第29話 星降る宿
食事を終え、二十一時になると宿の人が来て一通りを片付けてくれた。さらに二階に布団を敷いてくれ、さっきまで俺が寝ていた布団はきれいに並べ直され、二つの布団が並んで敷かれた。
「はぁ……お腹いっぱい……」
「本当に満足ね……」
二人は一階のだだっ広い部屋に、大の字で仰向けに横たわっていた。
「うん……あ、今度は外に入ろう」
楓が起き上がった。
「外?」
「うん、露天風呂」
「ああ、私はもう少し横になってから入るから、一人で行ってきてー」
美月は仰向けに横たわったまま、右手を上げてひらひらと振った。
「うん。小鉄」
「おう」
俺と楓は一緒に脱衣所へ行った。
「あ、ちょっと寒いかな……」
楓は浴室のガラス戸を開け、俺と一緒に露天風呂に出ると扉を閉めた。
露天風呂は丸石で作られた湯船で、中央に金属の手すりが設けられていた。露天風呂の周囲は大人の胸くらいの高さの板が立てられ、目隠しがされていた。
楓は手すりにつかまり、足を入れた。
「あ、こっちは少しぬるいのかな?」
そのまま両足を入れて、腰まで浸かった。
「ふぅ……ぬるくてもいいお湯……。はい、おいで」
「おう」
楓が両手を差し出すと、俺が近づき、楓は俺を抱き上げゆっくりと湯に入れた。
「お……本当だ、少しぬるい……ふぁぁぁぁ」
だがやっぱりいい湯だった。
楓は俺を前に向け、自分の膝の上に載せた。俺と楓は真っ暗になった森の中、風呂場の明かりで照らし出された周囲の雑木林を見ていた。木々は結構背が高く、視界にあるのは目の前の目隠しの塀と雑木林だけ。その雑木林の向こうは完全な黒。何も見えない。
「なんか、野生の動物とか、出てきそうだね……」
「ああ」
そのまましーんと静まり返った雑木林を眺めていた。物音一つしなかった。正に夜の世界。闇夜。その闇夜の中に自分達が居る明るい世界があるような、そんな感じだった。
これで停電とかしたら、ルシアが居た場所の逆みたいになるんだろうか……。
「キァァッ!」
「ひっ!」
雑木林の奥で何かの動物の鳴き声がして、楓は短く声を上げると俺を強く抱きしめ、声がした方を見た。
「楓……。ちょ、ちょっと苦しい……」
俺は湯の中の楓の手をポンポンと叩いた。
「……あ、ごめん」
楓はそう言って手を緩めた。
「ふぅ、怖いのか?」
俺は楓を振り返った。
「え? う、うん。少し……怖い……」
「大丈夫だ。心配するな」
俺は楓の手をさすった。
「うん……」
そのまま暫く静寂が続き……。
「あ!」
次に静寂を破ったのは、楓の声だった。
「どうした?」
俺は楓を見た。楓は空を見上げていた。
「見て! 凄い星!」
「ん……? おぉ! これは……凄いな……」
見上げると、高く生い茂った雑木林をまるで切り取ったかの様に、空にはポッカリと穴が空いており、その穴から星空が見えていた。
「凄いねぇ……」
「ああ……」
見える範囲は狭いのだが、そのお陰なのか、星空はその一部だけ切り取られたように見え、まるで自然の額縁に切り取られた美しい絵のように見えた。絵の中には見たこともない数の星が見え、とても美しかった。
「あれ……?」
上にアリシアが居ない。と言うか、どこを見ても居ない……。
「どうしたの?」
「楓、あっちを見せてくれ」
俺は浴室を指差した。
「ん? こっちがどうしたの?」
楓は俺を抱いたまま、湯船の中で振り返った。
「あ……」
アリシアは内風呂に入っていた。湯船に入ったまま、薄目でこちらを見て、不満そうに膨れていた。
やっぱりダメだったか……。
「もういい、空を見よう」
俺は空を指差した。
「もういいの?」
ああ。俺は頷いた。
