初夜編 サヨナラになる前の遊戯04
「あぁ」と彼は思った。その答えは、予想しえた答えである。否、それで良いとすら思った。何も成しえなかった自分が、その場にいる事は不適格。与えられた結論に、彼の心は酷く震えていた。
「弟の名誉の為に言っておく。キルクは、君の行動を重視し、筆頭侍従に戻すよう強く主張していた。コルネールも近しい言葉で言っていたな」
ハシムの声と共に、表情を変えず、淡々と、オリヴァの功績を語る主の姿が瞼の裏に写りこんだ。コルネールもオリヴァとの約束を違えぬよう勤めたに違いない。
(キルク様。私は、貴方様の期待に応える事ができませんでした。お許し下さい)
オリヴァは心の中で謝罪する。トリトン村での任務。自分で納得がいかないのならば、他人の下す内容がそれ以上ということはありえるだろうか。いや、ない。だから、彼は心の中で謝罪する。主の期待に添えなかった事実が、今はとても悲しいのだ。
「顔を上げよ。オリヴァ・グッツェー」
オリヴァの謝罪は中途半端に終わる。もう一人の主、ハシムの声に従い、言われるがまま顔を上げる。
「はい」
臣下の声に、ハシムは笑った。
「我の質問だ。お前の頬肉は生きているのか?」
ハシムが全てを言い終えるより先に、彼の手が動いた。オリヴァの耳元で、空気を裂く乾いた音が響く。何の音か。と確かめる前、口腔内に違和感が捻りこまれた。違和感の正体を確かめるべく、舌を動かすと、ビリリと痺れ、じんわりと重たい液体が唾液に混ざる。眼球を動かすと、右頬に刃の薄い短剣が刺さっていた。
「ほぉ。
ハシムは口笛を鳴らし、嬉しそうに口を開いた。投擲が苦手な彼が珍しく的を射抜いたのだ。その喜び方は、お遊戯で賞をもらった子供のようである。ニクラスは「お見事」と声をかける。周囲の大臣達もニクラスの声につられ、彼の偉業を拍手で褒め称えた。
「面白いものだな」
そう言うと、ハシムはニクラスから新しい短剣を受け取り、反対の頬目掛けて投げる。しかし、今度はオリヴァの頬を掠めただけで大した傷にはならなかった。
「む。今度は失敗だな」
「ハシム様は人間です。失敗はありますよ。ハシム様」
ニクラスのフォローにハシムは肩を竦めて返答した。ハシムは、オリヴァの後方に落ちた刃を拾い上げる。オリヴァの横を通った時、彼は、右頬に刺さった短剣の柄を強く掴んだ。ドアノブを捻るよう、柄を
「すまないすまない。興味が先走りすぎた」
ハシムはそう言うと、柄から手を離し、オリヴァと同じ目の高さまで腰を落とす。
「うめき声を上げたな。血は流さなくとも痛覚はあるのか?」
喋ろうと舌を動かした。動けば、口腔内に鎮座する刃が彼の舌を傷つける。口を閉じれば、刃が口蓋を傷つけるおそれがあった。頭の足りないイヌのように口を開く。口の端から溜まっていた唾液がダラリと流れ落ちる。「うっうっ」と呻くような声を上げる度、脚の隙間に唾液のたまりが面積を広げていった。
「言葉も上手く喋れないのか。まぁ、仕方があるまい。刃を口に突っ込んで話す度胸など、この人間にはあるまい。だがな」
ハシムは青白い肌に指を押し当てる。
「魔獣は別であろう。コレの頬肉は特別だ。我の知的好奇心は高ぶるばかりでな」
ハシムは本当にオリヴァの頬を撫で回し
「酷く傷つけたくなるのだ」
