さん、とし子さんが気に入っちゃって、お散歩に行きたいって。エラちゃん連れて行ってきてくれる?」
「え……とし子さんを?」
俺は藤崎を見た。
「うーらうらうら……」
藤崎は老犬とし子さんを一生懸命になでていた。
とし子さんはここでは有名な犬。今ではこの施設の看板娘、顔のような存在になっていた。グレーのハスキーのような、中型で雑種の老犬なのだが、その表情がとても可愛らしく、人懐っこい。いつも楓が見守るために一階の入口付近につながれており、ここに来る人を入り口で歓迎し、人々に愛想を振りまいていた。この可愛らしさで貰い手が出ないわけがない。事実何人も欲しいと行ってくれる人は居た。だが、とし子さんには持病がある。そのせいで毎月の点滴が欠かせず、飼い続けるには普通以上の努力と介護、費用がかかるのだ。それが理由で欲しいと言ってくれた人たちは諦めた。正確には楓がしっかりと説明をし、その覚悟を確認すると諦めざるを得なかったのだ。
「わかった。田辺はどうする?」
「俺も行く」
「よし。じゃ、着替えてくるからちょっと待っててくれ」
俺は事務所へ行くといつもの格好に着替えた。と言ってもここに制服があるわけじゃない。学校の制服の上からレンコントのトレーナーを着て、名札をつけた。これが仕事着だ。散歩の間に近所に存在を知らせ、こういう活動を知ってもらうためのもの。
「お待たせ、行くか」
「おう」
「うん」
「コースは短い方ね。この子達が疲れたら戻っていいから」
楓は俺に指示を出した。
「わかった。とし子さんとエラちゃんは、二人に持たせてもいいか?」
「うん。蒼汰がちゃんと指示出してくれればいい」
「わかった」
俺と楓はとし子さんとエラちゃんにリードを付け、俺はお散歩セットの入ったリュックを背負った。
「よし、じゃ出よう。外で説明する」
「おう」
「うん」
俺達は建物を出た。そのまま建物の前でとし子さんのリードを藤崎に、エラちゃんのリードを田辺に持たせた。最初はリードの持ち方から始め、絶対に飛び出させないこと、角では先に自分が安全を確認することなどを教え、いつものコースを歩き始めた。
「結構、引っ張る力が強いんだね」
藤崎はとし子さんに少し振り回されていた。
「ああ、この歳でこの力はすごい……もう少し短く持って緩めろ。辛くないか?」
俺は二人の前を歩いて時々振り返っていた。
「うん。まだ平気」
「疲れたら交代するから言えよ」
「うん……でも、いつもはこの二匹を一人で散歩するんでしょ?」
「ああ。いつもはもう一匹も一緒だ」
「三匹!?」
「ああ。慣れればそれ程大変じゃない」
「そうな、うわっ……と」
その声に振り返ると、藤崎はタタッととし子さんに引っ張られていた。
「大丈夫か?」
「うん。大丈夫……楽しい」
「そっか。とし子さんも嬉しそうだ……案外相性いいのかもな……」
「そうかな?」
藤崎は笑った。良かった……。
「田辺は大丈夫か……って、お前は慣れてるのか?」
俺は田辺を見た。とても安定した足取りで、普通に散歩ができていた。
「は?」
「いや、とても上手いんだが、犬、飼ってたことがあるのか?」
「いや、ない」
「そっか……。ちょっと悔しい」
「そうか?」
「ああ……」
その後、いつもの十五分コースの散歩を終え、レンコントへ戻った。
「ただいまー」
「あ、おかえり。うんちしたー?」
「おう、二人共したぞ」
俺はビニール袋を楓に見せた。
「うん。じゃ、大丈夫。藤崎さん、どうだった?」
「とっても楽しかった……うーらうらうら、楽しかったねー」
藤崎はとし子さんを連れて中に入ると、とし子さんになめられながら、一生懸命に体をなでていた。いつも学校で見る藤崎とは違う、とても明るい普通の子だった。なんだかこっちが本当の藤崎なんじゃないか? と思える。
「蒼汰、相性は?」
「良さそうだ。とし子さんも藤崎も楽しんでた」
「そっか……この子になら、任せてもいいかな……」
楓は藤崎ととし子さんを見ながらポツリと呟いた。
「あ、櫻井。すまん、俺、そろそろバイトだ」
「おう、そうか。じゃ、エラちゃんは預かる。先に手を洗ってこい」
「おう」
田辺はそう言って、エラちゃんのリードを俺に渡すと、トイレへ向かった。
「藤崎さん」
「はい」
