初夜編 夢魅る少女じゃいられない11

「センセ。センセエ」


 誰かがエイドの名前を呼ぶ。瞼が重い。深いまどろみの中を漂っていたいと思うも、声は許さなかった。エイドの体がゆさゆさと、軋む音と同じリズムで揺さぶられる。背中を丸、人肌に包まれる心地よさに口元が緩んでいく。このまま目を瞑り続ければ、嵐は過ぎ去る。だから、彼の睡眠を邪魔する声に、目を瞑っていろ。そう自分に言い聞かせた。


「センセェ。そろそろ起きてください。センセェはお医者さんでしょ」


 乳臭い声がもう一度彼の耳にかかる。「お医者さん」その一言で彼の目が「カッ」と見開かれる。


 彼の視界に世界が飛び込んでいた。

 灰色の母衣が貼った低い天井。狭い屋内にはベットが隙間なく敷き詰められている。ところどころ、火が灯されているが、絶対的に数が少なく、屋内は薄暗い。

 何日も体を洗っていない不衛生ですえた匂い。血と泥、消毒液が混ざり合った脳みそを鷲掴みにする臭気。

 そこは、彼が知っているトリトン村の診療所ではなかった。


「ここは?」

「あら。まだセンセェの頭は眠ったままですか?」


 同じ女の声だ。女性は、母衣と同じ色の服と、フードを頭から被っていた。


「君は?」

「もぉ。センセェ火どぉい。私の心が傷ついちゃう」


 女性はそう言うと、右腕の腕章を見せた。


「医者のセンセェがいるなら、看護師の私がいたって、おかしくないでしょう?」


 彼女が言うとおり、右腕の腕章は、看護師を示す黄緑色の布地に横たわる蛇が描かれていた。


「そして、ここは野戦の診療所」

「野戦。と言うことは、戦争ですか? どことどこの戦争なのですか?」


 女性は目を細め、白いてを鼻の下にかざした。


「おかしなセンセェ。決まってるじゃないですか。スナイル国とヨナンですよ」

「馬鹿な」


 エイドは目を丸くし、食ってかかるよう女性に言った。


「スナイル国とヨナンの戦争は終わったはずです。10年戦争の真似事なんぞ、国が許すわけがない」

「知りませんよぉ。でも、スナイル国とヨナンは喧嘩中です。だから、患者さんたちはいるのですよ」


 そう言うと、彼女は自分の手を後ろにやる。敷き詰められたベットには様々な人間がいた。五体不満足。眼球を失ったもの。包帯で腕を吊るしているもの。虚空を見つめ尿を漏らしている者。

 エイドは「馬鹿な」と言葉を漏らす。彼女が言うとおり、ここにいる患者は戦争の負傷者と言った傷病の者たちばかりである。


「冗談でしょう。スナイル国とヨナンは休戦状態だ。イヴハップ王の妹気味と末娘。ヨナンの娘 キルトシアンを交換して、我々は平穏を約束したはずです」

「何ですか? それ。どこかで星のつるぎでも読まれたのですか?」


 彼の困惑を、彼女は愛おしそうに見つめる。ささくれ一つない手で彼の頬に触れた。


「面白いセンセェ。じゃぁ、私もお話しましょう。ここはですね。ヨナンとスナイル国の国境。戦争の火薬庫。ビメジン村。先生は、兵士さんとビメジンの方々を治療しようという崇高な思いを胸に抱いてここにきたのですよ」


 看護師はエイドを落ち着かせるよう、横たわる彼の胸元をトントンと規則正しく叩いた。


「センセェは優しい人です。センセェの献身的な姿に皆感謝していますよ」


 彼女は笑っている。慈愛に満ちた表情で彼女は彼を見つめていた。痛みに呻いている患者の声が彼らに届いていても、彼女は笑顔を浮かべたまま、彼から離れることはしなかった。


「患者達が呻いている。彼らの事を教えていただけませんか?」


 エイドの問いに女は答えた。


「はい。まず彼ですね」


 彼女は顎を動かし、患者を示した。彼は、色黒で屈強な体をしている。体はとても大きく、それこそ戦場では彼のような人間は重宝されるに違いない。


「彼はジェフ。腕がちぎれてしまった患者さんです。あとで、音の剣を足に刺しておきますね」


 エイドの頭に、鈍器で殴られたような衝撃が走る。その名前を聞いただけで震えが止まらない。ジェフという患者はトリトン村の大工ジェフェットによく似ていた。目を凝らせば凝らすほど、些細な皺一つ。大工のジェフと同じである。ジェフは白いタオルを噛み締め怯えた表情でじっとこちらを見つめている。濡れたタオルの滴りに紛れ、「うー。うー」と獣のうめき声が聞こえてきた。


