第27話 猫、温泉に入る
脱衣所から白木で出来た引き戸をガラガラガラと開けると、湯気で満たされた浴室の中から硫黄の匂いがした。浴室は上半分が細長い木を並べて作られており、下半分が美しいブロック塀のような感じのもので作られていた。普通に街中で見るブロック塀などではなく、なんだか高級そうな白っぽい石を切り出して並べたようなもので、そのブロックと白木とが織り交ぜられた空間は見事に調和し、落ち着いた雰囲気を作り出していた。床には白木で作られたすのこがあり、楕円形に作られた
「あ、木の匂いもする」
楓は鼻を突き出して匂いを嗅いだ。
「うん……はぁ、いい匂いね……」
美月は楓の上から顔を出し、一緒に鼻を突きだした。
「うん……あ、外にもある!」
見ると内風呂の外に丸石でこしらえた露天風呂があり、ガラス戸で内風呂とつながっていた。
「よし。入ろう!」
「うん!」
楓と美月は脱衣所で裸になると、楓は木製の引き戸を開け、先に浴室へ入った。美月は二つのバスタオルを扉の前に置くと、後から入り、俺が中に入ると扉を閉めた。
「楓、先に体を流して」
「うん。小鉄、一人で入っちゃダメだからね」
「おう」
俺は入り口を入ったところで座り、二人を見ていた。
「まぁ、私が居る限り、大丈夫ですけどね」
アリシアが言った。
「いや、お前! さっき俺を、助け……られ……」
あれ……ちょっと待て。
俺はふと思い出した。
さっき階段から落ちた時、アリシアの顔が見えた……。階段の一段目で固まって、そのまま体勢を崩して転がって、一回転したところでアリシアが見えた。俺に両手を差し出して光っていた……あれってもしかして……。
「うおっ! あっ……おい、そんなにバシャバシャ飛ばすな!」
「え?」
楓と美月が椅子に座って体に浴びる湯が跳ね、俺のところまで飛んで来ると、俺は顔についた湯を手で拭い取っていた。二人から見れば、まるで猫が顔を洗っていた様に見えただろう。
「あ、跳ねた? ごめんごめん」
楓がそう言うと、楓と美月はゆっくりと湯を体にかけ、体を洗い始めた。
「まったく……」
俺はそのまま二人を見ていた。
「小鉄、水は苦手なんですか?」
アリシアは一緒に浴室に入ると、空中で湯気まみれになりながらそう言った。
「いや、別にそういう訳じゃない」
猫は先天的に水を怖がると言う。だが、俺は違う。ルシアから一般常識を与えられ、水がどんなものなのか、どう対処すべきなのかを知っている。もっと言ってしまえばH2Oという水の化学記号だって知っている。知っているのだが……。
「あ、小鉄も洗っちゃう?」
え……?
「あ、そうね。温泉で洗ったらもっと綺麗になるかもね」
いやいや、関係ないから! 温泉で洗っても硫黄臭くなるだけだから!
「小鉄、おいで」
楓は俺に両手を差し出した。
「いや、遠慮する」
俺は壁と湯船の間に身を潜めた。
「お風呂に入る前は、ちゃんと体を洗わないと。ほら、おいで」
「いえ、結構です」
俺はさらに奥へ入り、湯船の向こうから頭だけを出していた。
「もう……」
楓はそう言って立ち上がり、俺の所へやってくる。俺はすかさず反対側へ逃げようとしたが……。
「小鉄、キレイキレイしようねー」
美月が反対側からやってきて両手を伸ばした。
「あ……くっそ……うりゃ!」
俺は楓と美月に挟み撃ちにされ、真ん中の湯船を飛び越え
バシャーン!