ハシムの手が再び短剣に触れる。今度は、反対方向へ刀身を回し、肉をねじ切るのだ。肉がそぎ落とされる感触にオリヴァは眉間に皺を寄せて声を上げる。痛覚ではない。心臓を締め上げるような恐怖と違和感が擬似的な痛みを呼び起こす。脳が、痛みを誤認し、身体に侵襲行為を過剰に知らせ、肺が見えない大きな手でシェイクされる。息をすれば心臓がキィキィ悲鳴をあげる。恐怖で、尻の割れ目にヒャンヤンと冷風が注ぎ込まれたと錯覚した。王に何故、このような事をされなければならないのか。耐え難い苦痛を感じていた時だった。
突如として、頬肉の表面が叩かれたように熱を帯び始める。オリヴァの魂の一部が、ドロドロと粘り気のある炎が立ち上がる。炎の揺らめきに呼応し、
(魔獣が怒ってる)
魔獣は、漣を立て、皮膚を逆立てた。目の前にいる人物を敵とみなし、敵意をむき出しにする。目と合わない口の動き。オリヴァの変化に、ハシムは手を叩いて賞賛した。
「すばらしい。そうだ。我は、このような反応を見たかったのだ」
ハシムはそう言うと、オリヴァの頬につき立てていた剣を抜き、オリヴァの頬につき立てた。穂先がアヌイの中に埋め込まれる。だが、アヌイは埋まった剣先を跳ね返した。思わぬ抵抗に、ハシムは別の部位目掛けてきりつけた。それでも同じ。アヌイは刀身を掴むと、跳ね返すのだ。王とアヌイの攻防。見ている者は、前者の加虐行為にしか見えないだろう。しかしながら、そこには、確かに敵意と敵意のぶつかり合いが存在していた。
「だが、所詮は肉。丸腰で何も持たぬ魔獣ができることなどたかがしれておる」
最後は、力の差である。ハシムはアヌイが剣先を掴むより早く、短刀を深々と突き刺した。アヌイが渾身の力をこめて引っこ抜こうとしても、深く刺さった剣を抜くには、余にも肉の力は非力だ。
「うぐぅ」
オリヴァは前屈みになり、頬に手を当てる。一滴も流れない血。人肌以上の熱を帯びる肌。警笛の如く鳴り響く不快感と、グツグツと仄暗い心の底から這い出る熱情。自分と他人が、肉体の中で再び激しくせめぎあう。
「怒ったか?」
曲げていた身体を伸ばし、彼は首を横に振った。
「まさか。そのような事」
「お前ではない。我は、その肉に聞いておる」
王の言葉は端的であった。現在、彼の興味はオリヴァにはない。彼の
一つ 心臓が力強く脈を打った。
二つ 心がキリキリとせわしなく動く。
三つ 自分の認識がふとあいまいになる。
オリヴァの中にある自己が一つ蝕ばわれた。
口角がニィと釣り上がり口の端が動いた。声帯は震えない。声帯はオリヴァの領域だ。アヌイに認められし新しい領域は口角のホンの一部。その些細な領域で十分だ。口の動きでアヌイは王の質問に答えた。「痴れ者め」
「ハッ。ハハハハハ」
臣下、いや、生き物の声は王に届いた。王は自分の咽を両手で絞り、こみ上げる破壊衝動をヒッシニ押さえ込む。目をグニャリと歪め、王は、臣下と生き物を前にし、高らかに声をあげた。
「オリヴァ・グッツェー。魔獣を心臓を喰らいし、人ならざる者」
「おそれながら、私は――」
舌の皮を切り、血が混じった飛沫が同じ色の絨毯に落ちる。こみ上げる感情に気づき、慌てて頭を垂れるオリヴァ。しかし俯くことは許されない。ニクラスは「顔を上げよ」と鋭く叱責し、動揺する彼の顔を自分と、その背後にいる政敵達にしかと曝け出させる。
「否定はさせんぞ。魔獣の駄肉を従わせている者が人間であるものか。このバケモノどもめ」
嘲笑を浮かべ、声を上げる王。その姿は、トリトン村にいた領主と非常によく似ている。領主コンラッドは、オリヴァをバケモノと言っても、彼の有するであろう力に一目置いていた。
一方、ハシムは違う。彼は、オリヴァの力も存在、全てを罵倒している。
