初夜編 サヨナラになる前の遊戯08

筆頭侍従補佐に降格しても、仕事内容は変わらない。コルネールが請け負った筆頭侍従の仕事はそのままオリヴァに横流しされる。だが、コルネールは仕事を選り好みしているようで、オリヴァが担当しているのは、表舞台に立つことの無い影の薄い仕事ばかりだった。結果、仕事量は減った。仕事が終わり自室の床で死んだように寝ることはなくなった。

今ではこうやって星の剣に触れる余裕がある。彼が読んでいるのはトリトン村へ赴く前に借りた星の剣。返却日はとうの昔にすぎている。その事実を知ったのは五月蝿い役人ベルの警告だった。


「審議の末、無事に筆頭侍従に昇格できなかったオリヴァ・グッツェー様。貴殿が、当館より貸出をうけた星の剣の返却日を大幅に過ぎております。約束を守らない人間のクズとも言うべき所業。ハナタレ小僧でも守れる人間のマナーが守れないクソ以下の存在に声をかけるのは人間として屈辱ではありますが、当館貸出剣確保のためです。甘んじて受けましょう。可及的速やかにお返しください。それでも返却の事実が確認されない場合、誠に遺憾ながら最終手段を講じます」

「最終手段とは?」


役人の言う事だとオリヴァは鼻で笑った。その態度を見て役人ベルは淡々とした口調で答えた。


「キルトシアン様とフィオレンティーナ様に、オリヴァ・グッツェーはトリトン村で年端もない女の子に『お兄さんと初夜権の練習をしよう』と言って手を出した。って報告してやる。そういう事実をお望みであればね。」


ベルの目は真面目だった。透き通る黒糖の飴玉を思わせる目。瞬きをすると、飴玉の中からトロぉトロぉと生暖かい蜜が感情として溢れ出す。黒糖を思わせる蜜は汚泥だ。人の未来を同じ色に染め上げる猟奇的な蜜。

瞬き一つ。オリヴァの脳裏に暗い未来が浮かび上がる。彼女ならやりかねん。さもありなん。彼は彼女から目を逸らし降参と両手を上げる。


「わかった。わかった。明日返す」

「きちんと返してよ。この変態」

「私は変態ではない」

「で、あんた、星の剣を読む趣味なんてあんたにあったの?」

「さぁな。星の剣は、脳を耕すという意味では意味があるぞ。そういう意味では星

剣に触れていたが」

「いたが?」


薄らとだが、オリヴァは自分の裡にある変化に気づいた。王都に戻り、自室に放置されていた星の剣の物語に軽い気持ちで読んで見たところ、自分の肉体を現実に押しとどめ、意識が物語に潜っていく瞬間ののめり込んでいった事に気づいた。

世界が

人物が。

誰一人として自分を裏切らない。そういう世界に満たされていた。

しかし、自分が楽しんでいるのではなく、自分の裡に潜むもう一人の自分が楽しんでいるのだ。

オリヴァはあえて、それを説明しなかった。逃げるように「明日返す」とだけ伝えると、ベルから離れ、自室に篭った。

彼が触れている星の剣は「運び屋ディルモット」

運び屋ディルモットと依頼人の少年アールスタインの物語だ。

「物を運ぶ」というディルモットの仕事を通し、アールスタインは世界を知る。世界の美しさ。人の温かさ。魅了される強さ。人を守る背中の大きさ。

きっと、アールスタインだけではなく、偏った世界しか知らないオリヴァも、物語を通じ、自分の知らない世界の一面を知る事ができた。

物語は佳境に入る。運搬中の「魔臓器」が悪漢ティーチに奪われた。ディルモット達は魔臓器を取り戻すべく、ティーチを追いかけ灯台まで追い詰める。しかし、魔臓器は暴走し、ティーチは魔臓器に侵食されて同化してしまった。ティーチを守るように佇む巨大なブルーウルフ。身の丈以上のブルーウルフにディルモットはどう立ち向かうのか。成長しつつあるアールスタイン。深まっていく物語にオリヴァの心は踊っていた。

よほど物語に夢中になっているのだろう。扉からコツコツと響く音も耳に入らない。星の剣に刻まれている場面をめくり、一つ また一つの物語の深みに入って行く。

ディルモットに、巨大なブルーウルフの大口が迫る。あぁ。飲み込まれる。そう思った時だった。


「オリヴァ」


耳元で低い声がする。


「ひゃひぃ」


不意にかけられた言葉にオリヴァは素っ頓狂な声をあげ反応した。座ったままだが、少しだけ浮いた。突然の事に驚き、顔を赤くさせた彼は、失態を恥じるよう、声のする方を振り返る。

目に飛び込んできた人物は意外な人物であった。

気だるそうな表情を浮かべ、耳までかかった黒髪を煩わしそうにかきあげる。薄手の藍色のストールを首に巻き、糊の利いた白いシャツとズボンに身を包んでいる。何よりも特徴的なのは、色白の肌に深く刻まれた一本の皺。