楓が藤崎に声をかけると、藤崎はとし子さんを撫でながら、楓を見た。
「あなたになら、とし子さんを預けてもいいや。さっき話したことをちゃんとご両親にお話して、もし、気が変わらなかったらご両親と一緒に来て」
「本当ですか!?」
藤崎は喜んだ。楓のお眼鏡にかなったのだ。
「うん。じゃぁ、先に書類を渡しておくね」
「はい!」
楓はカウンターの中へ行き、説明書類と手続きの書類をもってくると、藤崎に渡した。
「はい。ちゃんと手間の大変さと、お金がかかることも説明してね。もちろん、ご両親といらしたときには、私がちゃんと説明するけど」
「はい、わかりました!」
「じゃ、とし子さんは預かる。藤崎もそろそろ帰るか?」
「うん、そうする」
藤崎は田辺とすれ違いにトイレへ行って手を洗ってくると、田辺と一緒に帰っていった。
「成立すると良いな……」
「うん……」
俺と楓は二人を見送ると、扉を閉めた。
「それにしても楓、よくとし子さんを渡す気になったな? ずっと断ってなかったか?」
「うん……なんかね。ずっとここで飼ってても良かったんだけど、本当にとし子さんが幸せになれる場所って、ここじゃないかも知れない……実はここじゃないんじゃないかな? って……思っちゃったの」
「そっか」
「それにあの子、なんか似てたから……」
「似てた?」
「私に似てた」
「え……そうか〜?」
おとなしい藤崎と、明るい楓は似ても似つかない。
「うん、なんだか昔の自分を見てるような……」
「あ、あの頃の楓か……」
「うん。だから、最初に宣言しちゃった……悪いことをした……」
「……どういう意味だ?」
「……蒼汰はお友達が居ないって嘘をついて、嘘をついてまであの子を隠そうとして、しかもその子は昔の私に似てて、蒼汰が彼女を好きじゃない訳がないから私は『お嫁さんです』って言って阻止したの!」
楓は
「でも……彼女は私の目の前でショックを受けて失神した……私のせいで……気を失った……」
楓は急に泣き出した……。
「か、楓!?」
「私が彼女を……もう! 蒼汰のせいだよ!」
今度は俺を攻め始めた。涙をボロボロと流したまま、俺に向かって拳を振り上げ、ポカリと殴った。もちろん痛くはない。だが、心は痛んだ。
「蒼汰のバカ! バカ! バカバカバカ……! ……バカ……うえぇぇぇ」
楓は殴り終えると、そのまま俺に抱きつき、泣いた。
「……すまん……」
俺はただ、楓を抱きしめていた。
「はい、言い訳をどうぞ」
楓は泣き止むと、俺をケージの横の硬い床の上に正座させた。
「いえ、特にありません……」
隣につながれていたとし子さんが、俺の顔を舐めてくれた。
「とし子さん、そんなやつ
「いや、動物に当たるのは……」
とし子さんは楓のその声に驚いた。
「あ、とし子さーん。嘘だよー、怒ってないよー。うーらうらうら……。はぁ……もういいや……私も悪いし……」
「なんだ、分かってるのか?」
「うん、分かってるよ……私の嫉妬が招いたことだって事くらい、ちゃんと分かってる……でも、あんなに可愛い子、対抗しなくちゃって思うじゃない……」
楓はとし子さんを撫でていた。
「(取られたくないって……思うじゃない……)」
楓は何かをつぶやいた。
「え?」
聞き取れなかった。
「ううん。何でもない……もうこの話は終わり。……って、いつまで正座してんの?」
楓は立ち上がった。
「は……? 立って良いのか?」
「うん。私は鬼じゃないよ」
楓は右手を差し出した。
「そっか……よっ」
俺は楓の右手を掴み、立ち上がった。
楓はそのまま俺の手を引き寄せ、俺をふわっと抱きしめた。
「え、楓?」
「ごめんね……。怖かったの……私はまだまだだね……」
楓は俺を抱いたまま、俺の耳元でそう言った。
「楓……」
「でも……もう平気。ごめんね」
楓は俺の顔を見て、笑った。
「いや、俺もごめん。でも、いつでもそうやって、思ったことは言ってくれ」
「それは心配ないよ」
「なんでだ?」
「私はなんでも言っちゃうから」
楓は笑った。
「そっか……」
「でも、それで色々失敗してるけどね……」
楓は目をそらした。
「……そっか」
そこは自制しような。
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