楓は湯船の中で向き戻り、湯船の壁の丸石に背中を預けると、俺の足の下に手を置き、また一緒に空を仰いだ。俺は楓に背中を預け、一緒に空を仰いでいた。
「本当に綺麗だねー……」
「ああ……」
俺達はそのまま二十分ほど空を見ていた。
風呂からあがると、美月は寝ていた。
「あ、お母さん! そんなところで寝たら風邪引くよ!?」
「ん……? あ、楓。あがったの?」
「うん。お母さん! 外へ出よう!」
「え……外?」
「うん。星がすんごい綺麗に見える!」
「あぁ、タクシーの運転手さんが言ってたわね……よし!」
美月は勢い良く起き上がった。
「楓、抱っこひも持ってきて」
「うん」
楓が二階へ走り、抱っこひもを持ってくると、俺を中に入れてそのまま一緒に庭に出た。
この離れには小さな日本庭園がある。小さなと言っても、アパートよりは広く、庭としては小さいという意味だ。
「うわぁぁぁぁぁぁ……何よこれ……!」
美月は空を仰ぎ、固まった。
「ね、凄いでしょ!?」
「うん……こんなの見たことがないわ……」
美月はそう言いながら、庭にある木製のベンチに腰掛け、楓は俺を抱っこひもに入れたまま、美月の隣りに座った。
「これ程までとは、正直……でも、木が残念ね……」
周囲の雑木林が視界を遮り、反対側には離れの建物があるので、夜空を見渡すことはできなかった。
「あ、そこは?」
楓が二階の窓を指差した。
「あ、良いかもね。行ってみよう」
「うん」
俺達は一緒に建物の中に入り、楓は庭へ続く戸を閉めた。
俺達は二階へ上がると窓を開けた。
「あ、こっちのほうが見えるわね」
「うん。あ、月が見える!」
楓が雑木林の上に顔を出している月を指差した。美しい満月だった。
「あら、本当。月が見えるのに、こんなに星が見えるなんて……」
「え、月が見えると星は見えないの?」
楓は美月を見た。
「月って結構明るいのよ。だから、月が見えないほうが星は良く見えるわ」
「ふーん……じゃ、本当はもっと綺麗なんだね……」
「そうね……月を見るなら良い満月だけど、星を見るには満月は邪魔でしか無いわねぇ……」
美月は月を見ていた。
「そんなこと無いよ」
楓は月を見たまま言った。
「え、どうして?」
美月は楓を見た。
「だってあれ、お母さんだもん」
「私……? あぁ! そういう事ね……」
美月は笑って「美しい月」を見上げた。
「うん」
楓は笑って美月を見ながらそう言うと、「本当の月」を見上げた。
そのまま五分ほど空を眺めていると……。
「へぶしっ!」
美月がくしゃみをした。
「お母さん、冷えちゃったんじゃない?」
「そうかも……私も入ってこよう」
美月は部屋を出た。
「小鉄ももう一回入る?」
「ああ」
俺は頷いた。少し冷えたし、寝る前に入るか。
「うん。じゃ一緒に入ろう」
楓はそう言いながら窓を閉め、美月の後を追った。
美月は露天風呂に、楓と俺は内風呂に入った。
「ほえぇぇぇぇ……あったけぇ……」
俺は両手で湯船の縁に捕まって頭を載せ、体は半分浮いていた。この浮遊感がまた何とも堪らない……。こりゃ腰にも良さそうだ……。
「お母さん! そこからも綺麗でしょ?」
楓が内風呂から、露天風呂の美月に声をかけた。会話をするためにガラス戸を開け放ち、その場所からはもうもうと湯気が外へ逃げていた。
「うん、綺麗だけど、そっちが寒くない?」
「ううん。大丈夫!」
「寒くなったら閉めるのよ?」
「うん!」
俺達は十五分ほどそうしていると、少しのぼせてきたので一緒に上がった。
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