られずに足を滑らせ、湯船の中に落っこちた。
あぶぶぶぶぶぶぶ……ぷはっ。俺は手足を掻いて水面に上がると、そのまま楓に抱き上げられ……。
「小鉄! 一人で入っちゃダメって言ったでしょ!」
楓に怒られた。
「すまん……」
俺は観念し、楓の腕の中で小さくなっていた。いや、態度が小さくなったのではなく、水に濡れて体毛が全て体に張り付き、見た目が小さくなったのだ。アリシアに体毛を全て消された時のように……。
楓が俺を抱えて椅子に座ると、美月も戻って椅子に座り、体を洗い続けた。
「お母さん、人間用のシャンプーってまずいかな?」
「あぁ、そうね……。温泉のお湯だけで洗ってあげたら?」
「うん、そうだね」
楓はそう言うと、手桶で湯船の湯をすくい取った。
「かけるよー」
楓はそう言いながら、左手で俺の顔を持ち上げ、右手でゆっくりと首のあたりから背中に湯をかけた。
あ……悪くない。
俺にかけられた湯はいつも体を洗う時にかけられているシャワーとは違い、なんかこう、温もりを感じるような、優しい感触の気持ちのいい湯だった。楓はそのまま素手で指を立てると毛の間に指を入れ、俺の体をゴシゴシと丁寧にこすった。
おぉ、これは中々……。
「あれ? 暴れないんですね」
アリシアが言った。
「いつも暴れているみたいに言うな」
「いえいえ、何を仰る。いつも体を洗われる時は暴れるじゃないですか」
「んー……。なんかこう、いいんだ」
「いい?」
「気持ちいいんだ。シャワーで体が叩かれるような感じもないし、特に湯が……心地良い」
「お湯が?」
「ああ。ここは温泉だ。普通の湯とは違う」
「あ、それでこんな匂いなんですか」
「ああ」
「お客さん、
「ああ、特に無い。上手いな楓」
「ダメだ、長文になると何言ってるかわからないや。痒いところがあったら指差してね」
「おう」
「よし、体を流すよー」
「おう」
楓は再び湯船から手桶に湯を汲むと、左手で俺の顔を上げて右手でゆっくりと、首から背中に湯をかけた。
「先に入るよ?」
体を洗い終えた美月が立ち上がった。
「うん、入ってて。小鉄、顔にもかけるから息止めて」
「ん」
俺が息を止めて目を閉じると、楓はゆっくりと俺の顔に湯をかけた。そのまま頭、首、耳、顔とゴシゴシとこすると再び声をかけ、頭から湯をかけた。
「よーし、小鉄完了!」
「おう」
「ん……お……あ……はぁぁぁぁ。いいお湯だわー……」
美月が湯船にゆっくりと入ると、湯船からザバーッと湯が溢れ出した。
「あら……このお湯、なんかしっとりしてるわ」
「そうなの?」
「うん。なんかこう……体に吸い付くみたいな……化粧水みたいな感じ。これは良いわー……」
「ふぅーん……」
楓は自分の体を洗い続けた。俺は楓の隣に座り、外を眺めていた。
「よし、入ろう」
楓は自分の体を一通り洗い終え、湯船の所へ行くと、美月は湯船の奥に体を寄せた。
「こっちに階段があるわよ」
美月は自分の体を載せている、湯船の中の段を指差した。
「わかった」
楓はその段の上、湯船の中に足を入れ
「ん……少し熱い……」
ゆっくりともう片方の足を入れた。
「すぐ慣れるわ」
美月は楓を見ながら両手を少し挙げ、楓が転びそうになったらいつでも支えられるようにしていた。
「うん。……ん……あ……熱い……ふぅ……」
楓はそのまま段を降り、ゆっくりと腰までつかった。
「あ、いいお湯だね」
「ね?」
「うん。小鉄、おまたせ」
楓は湯船の中から両手を俺にさし出した。
「おう」
俺は立ち上がると、湯船に近づいた。
楓は洗い場のすのこの上に立つ俺を抱き上げ、ゆっくりと湯に入れた。
「お……あ、ちょっと熱い……」
俺は足が湯に浸かると、引っ込めた。
「大丈夫。ゆっくりいれるからね」
「お、おう」
楓はそう言うと、ゆっくりと俺を湯船の中に入れた。
「ん……お……あ……ふあぁぁぁぁぁ」
肩まで浸かると、体がグワーッと熱に包まれ、そのまま落ち着いた。
「悪くない」
「いいお湯だね」
「ああ」
楓は湯船の中の段に美月と並んで腰を掛け、両足を伸ばして自分の足の上に俺の両足を置くと、両手で俺の顔だけを湯の上に出して持っていた。丁度楓と俺が対面して湯に浸かっている感じだ。
