初夜編:深い眠りから覚めたなら 38

 内なる自分が返した答えである。アヌイは理由のない殺人に手を染めた。聖剣書で禁忌とした殺人の一つである。禁を犯したモノの成れの果ては「バケモノ」でしかない。

 アヌイは肩で息をする。自分をバケモノと叫んだ事で幾分か気が軽くなった。

 彼女は息を吸い、片肘を振り下ろし倒れ込む。肘に全体重をかけて胸板に打ちつけた。


「死ね! 死ね。死ね死ね。人間は死ね。人間は潰えろ。お前らは死ね。驕り高ぶったヤツめ。私の事を何も知らず殺すだと? ふざけるな。死ね。お前たちのそのような行為のために何故私達は苦しめられなければならない。だから、死ね。死ね。死んでしまえ。私を楽しませ死ね。私を笑わせて死ね。死ねよ。死んでしまえよおおおおお」


 打ち付けるのは胸板だけではない。顔や肩。あらゆる箇所に彼女は拳と肘を叩き入れる。拳が血で汚れる。彼女の薄皮も破れた。肉をむき出しになる。彼女が動きを止めたのは、彼の歯のかけらが肉に刺さったことによる傷みだ。

 男は鼻血を垂れ流し荒々しい息を漏らし伸びていた。


(あとすこしだ。)


 アヌイは拳を振り上げる。その瞬間、脳裏にある光景が刻銘に映し出される。

 二つの顔を持ったヒヒが暴れまわる姿。人が泣きわめき逃げ惑う姿を見て、面白そうに腹を抱えて笑っていた。大きな腕を払えば、人の体はバラバラと羽虫のように散っていく。ヒヒは笑っていた。ゲラゲラと腹を抱え、地面に手を叩きつけて笑っている。その姿はいつの間にか、リーゼロッテとロバの顔に変わっていた。


(何? 何なのコレ? 知らない。知らない。知らない知らない知らない。こんなの、私は知らない。)


 アヌイが殺そうと思えば、バケモノの姿が映る。アヌイに殺すのを辞めさせるために見せつけているのではなく、驕り高ぶった人間を壊すのは、とても面白い事と教えるため、遊びに誘うような感覚で見せつけているのだ。誰が? 誰が? と問えば、知らない名前が返ってくる。


(コレは私じゃない。やめて。見せないで。あの子を巻き込まないで。これは私。私だけの事なの。私の生きる理由は私がみつけたものなの。だから、やめて。みせないで。リーゼロッテの姿をして、人を殺す姿なんて見せないで。やめて。お願い。リーゼロッテを巻き込まないで。やめてやめてやめてやめて)


 恐ろしい記憶が彼女を襲う。アヌイは振り上げた拳を解し、両手で顔を覆う。いや、その記憶はアヌイの気づかないうちに「自分の記憶」として上書きしようとしているのだ。自分が消えていく恐怖にゾワリと背筋があわ立つ。

 彼女の頭に在るのはリーゼロッテの事のみ。

 アヌイは逃げるようにオリヴァの身体から離れた。


(リーゼロッテ)


 彼女は悲痛な表情を浮かべ、森の奥へ消えていく。赤い線を残していることにも気づかず、縋る思いで膝から下を引きずっていった。

 


 サラサラと川のせせらぎが聞こえる。大樹には鋭利なもので引っ掻かれた傷がある。自分の目印までたどり着く。そこは、先程と異なり、平穏な世界だった。見知った清らかな風邪が頬を撫でる。彼女の疲れをいやすように、寝床に誘う。彼女は首を左右に振ると、一歩、また一歩と水面へ近づいた。


(リーゼロッテ。リーゼロッテ)


 短い距離がとても遠く感じる。はぁはぁと吐息だけが耳に残った。アヌイは最期の力を振り絞り、岸に手をかける。

 ゆっくりと、川を覗き込むと、水面には彼女が良く知るリーゼロッテの姿が映し出された。


「リーゼロッテ……」


 アヌイは噛みしめるように彼女の名前を呼ぶ。傷つき汚れた姿のリーゼロッテの姿を見て、アヌイは一粒の涙を流す。死してもリーゼロッテはアヌイの傍にいる。アヌイが喜べば、リーゼロッテも笑う。アヌイが怒れば、リーゼロッテも怒る。双子のようなひと時が辛く、陰鬱だったあの時期を癒す。そんな幸せな時期にアヌイは自分自身の手で幕を引く。歯を食いしばり、悔しそうな表情をする。リーゼロッテも同じ表情をしていた。


「リーゼロッテ逃げて!」


 アヌイが口を開く。すると、水面に映るリーゼロッテも口を開いた。

 その様を見て、アヌイは自分達は本当に双子だと実感する。


「なんでは聞かない。いいから逃げて。貴方は逃げて。いますぐに逃げて。ここから遠く。ここではないどこかへと。ここの人たちが絶対にたどり着けないところへ。逃げて。お願い。逃げて。リーゼロッテ!」


 アヌイは川の中へ手を突っ込む。ひんやりと冷たい返ってくる。


「知らない人たちが言うの。村人を殺しているのは私だけじゃない。私とリーゼロッテだって。違うのに。違うのにそうだって見せてくるのよ。村人も言ってる。リーゼロッテが村人を殺してるって。違う。あなたは何もしていない。あなたは関係ない。殺しているのは私だけ。だから、貴女は逃げて。お別れして。関係ない貴女を、私は巻き込みたくないから。お願いだから。リーゼロッテ逃げてっ!」


 アヌイの手に返る感触は、死んだリーゼロッテの冷たさと似ている。何も返さない。非常なる冷たさだった。


「リーゼロッテありがとう。できるならば。アヌイを連れて行って」


 リーゼロッテは死してもアヌイの前に現われた。だが、今を持ってお別れだ。逃れる彼女に「殺された自我」を託す。彼女がたどり着く先は、平穏があると信じているから、アヌイはリーゼロッテに頼めたのだ。

 アヌイの手が小川から引く。白い指先から水が糸のように引いていく。名残惜しそうに見つめると、声が聞こえた。今まで聞くことの出来ないあの声だった。


(アヌイ! 逃げて!)