身体を傷つけ、名誉を傷つけても、決して倒れることは無いオリヴァの性格を知っている。そんな人間を屈服させたいのだ。絶対的地位から振り下ろされる権力・暴力の一部を見せつけ、どれぐらいで彼が地に伏すのか。過程が楽しくて楽しくて仕方がない。オリヴァが手にした魔獣の力。圧倒的な力を手にした邪魔者の膝をつかせたい。その為ならば、彼は手段を問わないのだ。
「なぁ。オリヴァ・グッツェー。私は不安なのだよ。お前のように人間とは違う力を持った生き物が、暴走し、我のかわいいかわいい弟がいつ殺されるのかと思うとなぁ」
「ハシム様。そのような事は決してーー」
「無いといえるのか? お前は、本当に無いといえるのか? そうやって我に歯向かおうと肉を逆立てている魔獣を貼り付けておきながら、無いといえるのか? 説得力はないぞぉ」
ハシムの言葉に、オリヴァは息を飲む。太ももに密着している震える手のひら。大きな雫を溜め込んだ手のひらを太ももで拭い、頬を隆起させた。
「承知致しました。それでは、私の顔に張り付いている肉の不敬を罰しましょう」
オリヴァは、犬歯をむき出しにしたまま言う。
「この肉体は私のものです。私が、魔獣を律する者である事を今、お見せ致します」
オリヴァは目をつぶり、ハシムが頬に突き立てた短剣を抜く。そのまま、べったりと張り付いた憤怒の頬に切りつけた。
突然の自傷行為に、ハシムとニクラス以外は驚いた。かつての彼ならば、言葉をでハシムに取り繕った事であろう。けれども、彼は自分の体を傷つけ、キルクとハシムに害意がない事を見せつける。自傷行為をしたから害意がない。という証拠にはならない。しかしながら、オリヴァのキルクに対する忠誠心は王宮内で有名である。あえて自傷行為をし、魔獣の動きを律する事で、肉体の支配権は己にある。過去の実績から、認めてもらう他ないのだ。
縦一文字。
血は流れない。オリヴァも痛みを感じない。しかし、アヌイには効果はあった。
オリヴァが自分を攻撃した事に驚いたのだろう。また、このような行動に出るとも思っていない。オリヴァの代わりに怒ってやった。にも関わらず、この仕打ちだ。心を蝕んでいたアヌイは、オリヴァの心の底へ沈んでいく。傷つけられた事で彼女はオリヴァに興味をなくした。自分の領域を増やせた事を良しとし、アヌイは表舞台から姿を消す。
逆立てていた肉の動きは止まり、毒々しい赤色の頬は、青白い頬肉に変わる。
見え隠れしていた犬歯の姿はかけらもなくなった。
オリヴァはため息をつき、目を開く。
「ハシム様。お分かりいただけまーー」
オリヴァの声は最後まで紡げなかった。
「見よ。頬の傷を」
ハシムの甲高い声。アヌイの気配が去っても、魔獣の力の余韻は感じていた。頬がぬるま湯に使ったように心地よい。魔獣は、獣の聖剣から生まれた生き物。聖剣使いに、不老の力を与えるのならば、聖剣に近い生き物の魔獣にも似たような力はある。
傷口から這い出る白い糸。頬肉につけられた傷を無数の糸が修復していく。それが、聖剣が魔獣に与えた力の一つである。
そして、オリヴァが異端とされる原因の一つでもある。
人ならざる力を前にし、観客たちは、純粋な感想を口にする。
「不浄だ」
「魔性だ」
「化け物だ」
大臣達の言葉をハシムは否定しない。唇を噛み締め、感情を堪えるオリヴァの姿を見て、ニヤニヤといやらしい表情を浮かべる。屈辱に堪える表情が、とても心地よい。朝食で口にした砂糖菓子より、甘く心の底。股座が熱り立つ程の快感を与える。気分が高ぶる。荒れ狂う感情に身を任せ、ハシムは王としての要望を口にした。
