エーリヒ・ツァンの繭

 私は古い地図を取り寄せて、何度も探してみたが、尾瀬湯町(おぜゆ)という地名は、闇にその姿を隠したように消えてなくなっていた。

 当時は、長山市の赤牟(あかむ)大学の学生だった。ふとしたことから精神を病んだ私は田舎町である尾瀬湯町に休養のため宿をとっていた。尾瀬湯町は長山市に隣接する長閑な村だった。私は熊ヶ岳の麓にある寂れたマンションの一階の端の部屋を間借りしていた。築20年は優に過ぎているだろうというコンクリ造りの建物だからだろうか、一階には私以外の住人はいなかった。ある時ふと思いつき徹夜をしてみた日がある。別段何かするというわけでもなく、ただただ時間を無為に浪費していた。丑三つ時にもかかろうかという時、ざらついた白色の天井から、透き通るように明瞭な軽い金属音がした。その後続いて、金属と金属をすり合わせる―数え切れないほどの硬貨を巨大な財布の中で振り鳴らすような轟音が響いた。管理人から二階にひとり大工が住んでいると聞いていたので、何が起こったのかと私は外に出て、満月が煌々と夜空に輝く中、二階に差し掛かる階段の踊り場に立った。やはり巨大な金属音は、二階の部屋から響いてきているようだった。心地よく、しかし心をざわつかせる音に心奪われた私は、明け方その音が止むまで、朦朧と踊り場に佇んでいた。同じことはその次の日も起き、踊り場でその音を聞いた。   

 私は三階に住む大工―すなわち怪奇な音の主が一体どんな人なのか知りたくなり、小さな管理人室を訪れた。管理人は、彼について、ずっと昔から此処に住んでおり毎日現場と部屋を行き来するだけで遊んでるのを見たこともない無趣味だが真面目な人間だと教えてくれた。それでも私の好奇心は収まることを知らず、結果私は彼の部屋の錆びた扉の前で立ち、彼が帰宅するのを待っていた。件の彼は夜8時ごろ私の前に姿を現した。背は小さく、周りをきょろきょろと伺う堀の深い目元はネズミを私に想起させた。私の昨日と一昨日の金属音は何かという問いに、彼は極端に驚いて見せた。また嫌々ながらも私を部屋に上げさせてくれた。彼の部屋は簡素なもので、ステンレスのベッドと二対の樫の木製の椅子以外は家具がほとんどなかった。私と彼は向かい合って椅子に座り、彼は渋りながらボソボソと口を動かした。時代と場所を問わずに硬貨というものに自分は目がない。そして昨晩は集めた硬貨を鑑賞していただけで別に不審なことは何もない、うるさかったなら謝るとまで申し出た。しかしすでに私の興味は怪音から彼を魅了する硬貨に移っていた。

一体どんな硬貨を持っているのか。ぜひ見せてください。

彼は豹変し手酷い言葉を私に投げかけた。

帰ってくれ、貴様のような奴に見せるものなど何もない。こっちは時間がないんだ。

私はその硬貨を見ることで、今の欝蒼状態を脱することができるように思えた。またこんな深夜に用があるはずもないとも考えた。それ故硬貨を見せるよう執拗に食い下がった。

お願いします。あなたが硬貨を鑑賞しているのを横から見ているだけでもいいのです。

だめだ。今すぐ帰ってくれ。

そう言って彼は私を立たせ、異様な力で背を押し扉の外へ追いやろうとした。しかし体格と年齢の差からか、私は力づくで彼の行動を止めさせることができた。やがて彼は私を追い出すことをあきらめ、地面を這うようにベッドに滑り寄った。そしてベッドの下から茶色に薄汚れた金属箱を引きずりだした。ついに硬貨を見せてくれる気になったのか。それにしては彼の態度は悲痛なまでの焦燥感を覚えさせた。蓋を荒々しく取り払ったとき突然に、彼は大気を引き裂くような悲痛な声を上げて地面に倒れ込んだ。

 仰向けになった彼の肌は血色ある肌色から段々と使い古した皮財布のような赤褐色に変質し、口は体の横幅の何倍にも広がった。その奇妙な、シンバルを横向きで入れられたような醜怪な口は大量の未知なる模様の彫られたコインを吐き出した。それは狭いマンションの部屋を金色に埋め尽くすのに十分なほどだった。

体液で濡れるコイン群に腰まで浸かった。扉を開け放った。私は落ちるように階段を駆け下りた。そのままの勢いで走り出し、古い石橋を越えた。赤牟町の往来激しい通りに出るまで私は一歩も歩みを止められなかった。気が付くと空には、赤い月が煌々と照っていた。

 念に念を入れて探してみたが、尾瀬湯町は見つからなかった。すべて私の見た幻覚だったのだ。だがポケットの中の一枚のコインが、アレは現実だと嘯く。

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