初夜編 仮面の男(エピローグ)
閣議の間での一件は遠い昔の事に思えた。乾期と雨期。二つの季節を越え再び乾期を迎えた。
絶望と慟哭。みにくい物語は今でも彼の心に残っている。
そして、また新しいみにくい物語が生まれようとしていた。
部屋の主 オリヴァ・グッツェーの外見は酷いものである。苦虫を潰したような顔を見たければ、今すぐ彼の顔を見ればよい。
顔を赤やら青やら染め上げ、奥歯を砕かんばかりに噛み締め、薄い唇の皮を噛み千切っている。眉の間には真新しい縦の線が刻まれて、目は糸のように細く瞑られている。
彼は、何かしらの罰で苦虫を食べたのでない。
彼が吐き気を催す顔をしているのは、この場にいる荷物を抱えた背の低い
「私は用事でお前の部屋に来ている。歓待ぐらいすべきではないか?」
言葉に反し、口調は穏やかだった。彼女が顔を動かすだけで、肩まで伸びた髪が揺れる。半ば程からかかった緩やかなウェーブ。毛先はくるんと円を描き、掌に載せればまぁるい空気がすっぽりと包み込んでしまう。とてもゆるく温和な女性が目の前に見える。いや、彼女が温和なのはそれだけだ。彼女は温和の対極にいる人物である。
烈火を思わせる原色の赤い髪
髪と同じ色を持つ激しい大きな瞳。
服も靴も装飾品も。手にした箱ですら、肌の色以外、彼女の全ては赤だ。
「赤の女」という蔑称がつきそうだが、許されない。蔑称という行為が非難されるのではない。彼女に蔑称をつけることが非難されるのだ。
キルトシアン。ペイトン
キルク・ペイトン王の妻。ヨナン国の第六王女。幼い頃から権力の庇護の下生活しており、すべての人間から崇拝され続ける事が約束された人間。蔑称・侮蔑は全て権力の下「不敬」として取り扱われる。
王妃という肩書きを有しているが、彼女はまだ16歳の少女だ。
「そんな顔をするではない。オリヴァカ・グッツェー」
したり顔の彼女にオリヴァの顔は更にひきつる。
端的に言えば、彼は彼女の事が苦手だ。おうけ特有の尊大さ。自分以外の人物を見下しているかのような振る舞いはもちろんの事。彼女のギラリと光る目は決して獲物を逃さない。
「私の麗しい顔を見て、興奮しているのかい? 別に良い。人間素直になって嬉しい表情を浮かべればよいじゃないか。君もある程度の地位にいるのだ。そういう顔をすれば人はどのように思うのか想像がつくだろう。まぁ、つかないのであれば、貴君は正真正銘のオリヴァカだな」
彼女は彼を計っている。出会った時からそうだ。そして、今日もオリヴァの底の浅さを知ると、彼女は高笑いをした。
「恐れながらキルトシアン様。王妃とあろう方が未婚の男性の部屋に従者も連れずにやってくるなど、見る者が見れば不貞と勘違いされてしまいます。私は、その噂が広まるのが恐ろしいのです」
「マジメかっ!」
キルトシアンは白い歯をニィと見せた。
「そういう事で悩むのか。指すかオリヴァカだな。良いか、オリヴァカ。その手の噂は使ってやれ。オリヴァ・グッツェーは王妃の処女を貫いた男と。胸を張って生活しておれば、お前と私の仲をかんぐって取り繕う者もいるだろう。そういうアホを炙り出すいい機会じゃないか。おまけに、お前の童貞の事実も隠せるよの」
顔を真っ赤にするオリヴァを見て彼女は指を曲げ、手甲を上下に揺らしながら「クシシシシ」と笑った。抱えている箱を床に置くと、主愛用の椅子に勝手に腰掛けた。
「だが、残念だが、そんな噂も立つことはなかろうよ。貴君の部屋を見て、誰が好き好んで来ようか」
彼女の言うとおり、オリヴァの部屋は必要最低限のものしかない。制服と数本の剣。壁に掲げられているのは鈍らの剣。それ以外何も無い。部屋に漂うオリヴァの匂いが部屋に生活感を与えている。
「私だって今すぐ帰りたいぐらいさ。こーんな部屋で気の利いた話も出来ない薄らオリヴァカに何故付き合わないといけないのか。仕方ないだろう。キルクから仕事を頼まれた以上、放り出すことはできないな」
