親方と別れ、診療所を出ると、近くの茂みに駆け込み仮面を外し胃の中にあるものを全てブチまけた。頭の中では、スタンの首が胴体と分かれ、ひき肉のように顔がひしゃげる光景が流れている。やめろ。とオリヴァが念じても脳は彼女の最期を見せることを止めなかった。


「何をすれば正解だったんだ」


 オリヴァは近くの木の幹に拳を叩きつける。


「俺に権力があったとしても、全ての人を救えなんて傲慢だ。この世界で一体誰が全ての人を救えるっていうんだ。そんな存在は……」


 例外として一名いる。聖剣使いだ。世界を創った力をもってすれば、可能な限り等しく人を救えるかもしれない。


「だが、それは奇跡だ。夢物語だ」


 オリヴァの前で起こったことは事実だ。少女は死に大人は絶望する。残された村人は捕食されるか人を捨てるかの二つしか選べない。


「クソッ」


 オリヴァは口元を拭い失意に満ちた目で村の中を歩いた。

 彼と共にいた兵士の姿は見当たらない。魔獣の側杖を食らったのか、二クラスの下か、はたまたこの村から脱したのか。わからない。彼は一人だ。

 血と肉と獣の匂いが混ざった空気が漂っている。人の姿はまばらで彼と同じ目をしていた。


「とにかく、ニクラスを見つけないと」


 オリヴァは仮面を付けた。ニクラスは生存者探しに躍起になっているだろう。と考えたときである。

 ニクラスに親方から得た情報を与えて良いのか。と疑問が浮かび上がる。

 彼がこの魔獣がトリトン村の人が変異して生まれたと知れば、喜々として生存者に手をかけるだろう。


「彼等は人間の皮を被った魔獣。恐怖の芽は早期に摘み取るに限る」


 と行って必ず殺す。

 かつてのオリヴァも同じだ。危険の芽は早期に摘むべきだと言い、村に火を放ち、村人全員を手にかけた。事実、彼は一人の人間を見殺しにした。魔獣から襲われた人間を「俺には関係ない」と言い放ち、殺された現場を見た。不作為に魔獣の殺人を認容した。

 けれども、今は違う。村人を殺すことに疑問を抱いている。村の現状を知らずに終わらせることに意味はあるのか。自分が見殺しにした馭者の男に問いかけ、救い出すことに意味があったのではないか。

 自分に問いただすよう胸に手を当てる。硬い感触は懐かしく、オリヴァに問い続けることを止めるな。と訴えていた。


「ちょいと、兵士さん。あんた大丈夫なんかい?」


 彼の背から女性の声がした。肩に手を置かれ、無遠慮で力強く引っ張られた。


「ちょっと」


 オリヴァの静止むなしく、彼はバランスを崩した。肩と顎がほぼ同じタイミングで彼女を見たとき、「はっ」と息を飲む声が聞こえた。王都の兵士に無遠慮に触れたことへの後悔か、それとも自分の顔を見たことによる恐怖の声か。とその時は思った。だが、きちんと向き合った時、彼女の顔は深紅に燃え盛り、目尻を釣り上げて忿怒の表情でオリヴァの胸倉をつかんだ。


「あんたあああ!」


 先程とは違い、怒声であった。


「なっ。な?」


 自分に向けられたさっきに動揺するのも束の間、彼女は女性とは思えぬ力でオリヴァを持ち上げていた。爪先は宙に浮き、バタバタとみじめに足は宙をかく。


「あんたが! あんたがあああああ」


 彼の中で彼女は初対面だ。記憶もない。しかし、彼女は彼を知っている。どこで接点を持ったのかと問うよりも先に彼女が答えを出してくれた。


「あんた、なんでウチの旦那を助けてくれんかったんんんん?」

「ひ、人違いじゃないのか?」


 オリヴァの答えに彼女は怒りを深くする。思い出せ。と言いたげに彼女は彼の身体をゆすった。


「覚えていないっち言わせんけん! うちの旦那は、あんたを森に連れて行ったせいで魔獣に襲われて死んだ。村一番の馭者カタルカ。ウチの旦那を忘れたば言わせん」


 その一言で疑問が解かれた。彼女は、馭者の男カタルカの妻。彼はオリヴァの目の間で魔獣アヌイに殺された。


「思い出した?」


 女の質問にオリヴァは首を縦に振った。

 彼の死は悲惨なものであった。亡骸どころか髪の毛一本すら彼女の元に戻ることはなかった。「夫は死んだ」「ヨソモノに関わったせいで死んだ」事実と中傷だけが残され、彼女は渋々現実を受け入れた。

 狂えばラクになっただろう。同情も得られたことであろう。彼女が狂わなかったのは、女性が秘めている肝の強さだった。強き感情の下、彼を忘れまいとする一心で現実を耐えていた。叫びたい衝動を抑え、一生を終えようと決めていた彼女の元へ憎むべき相手が現れた。

