初夜編 深い眠りから覚めたなら39(最終話)

 どれだけの時間が過ぎただろう。大地には、血と肉が飛び散っている。無理もない。ここでは、一つの命が無残に刈り取られた。

人間と獣の戦いで、勝ったのは人間である。

ところが、この現場には獣らしい死骸はない。あるのは、男女のボロボロな肉体である。

男の顔は、血まみれで、両瞼は青黒く変色し膨れ上がっている。おまけに左の頬肉をごっそりと失い、上半身は無数の青あざをこしらえていた。

一方、女はよりひどい。全身は煤けた黒に変色させ、背中を丸めて縮こまっている。彼女が女だと判別できるのは、胸のふくらみのみである。小さな凸凹が顔全体を覆い、元の顔は判別付かなかった。

何も知らない者が見れば、目を背けたくなる現場である。

耳をそば立てると、生が伺える。スゥスゥと規則正しい吐息。低い寝息は男の音。女は息をしていない。であるならば、人間は男で、獣は女という事になる。

人間の姿をした獣。正しいようで間違った表現である。

生者には安息を。 死骸には深い眠りを。彼らの安らぎを覚まさぬよう、周囲は静寂に包まれていた。

 

「あー。ダメだったか」


 保たれていた静寂は突如として破られる。男とも女とも判別できない声が響くのだ。木の上で動きを止めていたネズミが動き出す。神経質そうに耳を動かし、つぶらな黒い瞳で二つの体を見つめていた。


「やはり今回も辿り着けなかったか」


 言葉の内容とは裏腹に、とても落ち着いた口調である。動いたのは女の体(アヌイ)だ。胎児のような姿勢から、頭をねじり、体を揺らす。口と思しき場所を小さく震わせ、己の存在を知らしめる。


「それでも合格だ。良いものを見せてもらった」


ネズミは不思議そうに女の体を見つめる。女の体は焼け焦げている。炭のような肌から察するに、彼女の声帯も程良く焼かれているはずだ。しかし、声は発せられている。焼け焦げた人間とは思えないほど、清らかで、よく通る声なのだ。彼女の声は、天にも届く事だろう。澄んだ声にネズミは導かれる。木の上に立つネズミは枝の上を走ると、枝先から、口にくわえていた木の実を彼女に向かって落とした。


「私への捧げ物かい? それは良い心がけだ。君の気持ちに感謝しよう」


彼女はネズミの行為を怒らなかった。むしろ、忠義深いネズミを褒めるよう優しく声をかける。閉じられていた瞼が開かられる。そこには、緋色の目ではなく、真一文字に切られた白濁の眼球があった。

白濁の眼球はネズミを捉える。ネズミは、チチチと鳴くと枝伝いにどこかへ消えていった。

消えゆくネズミを見届け、彼女は体をあげ、上体を起こそうとした。しかし、彼女の肉体は内側から焼かれている。体の繊維はブチブチと音を立てて切れ、地についた手は、体の重さに耐え切れず、黒い骨が肉を突き破った。ドスンと激しい音を立て、地面に落ちる。パキパキと体内から乾いた音が響いた。

ゴロンと変わる視界。女の視線は一点を捉える。彼女は再び笑った。知人に会えた喜びで、肉体の壊れる痛みを感じない。それどころか、指を這いずり回る虫のように動かし、感情を表現する。


「おやおや。ボウヤじゃないか」


女は目を細め、オリヴァに声をかける。


「覚えていないかい? 私さ。イヴハップ王の旅立ちの儀で会ったじゃないか」


無論、オリヴァから返事はない。


「あぁ。そうか。肉体が異なるから、ボウヤは私のことを覚えていないさね」


女は肩をすくめる仕草をする。肩は上がったままで、下がることはなかった。


「私は覚えているよ。なんてったって、私は斬られた側の人間だからさね」


女の口元が歪む。笑いたいのだろう。だが、笑い声は出なかった。そのかわり、ドロリとした黒い液体をこぼした。

 ツンと鼻につく異臭。

アヌイの発する臭いが、不衛生な事による異臭であれば、この異臭は、体内の臓腑を抉り出した毒々しい臭いである。思考を奪う、不思議な力を持っている。

女はもう一度黒い液体をこぼす。その中に内臓の一部が含まれていることを知り、肉体の限界にようやく気づいた。


「あぁ。残念。ここまでが限界ね。私はもっとボウヤとお話ししたかったんだけどね」


女は、フゥとため息をつく。肺はバリバリと音を立て、肺門がちぎれ始める。やがて、呼吸が肉体を壊し始めていく。


「アヌイ。わかってるわ。貴方の肉体を借りていたからね。その好意にとても感謝してるわ。だからね、貴方の願いを聞き入れましょう。驕り高ぶった人間と世の不義に聖剣の名による忠罰を与えてほしい。その願い。この獣の聖剣の鞘が聞き入れましょう」


 肉体が壊れゆく中、女はまた言葉を続ける。


「えぇ。私が保証しよう。肉体が滅んだとしても。貴方の願いはきっと繋がれていく。貴方の肉体が、感情を覚えている。聖剣の鞘が言うんだ。そこらへんに間違いはないよ」


女は自分のことを聖剣の鞘といった。政権の鞘。それは、聖剣使いを癒し、守るべき存在である。


「鞘とは概念。鞘とは実態。概念の私が活動するにはここまでが限界」


それは誰に告げる言葉だろう。明らかにアヌイには告げていない。眠っているオリヴァでもない。であるならば、鞘が求める獣の聖剣本体であるのだろうか。鞘は返事のない言葉を自分に言い聞かせるように「残念」と呟くのである。


腕は動かず、足は不能。肺に残された酸素は残りわずか。唯一自由が利くのは、白く混濁した瞳のみである。眼球は円を描き、自分が生きている事を示した。


「あぁぼうや。君にも教えてやろう。残念ながら、貴方に平穏はない。貴方がまともでいられるのは今日まで。断罪する貴方は、他人の恨みを持ちすぎている。多くの恨みのせいで、貴方は、人間とはいえない、中途半端な生き物になるさね。そして、遠い将来、人間でもなくなる。これは予言。聖剣の鞘が見つけた、ささやかなる可能性の一つ」


 肉塊、いや、聖剣の鞘は、オリヴァにそう告げる。


「忘れるな。セイケンノカゴトオクナリ。ボウヤにはケダモノのノロイがマッテイル」


 それだけを言うと、肉塊の瞼がゆっくりと落ちていく。痙攣をするかのように、ピクピクと瞼を震わせ、唇を力なく震わせた。


「あぁ。剣よ。貴方はどこへ。私は、あとどれだけの身体を巡ればよいのですか」


 そういうと、再び、静寂が周囲を覆う。

 コォコォと風が鳴く。サワサワと背の高い草が揺れ、まるで、鞘の足跡のように模様を作っていく。傾きだした太陽の日差しがオリヴァの顔に差し込む。食いちぎられた頬肉。赤黒い、混沌とした闇が口腔内に広がっていった。

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