初夜編 夢魅る少女じゃいられない08

 ベルは、司剣という職に付き、様々な物語に触れた。どの物語にも、教え、未来への意思が含まれている。その一方、物語にはおどろおどろしい願望が含まれている。「こう在りたかった」過去への後悔、懺悔、現実に対する懇恨。物語がこちら側へ手を伸ばす錯覚。

 物語の表と裏。それを曖昧模糊にするのが自分の仕事だと気づくには、少しの時間を要するのであった。


「トランさん」


 エイドがベルに近寄る。彼女の胸元に自分の手を突き出し、何かを差し出すようにジェスチャーをした。


「返してください」


 何を。とはベルは問わなかった。何を返すべきか、彼女は知っている。だが、返すつもりは毛頭ない。あの物語の内容は、小さな村が管理する代物ではない。然るべき部署が管理・保管すべきものだ。そして、この剣は、ベルの仕事で成果物である。成果物を簡単に手放す程、彼女は寛大ではない。として、彼女は頬を膨らませ、右へ左へ。視線をチラチラと泳がせる。


「貴方は言いましたね、コトウの物語の続きを知りたかったと」


 わざとらしい仕草にエイドの口角がわずかに震える。


「えぇ。まぁ」


 ベルは知らないふりをした。今度は頬に人差し指を当て、「意味分からない」と顔で表現する。


「本当に知りたいだけならば、貴女の目的は果たされたではないですか。物語を知れた。ならば、貴女にとってあの剣は不要でしょう。」

「あららのら〜。エイド先生が返して欲しいのって、あの物語が刻まれている剣の事なんですね」


 ベルは手を広げ、物語は所持していないとアピールした。


「でも、どうしようかなぁ。ロサリオもコトウさんの物語好きだし。続きがあると知れば、彼のことだから知りたいって言うだろうなぁ」


 だが、所持はしている。ベルの細まった眼は彼を値踏みした。ベルは腰を捻りながら、悩ましげに言った。


「トランさん。もしかして、貴女、彼が無事だと思っているのですか?」


 含みを持たせたエイドの口調。人を小ばかにしていたベルの表情が一瞬消えた。目を1度2度瞬かせ、彼の言葉の後ろに隠れている意味を推し量る。自分の言葉を振り返り、不用意な言葉はないかと逡巡したが、どれも落ち度だらけだ。


「貴女は領主に抱かれたのに。貴女は外敵王都の人間であるのに。ここの人間が彼を安全な場所に置いていると思ったのですか?」


 ベルの顔から表情が抜け落ちる。饒舌な舌は深い海に潜る貝の如く動きを止め、唇も閂が差し込まれ何も紡がない。


「えぇ。貴女は実におかしな人だ。好いている人であるならば、彼を心配して然るべきなのに」


 仕方ないだろう。彼女は彼に興味がないのだ。


「私なら、心配しますよ。命がすり減るぐらいに心配します」


 ベルは大きな瞳を瞬かせる。


「好いているなら、コンラッド様に抱かれてどうして泣かない。好きならば、他人に抱かれるのは嫌じゃないのか?


 仕方がないだろう。そうする事が彼女のなのだ。


「私であれば泣きましょう。大切なものを与えられなかった事に悔恨しかない」


 ベルは唇を軽く噛んだ。


「駆け落ちをしたのでしょう。トランさん。そこまで愛しているので、どうして貴女は彼を見つめない。彼を認めない。貴女の行動を見ると、ねぇ。思ってしまうのですよ。貴女、実は彼の事好きではないのでは?」


 ベルは何も言えない。もともと、彼女は彼の事を何とも思っていない。「好き」という発言をしなければならないのに、その言葉を置き捨てている。口では経緯を話せても、実情・愛情までは話せない。彼女は唇を噛み締めるしかなかった。自分達の身分が透けて見えてしまった。その理由がこのような初歩的なミスであると。悔しいという感情しか浮かばない。

 彼女は「好き」という言葉を自分の想像以上に大切にしていた。それは、が残っていた証拠である。

 エイドは差し出した手をベルの胸倉に伸ばす。一気に自分の下へ近づけると、顔と顔を近づけ、逃さないよう、彼女の身体をそのまま持ち上げた。


「とうとう尻尾を見せたな。王都の人間め」


 エイドがベルの胸ぐらに手を伸ばす。華奢な体を持ち上げ、そして絶対に逃さぬよう、壁に押し付ける。


「お前だけは。お前だけは、絶対に。この村から生きては帰さない」


 エイドは握り拳を彼女の鳩尾下の窪みに叩きつけた。何も覆われていない腹部。男性のあらんばかりの力を込めた殴打はあまりにも強烈だった。息が一瞬止まり、血の流れも止まる。一瞬、体内がピタリと時を止める。再びカチリと時が動き出すと、血液の通り道にトゲトゲしい痛みの塊が走り抜ける。エイドは何度も何度もベルの腹部を殴りつけた。殴ると痛みの塊は狭い血管内で弾ける。血管の壁を太い針が突く。重い痛みの塊が所狭しと反射する。一箇所ではなく、数カ所、合唱を歌うように痛みが響き渡る。


「痛いですか? 痛いですよね。でも、仕方ないんですよ。貴女、王都の人間ですからね」


 彼は、彼女の反応を楽しんでいるのだろうか。彼は殴る箇所を微妙にずらし、彼女の声を楽しむ。


「ンギっ」


 ベルは目を瞑った。微かな期待は、次に降る暴力に打ち崩される。

 女が声をあげても彼の殴打は止まらない。彼の真面目そうな顔は、時間と共に変化していく。彼女がヒキガエルのような声をあげると、口元が緩んだ。娼婦の喘ぎ声をあげると、口の端から一筋の液体をこぼした。死にかけのロバのような嗄れ声をあげると、慈しむように唇を引き締める。