キルクという名前を聞くや否や、オリヴァの表情が輝く。キルトシアンはその変化を見逃さなかった。は椅子から降りると、オリヴァの顔を下から覗き込む。炎の瞳は、オリヴァの感情を炙り出す。オリヴァだけではない。オリヴァの顔にへばりついているもう一つの存在の感情も炙り出そうとしている。彼が、彼女を嫌がる理由。この感情をあぶり出し、捉えようとする視線の強力さだ。数度瞬きをしただけで、彼女はオリヴァから視線をはずした。それだけで十分だった。彼が彼女を問いただすより先に、彼女は床に置いた箱を机の上に置いた。
「良いから開けてみろ」
彼女は顎をしゃくりながら言った。オリヴァは彼女と箱を交互に見つめる。華奢な女性の肩幅程の大きさで深さは手首から肘まで。赤い箱は、キルトシアンの手の暖かさがまだ残っていた。オリヴァはもう一度キルトシアンの顔を目を細めて見つめる。彼の顔に出ている表情に、彼女は苛立ちを隠すことなく声を張り上げて「開けろ」と命じた。
オリヴァは手に力をこもる。オリヴァの頭の中では都合よく悪い事ばかりが流れ込んでくる。キルトシアンとベルは仲が良い。二人の似たところをあげると、悪い意味で「好奇心旺盛」。
例えば、星の剣で、人の顔に雨に濡れた靴下を置いて驚く反応に触れたところで、現実世界でも同じか確かめるべく、適当な誰かに同じことをするであろう。
そういう人間だ。故に箱の中に必ず仕掛けがある。
足先をテンポ良く床に叩きつける王妃。パーカッションは彼女の舌打ちだ。
明らかに苛立ち始めている。このまま箱を開けずにしておけば、濡れた靴下より酷い事がおこるだろう。
(えぇい! ままよ)
オリヴァは覚悟を決め、目を瞑り蓋を開けた。だが、オリヴァの予想に反し箱から驚くような仕掛けは返ってこなかった。
瞑った瞳を開く。そこには二つの人の肌色をした仮面が入っていた。
「キルクがお前のために作らせたものだ」
仮面と表現したが、完全か仮面ではない。顔半分を覆った仮面だ。
「スナイル国の海で取れた貝で作られている」
「貝ですか」
キルトシアンの言葉につられ、仮面の裏側を見た。室内の光に照らされ、内側は虹色のように徐々に変わる色をしている。内側をなでると、主に似た硬さを感じた。
「その厚さを見ればわかると思うが、かなりの年代物だ。それに手を加えるなど簡単なことではない」
彼女が言う通り、仮面の厚さは青年男性の親指程の厚さだ。それだけの厚みのある貝を、オリヴァの顔に合うよう切り取られている。この仮面の作り手はいつオリヴァの顔を見たのだろうか。オリヴァの平べったい頬。頬の下に根付いている頬骨を見通し、骨に添い、緩やかな縁を作っている。縁の曲線は、上唇の上まで線は降ると、また緩やかに頬骨のてっぺんに向かい線は伸びていき、ぐるりと大きな曲線を描く。そして、顎関節を回り、細い顎へを伸びていき、顔の輪郭を作っている。
「まぁつけてみろ」
王妃の命に侍従は従う。二つの顔半分を隠した仮面。二つの差は、口元が開いているかそうではないか。彼は口元が開いた仮面を手にし顔に当てる。耳の部分には紐が通されており、後頭部で締めることが出来た。
「苦しくないか?」
王妃の問いに従者は首を横に振る。苦しさなど全くない。恐ろしいことに、この仮面はオリヴァの顔に密着している。貝の重みを感じてもそれ以外の苦痛は一切ない。
オリヴァの目元にキルトシアンは安堵し、息を漏らす。
「それは良かった。キルクは腕の良い職人を探していたからな。アレも喜ぶ事だろう」
彼女はそう言うと、もう一つの仮面を手にとった。口元が開いていない仮面は、薄い微笑を浮かべている。仮面とオリヴァをチラチラと交互にみやり、彼女はクスリと笑った。
「この仮面はお前にちょうど良い。笑わぬ男にはもってこいだ」
そう言うと、微笑を湛えた仮面を片手で持ち上げオリヴァに見せた。