「で、あちらで泣いているのがカタルカ。彼は両足がもげてしまいました。なんでも、ヨナンの最新兵器にやられたそうで……。カタルカさん。あれは何という武器でしたか?」


 呼ばれたカタルカは反応がない。彼は、天井を見上げ泣いている。傷の痛みに苦しみ泣いているのではない。言葉の断片から察するに、彼は夢が叶わなかった事に泣いているようだ。自分の世界に入り込み、会話をかわすことは望めないだろう。

 そして、カタルカの姿も、トリトン村自警団員の馭者 カタルカと全く同じであった。


 エイドは可能な限り、目で患者を確かめる。彼らは皆トリトン村の住人に似ている。おまけに、魔獣アヌイに殺された者ばかりがベットの上にいた。


(なんなんだ。これは一体なんなんだ)


 死んだ者が兵士の姿で生きている。エイドの頭の中では、目の前で生じていることが全く理解できなかった。何故 何故と問いても、時間においてけぼりにされてしまう。彼の問いに答えられる者は誰一人としていなかった。


「さて……と」


 看護師は立ち上がり、その場で大きく伸びをした。


「私の仕事はここまでです」

「ここまでって、患者が苦しんでいる。せめて交代に引き継ぐまで、ここにいるべきではないですか」


 エイドの言うとおりだ。医療従事者としての倫理なら、エイドの主張は真っ当なことである。しかしながら、看護師は違った。今までと変わらない聖女の微笑を湛え、彼に答える。


「えぇ。もう少しすれば引き継ぎは出来ますよ」


 彼女の言葉の後、騒々しい音が響き渡る。健気に咲く花も踏みつけ、右往左往している蟻に目もくれない。一目散に、目的地に向かい、まっすぐに走り続ける。ガチャガチャと金属と金属がぶつかる音が聞こえ、その音は、徐々に徐々に大きくなっていく。

 出入り口の布が慌ただしく開かれ、顔を青白くさせた兵士が「敵襲だ」と大声で告げた。


「冗談でしょう。何故、ヨナンが。い、いいや。規則では、野戦病院は不可侵施設。攻撃不可だ。なのに、何故こちらに向かうのですか」

「えぇ。野戦病院ならですね。でも、ここ、野戦病院と知らせる旗すら持たせてもらえない。ゲリラの病院ですよ。そんな場所、相手さんにとっては、本当に病院なんでしょうかね。診療施設なんでしょうかね。旗すら持たせてもらえないのに。そんな場所、病院って信じてもらえるのでしょうか」


 彼女はそう言うと、エイドに背を向け、警備兵の肩を叩く。「落ち着いて」と耳元で囁くと、彼女の手は、空で何かを描いた。一筆書きのようサラサラと描くと、後から赤い線がパッと花開く。花弁は彼女の頬にべっちょりと付着した。大輪の花。彼女は眉一つ動かさず、袖口で頬をそっと拭った。

 フゥとため息をこぼし、被っていたフードを脱ぐ。

 曇天の空。パタパタと風でなびく出入り口。母衣の診療所に弱々しい光が差し込んできた。

 茶色く、大きな瞳が肩越しにエイドを見つめる。光を受け、きらきらと輝く艶やかな金髪。雨期に顔を出すヒマワリの花が似合う顔立ち。その横顔は、彼女が何者であったかを告げる。


「お、お前は、ト、トラーー」

「エイド先生、私のエスコートはここまで。後任が到着したので、あとはじっくり、彼らと悪夢をお楽しみください」

「裏切るのか。トリトン村だけではなく。この国を。こんな時でさえ、お前はまたしても、私の大切な場所を裏切るのか!」

「さぁ、どうでしょうかねぇ。まぁ、そこらへんは彼らとじっくりお話すれば良いでしょう」


 ベルは着用していた羽織りものを脱ぎ捨て、外に出る。彼女と入れ替わる形で、ベルと同じ軍服を着た兵士50名ほどが流れ込む。軍人の波に彼女は消えた。そして、軍人の波はエイドが横たわるベットを取り囲む。目深に被った軍帽。血と泥が付着した紺色迷彩色の軍服。光の乏しいこの中では彼らの表情を肯うことはできない。


「首魁 軍医エイドだな」


 声は女のものである。彼らはエイドの返答を聞かず、彼の体を覆っている麻の布を剥ぎ取った。


「あぁ。間違いない。これは軍医エイドだ」


 別の女の声がした。彼女の声の後、エイドの口から漏れたのは絶叫である。

 エイドは不思議であった。彼は、何度も何度も身体を起こそうと試したが、起き上がることは叶わなかった。何故起き上がれないのか。無理もない。彼は、下腹部より下が綺麗に無いのだ。