「キルク様」


彼は主人を見上げる。

キルクは、オリヴァの顔をじっと見つめると、硬く結んでいた表情を解した。無表情に近いが、彼は安堵した表情を浮かべている。オリヴァが王都を去った七日間。彼の表情は厳しく思いつめた表情を保ったままだった。それ以外の表情は一体どんな表情だったのか思い返せなかった。今ですら、安堵しているのに、オリヴァに安堵している表情を浮かべているのか自信がない。キルクは顔を下げる。オリヴァの顔を見た途端、情けなくなった。


「すまない」


震えるキルクの声にオリヴァは察し、「違います」と声をかけるも、キルクは首を横に振る。


「お前が死ぬかもしれない思いをして戻ってきたのに、褒美一つ与えられない」

「褒美欲しさに行ったのではありません。私は、与えられた任務を果たしにいったのです」

「任務を果たした者に、何故褒美を与えられないだ。命をかけた者に無礼であろう」


 キルクは、膝をつき頭を抱えた。取り乱した主人の姿にオリヴァは慌てて駆け寄る。


「キルク様、良いとは言えませんが仕方のないことです」

「仕方がない? 仕方がないで済まされることか」


キルクはそういうと、オリヴァの顔を両手で包んだ。汗ばみ、熱を帯びた手のひらは、オリヴァの氷のように冷たい頬を溶かす事はできなかった。


「こんなになったのに」


蛇行する青緑色の線が透けて見える薄い皮膚。人間の領域外 魔獣の皮膚だ。

キルクは部下の顔にどうしてそのようなモノがへばりついたのかイヤという程聞かされた。親友の受難に頭を抱え、腹心の部下へ補償すら叶わない。その立場に落とされた事を想像するだけで身の毛がよだつ。思えば思うほど、彼に言葉を投げかけた。


「怖かっただろう」

「苦しかっただろう」

「どうしようもなかっただろう」

「一人で、寂しかったよな」


鼻の奥に沁み渡る程主人の声は優しい。人の痛みに寄り添おうとする気持ちがにじみ出ている。顔をぎこちなく崩し、嘆いている顔を作りたいらしいが、うまくいかない。オリヴァは目を閉じた。そうやってオリヴァに声をかけたのは二人目だ。


「キルク様」

「オリヴァ」


オリヴァは目を開き、目尻を垂らす。必死に堪えていたものが乾いた音を立てて崩れていく。胸の中でピーンと張っていた感情の糸。理性的であろうと努めていた心の堰。オリヴァが抑圧していた感情がようやっと解き放たれたのだ。


「怖かったです。苦しかったです。何も分からなくて、どうしようもなくて、本当に逃げ出したかった」


彼の目尻からポロポロと感情の塊が溢れ出す。手甲で雫を拭う事もせず、内側から溢れ出す感情に身を委ねた。


「村が怖かった。人が怖かった。魔獣の心臓を食らったという事実。人間の道を踏み外した時、もう貴方の顔を見ることはできないと思いました。顔に魔獣の皮がへばりついた。とわかった瞬間、自分はこれから終わっていくという事に気付かされました。人間じゃなくなるって。その事実に耐えられない。気を許せば内側に巣食う魔獣が私の体と心を乗っ取ろうとする。それは、今でもわかるんです」

「オリヴァ」

「でも。でも。私はキルク様、こうして再び貴方の話せて。やっぱり思いました。私は、貴方の傍で筆頭侍従として役に立ちたい。私はまた筆頭侍従に戻れるなら貴方の傍で働けるなら」


涙だけではなく鼻水も垂れ始めた。オリヴァはズビズビと鼻を鳴らし、くしゃくしゃな笑顔を浮かべた。


「どんな形でも受け入れます。例え筆頭侍従に今戻れなくとも、貴方がもう一度、自分の信念で幼馴染という枠を取り払い、私が筆頭侍従に相応しいと思ったのならば、もう一度私を戻してください」


オリヴァはキルクの手を頬から剥がす。彼の手は主人と同じぐらい熱い。心もだ。人の温かさを帯びている。キルクは、彼の温かさを人間の証拠だと思った。けれども、その感情は口に出さない。人間でなくなりつつある。この事実に打ちひしがれている者に「人間だよ」と口にするほど残酷なことはない。

キルクはオリヴァの手に自分の手を重ねた。


「約束する。お前を筆頭侍従に戻す時期が来れば、私は必ずお前を戻す。そして、私とお前と同じ者を作らないことを約束しよう」


キルクの力強い目にオリヴァは目を細めた。久方ぶりに叶った主人との語り合い。心の奥底から語り合える幸せに唇を噛み締め幸せそうに口角を緩める。感情を吐き出したせいか、心は晴れ晴れとしている。キルクが、オリヴァに誓った約束は必ず果たされると証拠もなく信じる事が出来た。オリヴァの手を包み込む手の温かさか。いや、それは痛みを知り痛みに喘ぎ続けている王である事をオリヴァは知っているからだ。


「私にもその手伝いをさせてください」


星の剣が輝いた。夜空に輝く星は、新しい物語を見た。

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