「言いたいものには言わせておけば良いでしょう」
仮面越しでも、彼の声はよく聞こえた。キルトシアンは仮面の男の答えに鼻で笑う。
「バカを言え。笑顔は人間を騙すのだ。勉強になったか?」
キルトシアンの一言にオリヴァは何も返さなかった。
「オリヴァカ。何故キルクがお前に仮面を。と思わなかったか」
キルトシアンは再び舐めるようにオリヴァの目を見つめる。もう語り合うのは、彼と彼女のみだ。
「私もキルクも知っておる。その頬肉のせいで不浄だの色々と言われておるのだろう」
「特段、何も思いません」
「あぁ。お前はそうさ。だがな、キルクは違う。キルクはお前を自分の変わりにトリトン村へ生かせた。その結末がこれさ。積みと咎を背負わせた。自分の失敗をお前になすりつけ、お前は常に陰口を叩かれる。よいか。お前に投げかけられる陰口はキルクを責めている事と同義だ。お前が違うといってもそこは変わらん。周囲は、お前を通して、キルクを責めているのだ」
キルトシアンはそう言うと鼻息を鳴らす。
(王を知らぬ者だから背負うのだろうな)
彼女の大きな目は非難がましく見えぬ主人と従者を写しこんでいた。
「この仮面は、トリトン村での働きに対する対価であり、キルクがお前に対する贖罪だ。お前も、キルクを責められたくなければ、自衛をしないと意味は無いぞ」
オリヴァはキルトシアンの説明に抑揚なく「はい」とだけ答えた。
「でもまぁ。仮面を渡すという考えは悪くないな」
そう言うと、キルトシアンの口調は穏やかになった。
「お前の顔にあるのは刀傷ではない。肉が張り付いているんだ。それを気色悪いと思う人間は正常な人間だ。そういう人間が不快にならないよう、マナーとして顔を覆うことは間違った選択肢ではないと思う」
キルトシアンはオリヴァに「外せ」と命じた。オリヴァは彼女に言われるがまま、後頭部に手を回し、仮面を外した。
彼女は、オリヴァの手から仮面を受け取ると、天井に掲げ、虹色に光る仮面の内側を見つめた。
「この仮面は、白い宝石をうむ貝から作られた。ヨナンでは魔除けの貝と言われてな。親や子供に初めての誕生日にその貝の破片をプレゼントするんだ」
彼女はそう言うが、実物をオリヴァに見せることはなかった。
「そういう意味では、この仮面は魔除けの仮面だ。魔獣がお前を食い尽くさないように。周りの人間がお前を呪い尽くさないように。送り主の祈りがこめられている」
彼女は裏面を愛おしそうになでると、仮面を箱の中に収納した。
「というわけだ。オリヴァカ。キルクからの贈り物を大切にするのだぞ」
彼女は不敵に笑い、オリヴァに背を向ける。
ドアノブに触れ、外へ出ようとしたが、思い出したかのように振り返る。先ほどと変わらず、意味ありげな笑顔を浮かべ口を開く。
「オリヴァ。王を守りたくば、お前が剣となり盾となれ。その仮面は魔除けの仮面だろう。王から魔を払い、自由に従者に会いにこれる仕組みにしてやるのがお前の仕事じゃないのか?」
それだけを言うと、キルトシアンは外に出た。足音は一つから二つへ。そして、その足音が聞こえなくなった頃、再び赤い箱を開けた。
貝で作られた二つの仮面。仮面を手に取り、顔にはめる。オリヴァはこの職人が誰であるか薄らと気づいた。キルクが彼に仮面作成を依頼した時の気持ちを思うだけで自分の顔に張り付いているモノが動き始める気配があった。
「魔を払い、王を守る」
オリヴァは自分の頬に触れた。
「私は人か」
「お前は魔獣か」
無機質な部屋に二つの声が響く。二つの黒い瞳が異なる輝き方をしていた。血で汚れた手は、たった一つ。シンプルに物を乞う。
「フジョウの片隅で生きるモノに光を」
天高く輝く月。貝から生み出された玉と同じ色をしていた。
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