 その声にアヌイは振り返る。白銀の鋭利な刃が見えた。太陽の光に隠れ、切っ先の行方はわからない。細く、硬質な光が眩しいと思うと、横に一文字。あっと声をあげる前に視界の緞帳が落ちた。


(リーゼロッテ……。貴方の姿が……)


「交渉は決裂だ。バケモノめ」


 身体を地面に激しく打ち付ける。ドスンと響く音と共に、水が弾ける。

 白い顔から、いや眼は横一文字に切られていた。


「お前の事情は知らない。だが、お前が俺の事情を知らないように、俺には俺の事情がある。だから、死ぬのは俺じゃない。お前だ」


 オリヴァの声はアヌイには届かない。涙と血が混じった液体が、大地へ帰る。顔が焼けるように熱い。眼にゴミが入ったかと思い顔をこする。ひんやりとした冷たさの後、顔はカッカッする。生暖かい液体のピチャピチャとした音を聞くと、目玉を抉り出す傷みが耳から零れ落ちた。痛みを叫んでも、視界は晴れない。彼女は、自分の目が切りつけられたことに気づいた。


(リーゼロッテを逃がさなきゃ。私は逃げない。あの子を遠くへ。もっと遠くへ逃げさせられるなら私は……)


 アヌイは気が狂いそうになる痛みを堪え、腕のみの力で上体を起こす。


「交渉? 交渉だと? 何をおかしなことを」


 アヌイの口元は歪む。


「私はバケモノだ。バケモノが人間と交渉できるわけないだろう」

「あぁ。バケモノならな。少なくとも、お前は聖職者崩れじゃないのか? そんな聖職者様に人間の理性が残っていれば、交渉自体は可能だと思ったのだがな。自分の招待は何か? バケモノです。なら、話にはならんだろ。あぁ。だから交渉は可能であっても、交渉する価値は無い。それだけだ」

「クヒヒ。あぁ。そりゃ残念だろう。お前の期待を裏切ってしまって悪かったなぁ。だがな、言っただろう。私はバケモノだ。よく似た聖職者がいるらしいが。知らないなぁ。いや、違う。お前たちにはそう見えるだけだ。愚かなもの。罪に溺れた者だけが、そう見えるのだ。聖職者がバケモノ。魔獣なんぞになるものか。私がバケモノさ。ただ知恵を持ったバケモノ。それを見抜けなかったお前が愚かなだけさ」


 アヌイは空に向かって叫ぶ。リーゼロッテは関係ない。たとえ、目の前の人物が知らぬとも、頭上にかかる示星が覚えていればよい。アヌイとリーゼロッテの出来事は「悲しい物語」として未来に伝わることを祈った。


(リーゼロッテ)


 アヌイは妹の名前を呼んだ。けれども、返る声はない。姉の吐息も、温かみを感じない。彼女は自分の手の届かない場所へ逃げ始めたことを感じ、ようやく安堵した。


「あぁ。だから、お前は終わりだ」


 心の安らぎのせいだろうか。オリヴァの剣がアヌイの脇腹に深く刺さる。命の剣が細胞を活性化させ、彼女の中にある火の剣の破片が勢い良く燃え始めた。地面に伏せ、痙攣する女の身体を確認し、彼は命の剣を抜く。あとは、内側から燃えるのみだ。

 アヌイは這いずり、もう一度岸に手をかける。探すように手を宙に動かし、勢い良く、川の中に手を突っ込んだ。彼女は名前を亡くした。手にしているのは魔獣となった存在のみ。であるならば、彼女は魔獣らしく幕を引く。


「聞け! 人間。私は魔獣。トリトン村の罪が落とした魔獣。トルダート・コトウに次ぐ3番目の魔獣だ。魔獣は一人。他に誰もいない。唯一の魔獣……」


 彼女は泣かないと決めていた。だが、彼女の意思に関係なく、目尻からドロドロと血液が零れ落ちる。それでも、彼女は魔獣として振舞った。


「私は、やはりお前たちを許さない。憎んで憎んで……。ずっと、見ているから――な」


 アヌイの意識が火に飲まれる。口からは血液の変わりにタールのような液体を吐きだし、地に伏せる。顔は、内側からせり上がる熱に焼け、ボコボコに膨れ上がり、本の顔は判別できなくなってしまった。体内から煙のくすぶる焦げた臭いがする。あらんばかりの痛みの中、魔獣は息絶えた。その表情は、憎しみを紡いだとは思えないほど穏やかである。


 アヌイは最期、リーゼロッテを守った。聖女リーゼロッテが聖女になる前の名前「アヌイ」

 本当の彼女を守り抜いた。

 コトウの広場に光が広がる。穏やかな風が周囲を走る。義の下で誅罰を下し、咎を負った悲しき魔獣が、遠い場所へ旅立った主人に会えるよう、導くように流れていった。

 オリヴァの手から命の剣が零れ落ちる。顔を真っ青にし、ドサリと倒れこむ。

 頬から痛みは感じない。

 心の奥底から、憎しみを叫び、義の為に生き抜いた魔獣の姿がいつかの自分に覚え、恐怖を覚える。

 

「静かに眠れ。バケモノ」


 オリヴァの目も静かに閉じられた。

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