初夜編 深い眠りから覚めたなら19

「世界は、 剣より 作られた。

何も無い暗黒の空間に、大いなる意思が一つの剣を放り込んだ。

後に「イグラシドル」と呼ばれる樹の聖剣である」


 リーゼロッテの厳かな声が狭い御堂からこぼれだす。珠のように美しく、決めと光をまとった声は、糸の切れた首輪の如く人々の頭上にパラパラと降り注ぐ。祈念式に出席者は驚いた。自分の知らないところで、神秘的な事が行われていたことを知ったからだ。壇上に上がり、手を広げ、宣うように、歌うように、聖女は言葉をかける。出席者は、ほんの一瞬、強烈な光を見た。光は、リーゼロッテの言葉とともに、皆の心に染み入る。気づけば、出席者の手は胸元に流れていく。縋るように、聖女を見つめ、救いを求めて口元を緩ませる。


「祈りましょう。大いなる意思がここに参列した全ての人に祝福と加護を与えんことを」


 リーゼロッテは、目を瞑る。参加者も彼女にならい目を閉じた。


「全ては大いなる意思の御心のままに」


 参列者は、彼女に教えられたわけでもなく、彼女のあとに言葉を続ける。


「御心のままに」


 そして、御堂は静寂に包まれた。


 荘厳な御堂の隣で、アヌイは大きなあくびを漏らしていた。目を瞑っては開いてを繰り返し、ゆるゆると腰を下ろす。ロバは眠たくて眠たくて仕方がない。夜な夜な聖女が「トリトン村乳首識別勉強会」を勝手に開催し、見たこともないくせに村人男性陣の乳首を識別分類して高説を垂れるのだ。日々、祈念式の練習を行っているので疲れているのだろう。仕方がない。とアヌイは諦めていたが、よもや祈念式前日の遅くまで行うとは思ってもいなかった。

 落成式までは、トリトン村乳首識別勉強は大概だろう。と憤慨していた。だが、落成式でのコンラッドを見た時、昨晩リーゼロッテの「コンラッド様の乳首は乳輪部に黒い毛が数本生えていて、黒に近い乳首をしている」という評価はあながち間違っていないかも。と思ってしまった。

 よもや、自分がリーゼロッテの乳首識別に毒されていることがショックでロバは今すぐ寝込みたい気持ちで一杯である。昼下がりの朗らかな陽気。その下でゆっくりと眠りにつきたい。ロバの頭は自然に地面を向いていた。


「おやおや。聖女様のロバではないですか」


 アヌイは自分が呼ばれたことに気づいた。やれやれといった面持ちで顔をあげる。すると、村の医者エイドがアヌイの前に立っていた。


(あっ。ピンク乳首の人だ)


 エイドはアヌイの頭に手を置くと、ワシャワシャと乱雑に撫で始める。


「お留守番ですか。偉いですね」

(エイドとジェフは無毛のピンク乳首って言ってたな。あれ? 二人の違いってなんだっけ?)


 アヌイの目が自然と細まっていく。睡魔はどこかへと飛んでいったしまったようだ。リラックスした表情のロバを見て、彼は気を良くし、手は頭から顔へ移動する。顔の肉が激しく揺さぶられていく。


「人に向かって鳴いたりしない。良い子ですね」

(あれは確か……)

「その良い子っぽさ。ご主人に似て、鼻につくんですよね」

(そうだ。乳輪が普通か垂れ下がっているかどうかだ)


 アヌイはようやく一つの答えにたどり着く。けれども、ロバは耳にしてはいけない言葉を聞いてしまった。撫でていたエイドの手が離れていく。アヌイは彼の手を追いかけた。人が良さそうな優男の顔立ち。しかして、彼は雑菌を触ったと言いたげにアヌイの眼の前でハンカチでゴシゴシと執拗に手を拭った。彼は力強く手を拭いながら笑っていた。上品に、まるで親切なお役人さんのように笑っている。誰が見ても、良い人。そんな人は笑顔のままハンカチを落とした。パサリと地面に捨てられたハンカチは、風のいたずらに誘われてどこかへ消えていく。