 どのような表情を浮かべても、彼の心は一つ。彼は喜んでいた。彼女に危害を加えれば加えるほど、彼は、自らの手で彼女の優位性。ロサリオの妻という設定。王都の人間というステータスを奪う錯覚に陥るのだ。略奪・横奪するこの瞬間はまさに至福。彼の暴力はやめられない。止まらない。


「お前は。お前は自分が何をしでかそうとしているか分かっているか」


 投げかけられるエイドの問い。ベルはニィと白い歯を見せた。次の瞬間、米神に鋭い痛みが走る。


「そうか。わかっているのですね。貴女が行おうとしたことは村の基盤を壊すことだったんです。それを十分に理解しておきながら、この村から物語を盗もうとする。ますます許しがたい」


 ベルが物語。いや、初夜権が刻まれた物語を王都へ持ち帰れば、必ずコンラッドはトリトン村領主の地位を失うだろう。エイドにとって、コンラッドは大事な後ろ盾。両親を亡くして以降、コンラッドは彼の親代わりとしてエイドを見守っていた。王都で研鑽が積めたのもひとえにコンラッドの庇護のおかげである。優秀な人材へと成長した彼を、過去の医師と同じように、彼は自分の右腕に据えたのも、コンラッドの存在ゆえ。エイドはコンラッドの大きさを村で一番理解している。万が一、後ろ盾を失えばどのような運命が待ち受けているのか。結末は、どの歴史の物語も同じである。


「王都の連中は何も分かっていない。初夜権を前近代的な風習と言っているが、あれは、私達の大切な儀式だ。コトウの呪い。村を破滅に導く呪いを打破する一つの手段として前の領主達が考え抜いた儀式だ。己の欲望ではない。自衛の為の儀式なのに。何故。何故王都は認めない。どんな事でも、革新的という王都が何故、初夜権だけは頑なに認めないんだ」

「それはね、エイド先生。貴女が初夜権の片棒を担いでいるから見えないだけなのよ」


 ベルが言った次の瞬間、再び腹部から強烈な傷みがもう一度走る。握り拳よりももっと硬い、膝だった。柔らかいボールを蹴るかのようにエイドは彼女の腹部を蹴り上げる。鳩尾目掛けて蹴っているつもりが、蹴りところが悪く、肋骨を蹴る時もあった。体内から不穏な音が聞こえる。ベルは息を漏らすだけで体内がキィキィと肺を刺していく。

 腹を蹴り上げられ、呼吸が止まる。呼吸が止まると、酸素のめぐりが悪くなり、脳への供給も滞る。ベルの脳みそは緞帳を荒々しく落とした。


「おっと。私とした事が」


 エイドの膝の上。ベルは完全に伸びていた。失神した彼女を、彼は乱暴に床に投げ捨てる。鞠のように転がる彼女の身体。


「かわいそうですね」


 哀れむ言葉を口に出し、つま先でベルの胸部を激しく蹴り上げた。

 ベルは激しく咳き込み、黄色の液体を吐き出す。唾液を胃の底から絞り出し、エイドを睨みつけた。


「私も、女の人を甚振る趣味はないのですよ。そこで一つ。取引をしませんか」


 エイドはもう一度ベルの胸部を蹴った。唸りぐぐもるような声。ゲホゲホと咽び苦しむ女。彼女は、赤い絨毯に爪を立てる。


「それが、人を暴行した人間の言う言葉なんて信じられませんよ」

「手段として不適切だとは思いませんがね。一応、貴方が紳士的な対応。物語が刻まれた剣を返してくれるのならば。ロサリオさんがどこにいて。何をしているかお話してあげましょう」


 ベルの髪を掴む。白い顔を更に青くさせ、口の周りは赤やら茶色やら様々な色に染まっている。腕に力を込め上体を上げる。腹部に顔を落とすと、紫黒色に変色した腹部がはっきりと見えた。


「お互い、彼を愛し合うもの同士。助け合うのが筋とは思いませんか?」

「彼を愛するなんて。先生も耽美的な言葉を口にするのですね。でも、残念。彼、貴方みたいな脳みそ筋肉。筋力万歳な人間大嫌いですよ」

「筋力万歳とは思いません。それに、貴女のことです。痛みなんて感じていないのではないですか? 脂肪をこんなに溜め込んでいますし」

「だーかーら。脂肪じゃありません。これは肉の鎧です」


 ベルは痛みを堪え、エイドの手を手刀で払う。足に力をこめ、二本足で立ち上がった。変色した腹部を指しニィと歯を見せる。


「肉体も痛いですが、心も十分痛いです。こんな難癖つけられて」


 彼女の心は暴力に屈しなかった。暴力を過ぎ去る嵐のように捉え、恐れることもせず苦痛に耐え、前を見据える。エイドは彼女の異常なる精神力を、王都にいた研究者を重ねる。

 彼らもまた、中傷・暴言に近い批判を受けようが、「さもありなん」と言った具合に耐え払いのけた。批判を乗り越え、新たな見識を披露する。彼女の姿は、あの研究者達と良く似ていた。

 エイドにとって王都とは、憧れの場所。

 エイドにとって王都とは、捨てられた場所。

 彼を吐き捨てた場所が、形を変え、再び彼の前に姿を現す。


「エイド先生。で、どんな条件なんです? 貴方の提案って」


 ベルが呟いた言葉は、口頭試問でよく聞かされた言葉だった。

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