 彼が村の中心地で引きずり出された時、彼女は彼を殺そうと思った。しかし、村人の目もあり、願いは果たされなかった。その時は、自分の覚悟が足りなかった、と後悔した。

 だが、今は違う。

 村人は誰もいない。いるのは、彼女とオリヴァのみである。

 何があっても、彼女は非難されない。今まで堪えていたものがパカーンとはじけ、振り下ろすことが出来なかった拳を振り下ろしても許される。

 彼女がオリヴァにぶつける言葉は、遅まきながら発することのできた心の叫びだ。


「返して! 私にあの人を返してよ。生きて返して!」


 女の叫びにオリヴァは「ぐぇ」と空気をもらす声で還す。襟首を〆られ、空気を思うように取り込むことができない。女の顔が赤であるなら、彼の顔は青色だ。


「ウチにとっては、旦那が全てだった」


 ポツリとつぶやいた一言はオリヴァに届かない。


「旦那の子供っぽいところが好きだった。私が石女でも、あの人はいっちょん責めず、ずーっと愛してくれた」


 女の目に移るのはカタルカと過ごした日々。つつましく穏やかな日を愛おし気に見つめている。


「あんたと過ごした日がね、ウチにはかけがえのない日やったとよ」


 涙を堰き止めていた目尻がプチリと音を立て決壊した。ボトボトと大粒の雨だれの如き涙がこぼれ落ちる。涙は輪郭を伝い、丸い顎の先で合流すると地面へと吸い込まれていく。一粒 また一粒と涙がこぼれ落ちると、彼女の姿も変容を始めた。腕から生え始めた茶色の体毛は肩から顔へ、足へと広がっていく。切れた目尻は広がり、瞳孔は縦に細く伸びる。


「奥さん、だめだ! 気を確かにーー」

「しぇからしか! あんたに何がわかっとね」


 女は鋭く叫んだ。唇が動く度、口の端から白く尖った牙が見え隠れする。彼女の変容は止まらない。女の未来は決まった。彼女は魔獣となる。魔獣となった彼女はオリヴァを殺し、同胞村人を殺すだろう。同胞村人を殺し続け、最後の一匹になった際、この魔獣はどうなるのか。想像した未来には、えもいえぬ恐怖があった。


「ウワァンタガアアアアアアア」



 彼女の声は人を捨てていた。己の存在を誇示する咆哮にビリビリと背中が震える。

 オリヴァは覚悟を決めた。たった一例。されど一例。彼女の変容は収穫であった。


「ウワンタさえええええ。グワヴァエゼエエエエエ」

「俺が死んでも、旦那は返ってこない」


 生きて返せ。そう言われれば彼はの中で還す答えはと決めている。あの時不審者乱入も同じ答えを返した。返し慣れた回答故、仮面の下から零れた声は恐ろしいほどに冷たい声であった。

 オリヴァは剣に手を伸ばすと、手首を断ち切った。彼を拘束していた手首は寄る辺を喪い、彼もろとも地面に落ちる。

 オリヴァは襟首についたままの手首を地面に叩きつける。ゴロンと断面が彼を向いた。手首は新鮮なザクロのような深紅色。零れる血液も鮮血であった。

 彼は彼女の全身を見て、あることに気づいた。

 人間から魔獣への変容は一気に生じない。段階を経ていく。手首はまだ人間であった。視線を落とせば、足首には魔獣特有の茶色の毛は生えていない。

 確認できている範囲で茶色の毛が生えていない部分は首である。

 なるほど。とオリヴァは納得する。親方も、自警団員たちも、魔獣を殺すときは決まって首を刎ねていた。急所と思しき場所の変容は他の部分と比べて遅いのだ。

 なら、試してみろよ。

 裡なる声アヌイが彼の背中を押す。

 彼は「無論」と彼女の声に還す。オリヴァは地面を駆けた。魔獣は一歩を踏み出す。顔を突き出し、オリヴァの咽喉仏に喰らいつこうと鋭い牙をむき出しにする。


「やはり」


 伸びきった首は体毛に覆われず日に焼けた肌のままであった。

 オリヴァは「しっ」と短く息を吐き、彼女の首を斬りつけた。だが、斬りつけたのは良いものの、太い骨にあたり刃が進まない。刃を抜き、もう一度斬りつけるか、と思案したが魔獣は同じ隙を与えないだろう。

 魔獣は斬りつけられた痛みに甲高い声を上げた。オリヴァを引き離そうと手首を喪った腕を鞭のように死なら背、彼の顎を打ちぬいた。

 下から加わる衝撃にグラグラと視野が揺らいだ。柄から手が離れそうになったが、寸でのところで踏みとどまった。


「伝えなければ」


 オリヴァの声は魔獣には理解できない。


「キルク様に伝えなければ。この村にいたのは魔獣ではない。ただの人間だ。けれども、何かのきっかけで人を捨ててしまった。その原因の追及を、その原因を――」

「そうだね、青年。君の見立ては正解。彼女の音は魔獣であり、未だ人間さ」


 聞き覚えの無い声がした。


「死は誰にでも訪れる。難しいのはその納得だ。なーんて、偉い人は言うけれど、死ぬことに納得なんて出来るわけない。人が消える時、大人は納得できずに叫び、子供は納得できずに沈黙するのさ」


 声の主は、オリヴァの剣の上を通るように自分の剣を運び魔獣の首を斬り落とした。


「そうそう。先程の話。先天的であれば、単音は無垢なまま。しかし、この村の魔獣はどれも高さの違う音が同時に響いている。これは、後天的の証拠」


 魔獣の首から剣が抜かれた。水色の血液を吹き上げ前のめりに倒れると、声の主は穏やかな笑みを浮かべて立っていた。彼は明らかに異質であった。 

 薄紫色のウェーブがかった髪。髪と同じ色をした穏やかな瞳。皮膚の薄さを思わせる肌の白さ。アイボリー色のフード纏う習慣はこの国にはない。彼は異国の者だ。


「定石の『何者だ』なんて聞かないんだね」

「聞いて正直に応える奴はいるか?」


 男は面白そうに目を細める。「なるほど」と言葉を口の中で転がした。


「君は疑りぶかい人間のようだね。怯え・後悔・虚勢が層のように積み重なっている」

「……」

「正直に答えるやつはいない。それは君の思い込み」

「……。お前、何が言いたい」

「俺も君と同じ。遅れてやってきた間抜けな人間。魔獣に堕ちた人間に最後の憐れみを。そんな事を託された、ただの調さ」

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