伊里洲の影
伊里洲は港を中心に形成された都市だった。飛行機の発達、インターネットの普及、様々な要因によって伊里洲は閑散とした地方都市の一つになり果てたのだ。私は一日一本しか出ない、薄汚れた小さな船便に乗り伊里洲を訪れた。コンクリートに舗装された船着き場に足を下ろした私がまず最初に感じたのは、人間の少なさについてだった。田舎ではあるが港町である。観光客は多少いるはずだ。そしてそれらを相手にし商売をする住民もいるはず。しかしどうしたことだろう。目の届く範囲には、性別も判別できないほど年老いた一人の老人以外見えない。彼は何かするでもなく海を眺めていた。彼の横を通り過ぎる時、潮の香りに混じるガソリン臭を匂った気がした。
事前に予約の電話を入れた宿は、港から数キロほど離れた中央広場の西側にあった。あちこちに罅割れを生じさせた道路を踏みしめ、私は足を進めた。ちらほらと見える住居は、前時代的な文化住宅ばかりだった。昭和を思わせる家屋が、不自然に道路の側へ傾いていることに気が付いた私は、建物の転倒への恐怖だけでなく、何か圧迫されるよう感じた。またそれらの家屋に嵌め込められたガラスはどこか不透明で、奇妙なことに見る角度によって反射光が色を変えるのも私の不安を煽った。住居と住居の間の空き地は、恐らく持ち主も管理を放棄しているのだろう、草が生えるに任せている。背が高く奇妙に折れ曲がった雑草は、およそ私の故郷で見かけることはなかったものだった。薄赤い雑草を眺めながら私は、土壌と動植物の関係について考えを伸ばしていた。こちらに傾く家屋が空き地に比べ辛うじて多くなってきた頃、中央広場らしきものが見えてきた。
正直言って広場を見たとき、私は面食らった。それほどまでに巨大な白亜の噴水は周辺の景観を崩していた。水を出すという本来の仕事さえ失った巨大なオブジェは、もの悲し気に太陽の光を浴びていた。その広場で光を背に受ける宿は、三階建ての、大学の寄宿舎じみた建物だった。旅館はコの字型になっており、広場と真逆の方向へ二棟が伸びていた。やはり宿も道中の住宅と同じく道路の側に傾いており、それでようやく建物ではなく地面が傾いているのではないかという疑念が湧いてきた。しかし地面が傾斜したとしていて、立っている人間が気づかないような角度の傾きが、建物を大きく歪ませるだろうか。
陰気な主人が案内してくれた部屋は、コの字の一番奥、道路からもっとも離れた210号室で、普通の宿と変わりない和室だった。だが清掃が行き届いていないのか、ガソリンのような、港の老人から匂った気のする臭いが押し入れを中心に充満していた。空気を換えたかったが、残念なことにこのホテルに空調設備などは存在しない。窓を開けるほかこの悪臭から逃れるすべはなかった。窓を拭くという文化はこの島には存在しないのだろうかと思うほど、窓は汚れていた。台風や雨のたびにこびり付いたであろう泥、短い生を終えた虫の種類すら特定できないほど散らばった死体、それらが混ざり合い、黒ずんだ窓の汚れとして一つになっている。私はそれの比較的綺麗な金属部を掴み、砂がレールの上で擦られる音を聞きながら窓を開けた。そこから見える景色も決して綺麗とはいいがたいものだった。虫食いだらけの網戸越しに、一つの小さな池が見える。その池は、異常発生した藻の影響だろうか、ピンク色に染まっていた。藻は厚く、池の水自体を伺うことはできないほどだった。部屋の汚さや悪臭に打ちのめされた私は、食事でもして今の気分を払拭しようと部屋を出た。
大きな音を立てて金属扉が閉まる。オートロックですらないため、油がさされていない鍵穴に鍵を差し込み、施錠しなければならなかった。そうした煩雑な作業をこなしていると、階段へ通じる曲がり角の奥から何かが胎動する音が聞こえてきた。それは濡れた1kmある布を地面で高速に引きずるような、この世のものならぬ音だった。またそれに共鳴し、ガソリンに近い臭いが廊下にまで充満し始めた。港、自室、廊下と連続して薄気味悪い臭いに打ちのめされた私は、このまま足を進めるべきか否か逡巡した。空腹感や好奇心、不快感などが頭の中に浮かび上がり、今すぐこの先に足を進めるよう促していた。しかし第六感とも呼ぶべきものが、警鐘を鳴らした。理性と感情の板挟みになり、そのままどうすることもできず金縛りにでもあったかのように硬直していると、奇怪な音はプツンと消えた。
結局何もかもが嫌になった私はそのまま薄汚れた布団に包まり、眠りについた。これが一日目のことである。
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