「あ、そんな所にほくろが」
俺は楓の右の胸の下を指差した。楓の胸の下にはハート型のほくろがあった。
「ん? なに?」
楓は自分の胸を見たが、良く見えないらしい。
「美月、ほら」
俺は美月を見て、楓の胸のほくろを指差した。
「ん? あら、こんなところにハートのほくろが」
美月がそれに気づき、楓の胸の下のほくろを指差した。
「え? あ、ほんとだ」
「全然気づかなかったわ……」
「うん……」
「なぁ、そのままだと疲れるだろ。俺をそこに引っ掛けてくれ」
俺は湯船の端を指差した。
「ん? あぁ、ここに乗って外を見たいの?」
「ああ」
俺は頷いた。ちょっと違うが、意味はあってる。
「落ちないかな……」
楓はそう言いながら、俺を持ち上げ、湯船の淵に俺の両手を載せるとゆっくりと手を離した。
「疲れない?」
「ああ」
俺は湯船の縁に手を乗せてつかまっていた。湯船の外から見たら、俺の頭と手の先だけが見える感じだ。体の大半は湯に浸かっているので浮力で軽くなり、全くと行っていいほど手に力は入っていなかった。
「それにしても……いい湯だ……」
俺はそのまま外を眺めていた。
「そんなに良いんですか?」
アリシアが聞いた。
「ああ。お前も入ってみたらどうだ?」
俺はアリシアを見た。
「んー……そこまで言われるとちょっと試してみたい気も……でも満員ですね」
「あ、そうか……外にもう一つある。そっちに入ってみたらどうだ?」
「あ、そうですね。じゃ、失礼して。えい」
アリシアがそう言ってスマホを取り出して操作をすると、服がパッと消え、アリシアは全裸になった。
「そ、そんな機能が……」
「あぁ、服は元々これで作ってるんですよ」
「そ、そうなのか……」
知らなかった……。
「はい。じゃ、ちょっと行ってきていいですか?」
「おう、ゆっくりしてこい」
「はい」
アリシアはそう言うとふわっと動き出し、露天風呂へ続くガラス戸をすり抜け、露天風呂の中にジャブンと入った。というか、見た目は落ちた。
「小鉄のお友達って、どんな人かな?」
楓が言った。
「そうね……出来れば会ってみたいけど、そうはいかないんでしょうね……」
「うん……」
「すまないな……」
俺は楓を見た。
「ううん、気にしてないよ。ただちょっと、会ってみたいって思っただけ」
楓は笑った。
「そっか……」
俺はそう言うと、外を見た。
アリシアは露天風呂の湯船の中で、向こうを向いたままで暫くじっとしていたが、ふと振り返って首を傾げた。
ん? どうした?
俺が首を傾げると、アリシアは浮き上がってこちらへ戻ってきた。
「どうした?」
「触感もなければ、温度も感じません……」
「は?」
「いえ、すっかり忘れていたのですが、私はこの状態だとなんでもすり抜けてしまうので、触感もなければ温度を感じることも出来ないんです」
「……え、裸のままだと?」
「あぁぁ、いえ。そうではなくて。この霊体状態の時は、って意味です」
「……霊体状態?」
「はい」
「……え、その状態じゃない状態って、どんな?」
俺は首を傾げた。
「こんな」
アリシアは楓を指差した。
「……え、普通の人間みたいにもなれるのか?」
「はい。ただ、誰にも見られてはいけないので、完全にシャットアウトされた、それこそ山奥の、人も動物もいないような場所じゃないとなれませんけどね。
アリシアは苦笑いをすると、スマホを操作して服を着た。
「そっか……それって便利そうだけど、そうじゃない事もあるんだな」
「ええ、一長一短です」
「そっか……ってお前、さっき俺を抱えたよな?」
「はい」
「いや、はいって……どうして俺には触れるんだ?」
「小鉄とペアリングされているからですよ」
「……ペアリング……? ああ、俺の補助だからって意味か?」
「はい」
そうなのか……。
「いいお湯ねー……」
「いいお湯だねー……」
「いい湯だなー……」
「ぐぬぬ……何ですかね……この、敗北感……」
その後、俺達がいい湯だと言う度に、アリシアは悔しがっていた。
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