「本当に気持ち悪い。いくら忠誠心が高かろうと、人ならざる不浄な男。やはり、我の愛するカワイイ弟の傍においていくわけにはいかない。我は弟のように博愛主義者ではないのだよ。いや、本音を君には王宮から出てもらいたい。バケモノの皮を被った人間が、いつ私の弟。信頼している臣下達に手をかけるかわからないからな。なぁ。ニクラス」
「はい。ハシム様。オリヴァ・グッツェー殿は単身で魔獣討伐に行くような男です。その対価として魔獣の心臓を喰らい、魔獣の力を得たバケモノと言っても過言ではありません。そのようなイキモノが、キルク様を手にかけないと誰が保障しましょうか」
「そうだろう。ニクラス。キルクには申し訳ないが。なぁ。我の本当の気持ちは偽れん」
それが、王の本音だ。王の本音 要望を聞いてしまえば臣下の大臣達は忖度しなければならない。若くして筆頭侍従に上り詰めた男が、人の道を踏み外し王に罵倒されているのだ。口元を手で隠し、値踏みするようにオリヴァの顔を見つめる。煮え湯を飲まされた忌まわしい男の顔をこれから見なくて良いと思うだけで大臣達の気持ちが晴れていく。ハシムと同じように目を細めた。
「ハシム様」
「王の許可なく口を開くのは不敬である事を忘れましたか? オリヴァ・グッツェー」
ニクラスはオリヴァに敬称すらつけなくなった。飄々とした彼の表情は、オリヴァの声一つで醜く歪む。「まぁ良い」と制するハシムの声に、ニクラスは意外そうな顔を浮かべる。だが、すぐにオリヴァに注ぐ視線は鋭いものとなった。
「恐れながら。私が王宮を追い出される理由が、役人として。王の臣下として能力が足りないのであれば、王宮を去りましょう。それは致し方ない事。王の力になれぬ私は、必要ありません。しかしながら、私が王宮を去る理由が、魔獣の肉を貼り付けているから。という理由であれば、納得はいきません。少なくとも、私は、ニクラス・シュリーマン筆頭侍従より有能で、王に仕える事が出来ると自負しております」
毛を逆だてるのはニクラスの方だった。感情を抑えきれず目を見開く。声を荒げないのは、隣にハシムがいるからだ。衝動的に腰に下げている剣に手が伸びる。しかし、彼もオリヴァと同じだ。若い武官出身の筆頭侍従。大臣達はニクラスを値踏みしているのだ。既のところで理性を取り戻したニクラスであるが、大臣達の冷ややかな視線は、彼の心に大きな爪痕を残す。
「ニクラスより有能というのは、どういう事だ?」
「はい。私、オリヴァ・グッツェー。キルク様が王子の位に就いたと同時に筆頭侍従に任命された人間です。キルク様からの信頼は他の誰にも負けない。えぇ。筆頭侍従の位にいたのです。疑義を呈されることも無かった。イヴハップ王の死までは。この場にいる方々は、私が旅立ちの儀を穢した。という理由で筆頭侍従の職を解いたとしても、私がキルク様の信頼が足りない。無能である。という理由では解雇していないのです。私は、その言葉を支えにし、トリトン村での任務に携わりました。例え、魔獣の心臓を喰らい、人ならざる力の一片を手にしたとしても、キルク様 ハシム様にお仕えすべく、私の目は世界を捉えて戻ってまいりました」
オリヴァは唇を歪めた。それは、本人の意思による笑みである。
「ニクラス様もお聞き下さい。これが、筆頭侍従というもの。私が貴方より優れており気づかない点をお話しましょう」
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