「皆の者。用意」


 混乱を漏らすエイドに彼らはなんの反応も見せない。彼らは、リーダーらしき女性の指示に従い、一糸乱れず、同じスピード。同じ角度。同じ位置で帽子のツバに触れる。そして、目深に被っていた帽子を脱ぎ捨てた。

 すると、あれだけ泣き喚いていた彼の動きがピタリと止まる。絶望から驚愕へ。彼は、口をあんぐりと開けたまま、自分を取り囲んでいる者の顔を見つめた。



「おっ。お前……」


 にわかに信じられないと言いたげであるが、仕方あるまい。彼を囲んでいる者の顔は皆同じで、長い黒髪を三つ編みに結い上げている。青白く色素の薄い白い肌。唯一彼等の顔で異なるのは、黒い瞳の者と緋色の瞳の者がいることだ。


「リッ。リーゼロッテ……」


 エイドの一言に、黒い瞳のリーゼロッテたちの眉間に皺が寄る。


「私の名前を知っているのですね。非常に不快です」


 一人のリーゼロッテ。小隊の長らしき人物が口を開く。彼女はリーゼロッテ達の中で一番闇のように昏い瞳をしている。


「リーゼロッテ。不快なのはスナイル国の奴全員だ」


 そう口を開くのは緋色の目をした人物の一人。


「見ろリーゼロッテ。ベットの上にいる患者どもを。あいつら、自分が世話になった軍医が殺されようとしているのに、ベットの上でニヤニヤと笑っていやがる。もう間も無くすれば、イヤでも殺されるっていうのにな。こいつら、人が殺される様を面白い見世物と勘違いしてるんじゃ無いか? どちらにしても、アホな奴らさ。残念だったな。軍医さん。あんたの死は、一生懸命治療した奴らにとってみれば、そういう見世物の動物の解体ショーと代わり無いのさ」

「わかってるわよ。アヌイ。私だって。エイドだって。だからよ。だから仕事は早く終わらせましょう。早く仕事を終わらせて身体を清めたい。ずーっとこんな所にいれば、臭気で頭がおかしくなってしまいそう」


 リゼロっては肩をすくめ、もう一度周囲を見渡す。そして哀れむような目つきでエイドを見下ろした。


「アヌイ。早く終わらせましょう」


 リーゼロッテの一言にエイドは反応した。


「アヌイ……。ロバのアヌイなのか……」


 漏らすようなエイドの一言に一人のアヌイが反応した。彼女の反応の後、アヌイ達は続けて腰に下げている剣の柄でエイドを殴り始める。突如として幕を上げたショーに患者達は手を叩いて喜び始めた。


「誰がロバだ。誰が愚鈍な生き物だって? 言ってみろ。この卑怯者のリーダー目」

「私はアヌイだ。私は二本足で立ってるぞ。そんなロバ、どこにいるか言ってみろ。このクソ野郎」

「人間とロバの区別がつかない奴なんざ早く死ね」


 アヌイ達はエイドに罵声を浴びせる。手を緩めることなく、彼を殴り続けた。その様子をリーゼロッテ達は静かに見つめる。

 暴言と暴力の嵐。患者達は、手を叩きベットを揺らして、拷問ショーを喜ぶ。

 アヌイ達は、仇敵スナイル国のゲリラをいたぶっている事を喜んだ。


(なんと哀れな)


 リーゼロッテは目を瞑り首を横に振る。そして、開いた瞳は相変わらず冥い瞳のままだ。彼女達は口を開く。その口調は、荘厳な儀式を行うような口調であった。


「軍医エイド。貴君の罪状は、知識欲に駆られた凶行。倫理の道を逸脱し、生命の尊厳すら汚辱した事。貴君らの理不尽な実験により、多くのヨナンの同胞が死んだ」

「我らは、怨嗟の代行者」

「我らはヨナン律令の剣。ヨナン倫理の盾」

「軍医エイド、我らの剣にくべられ、盾の錆となれ」

「我らは怨嗟の代行者」

「願わくば。これが悪夢の最後である事を」

「多いなる意思の面前で自らの罪を悔いるべし」


 リーゼロッテ達は剣を抜き、高く掲げた。彼らの動きにアヌイ達は道を譲る。

 エイドの手が震えるように救いを求める。潰された目は光を捉える事はできない。割れた歯はヒューヒューと空気を漏らし、言葉もならなかった。痛覚は鈍り、思考は萎縮する。

 エイドは最後まで混乱の中にいた。埋もれていく現実の砂を顔面で受け止め、じわじわと現実の砂が彼を飲み込んでいく。


「        」


 彼が最後に呟いたのは誰の名であっただろう。リーゼロッテ達から振り下ろされた剣の輝きを、彼はトリトン村にかかる太陽と見た。

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