「人懐っこさは生き過ぎると、目障りなんですよね。純粋であれば全て許されるわけではないのに」


 エイドは御堂を見つめる。咳をするように、言葉を区切って強調しながら口にする。動いた唇に、優しさは伺えない。エイドの言葉はわからなくとも、ニュアンスはロバに通じる。

 アヌイは目を細め、耳を地面と平行に倒す。不快感を顕にしたロバの姿に、エイドは苦笑いを浮かべる。細く垂れ下がった目は、アヌイを明らかに小馬鹿にしていた。


「怒っているのですか? もしかして主人が馬鹿にされたと思って」


 アヌイはエイドの挑発に乗るまいと必死だった。ただ、今すぐにここから立ち去れと言いたげに、首周りの毛が逆立ち始めている。


「はい。私は貴方の主人を馬鹿にしました。何故かって? 私は彼女の純粋であれば何もかも許される。と思い込んでいる彼女の姿が滑稽で馬鹿にしているのです」


 エイドは御堂から溢れる音の剣の音に、自分の声が御堂には響かないことを確信している。ロバ相手に何をムキになっているのか。と思った。だが、彼の思いは、このロバでなければ伝えることが出来ない。他の相手では意味がないのだ。


「大いなる意思は、所詮、彼女にとっては、自分の純粋さをアピールするための道具にしかすぎない。彼女は自分に酔っているのです。大いなる意思を信奉している自分に。純粋な自分という存在が好きで好きで仕方ないから。もっとよく見てもらおうと純粋な自分アピールをする。大いなる意思に傾倒しているアピールをする。あぁ。本当に醜悪な人ですよね」


 ロバは飛び出した。眼の前にいる不敬な人物を攻撃する為に歯をむき出しにする。彼は、ロバが大切にしている者リーゼロッテを侮辱した。

 ロバにとって、リーゼロッテは主人公であり、双子の姉であり、妹だ。身内が石を投げられて黙っている程、ロバの気は長くない。

 アヌイはエイドまであと一歩の距離まで近づく。しかしロバの首には縄がかけられており、ロバはエイドによることは敵わない。それでも、一矢報いようと、体をねじり、あるいは体勢を変え、体を土まみれになりながら、必死ににじり寄る。だが、それでもロバはエイドに触れる事は出来なかった。

 がたんと御堂の扉が開け放たれた。中にこもっていた人々の体臭、香の匂いなど、雑多に混じった空気がドロっととろけるように溢れ出す。不純物の塊である人間たちも溢れ出た。大きく伸びをしたり、肩甲骨を狭めたり。各々思い思いのやり方で、体のコリをほぐす。疲れた表情を浮かべた村人達。さて、どうするか。という話を始めた時、彼らはすぐにエイドの姿を見つけた。

 村の医者を前に黙って去る事など出来はしない。皆、エイドの方へ近りだした。


「先生、どげんしたとね? ごけなとこおって」

「えぇ。祈念式に参加しようと思ったのですが、遅刻してしまって……」

「寝坊かい?」

「いいえ。出産のお手伝いです。ウエポさんちに呼ばれまして……」

「あぁ。そういやウエポんちんげの奥さん、そげんやったとね。どげんやった?」

「はい。元気な女の子でしたよ」


 徐々にエイドの周りに、人だかりができる。皆、エイドに話をしたくて話をしたくて仕方がない。出産したウエポの家庭の話をすれば、別のものは他に臨月の家庭の名前を言う。会話の中に入りたく、また一人、また一人と彼の近くに寄っていく。

 アヌイの前足を踏み、ギャンと鳴いても、誰も気に留めない。脚を踏んでいるというアピールをしても、「誰のロバ?」と疑問に思いながらロバの頭を叩くのだ。


「皆さんここではじゃまになるので、別な場所に移動しませんか?」


 エイドの提案に、異議を唱えるものはいない。皆、「おぉ」と口にし、牛歩の歩みで御堂から離れていく。

 エイドは、歩きながら御堂を振り返る。いや、彼が振り返ったのは御堂だけではない。燃える赤々とした緋色の目を冷ややかに見つめる。アヌイの頭からユラユラと立ち込める湯気。湯気の彼方から蜃気楼のように、無表情な聖女に似た女性が、彼とにたような表情を浮かべて視線を送り返すのであった。

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