初夜編 深い眠りから覚めたなら18

「ねぇ、アヌイ。変じゃない? この格好」


 遠いところからアヌイを呼ぶ声がする。残念ながら、アヌイはそれどころではない。ロバの眼の前を蛾が挑発的に飛んでいる。そのような不埒物を打ち落とすので必死であった。

 反応が無い相方に、彼女は痺れを切らし、バタバタと激しい足音を立てはじめた。足音は徐々に大きくなっていき、ガチャガチャと耳障りな音まで混じってきた。


「アヌイっ!」


 開け放たれた窓から鋭い声が飛んできた。主人は、窓から身を乗り出し、しかめっ面でロバを呼ぶ。荒々しい物音に、蛾は慌ててどこかへ消えていった。

 そして、蛾を打ち落とそうと飛び上がったロバは、短い飛行を終え、ドスンと情けない音と共に地面に落ちた。


「人の話を聞かないで何してるのよ」


 アヌイの目には、星が散る。ブルンブルンと首を横に振り、だらしなく鳴いた。


「アヌイ。何度も言ってるでしょ。今日は大切な日だって」


 アヌイは、主人の一言に「あぁそうか」と思い出す。アヌイはロバだ。仔細はわからない。だが、常々、彼女はアヌイに「もうまもなく大切な日がやってくる」と言い続けていた。

 リーゼロッテは、部屋から身を引くと、やや暫くして、ザッザッザッと乾いた砂を踏みしめる音が聞こえてきた。彼女は、庭の角からひょっこり顔だけを出した。


「ねぇねぇ。どうかな?」

 

 言葉を乗せながら、彼女は全身をアヌイに見せる。青みがかった灰色のベールをかぶり、同色のポンチョのようなワンピース。ワンピースの裾を上品に持ち上げると、頬を緩めた。ステップを踏むようにアヌイの前に立つ。そして、その場でクルリとターンをした。フワフワとワンピースの裾が持ち上がり、滑らかな脚の曲線が一瞬あらわになる。リーゼロッテは、慌ててワンピースの裾を押さえると、先ほどの失態を隠すように、エヘヘ。と子どもっぽい笑いを浮かべた。


「アヌイ。この格好変じゃない?」


 リーゼロッテは何度も繰り返し、念入りに首を動かし、背中を注視する。アヌイはノソノソと仕方なさそうに、彼女の回りを一周する。そうして、何も変な事はないと知らせるように、「ンゲェ」と鳴いてみせた。


「ありがとう。アヌイ」


 彼女はアヌイの言葉の意味が分かった。目を細め、感謝の気持ちを込めてロバの頭を優しく撫で、今度は慌しく駆け足で家の中へ消えていく。アヌイは、そんな主人の姿を見て、大変そうだ。と思った。腰を下ろそうとした時、再びリーゼロッテの足音が聞こてくる。アヌイは面倒くさそうな顔をして、庭の角を見つめた。すると、今度は、大切な星の剣を片手に現われた。


「行こう! アヌイ」


 どこへと問うロバの声に、飼い主は耳を貸さない。木の柵にくくりつけている手綱と轡をアヌイに着けると、慌しくロバと共に家を飛び出した。

 彼女の出立を知らせるよう、遠くから昼を知らせる鐘の音が村に響き渡った。


 今日は、リーゼロッテが聖女として、いや、聖職者として一歩を踏み出す大切な飛騨。長いこと、改築工事を行っていた御堂がツイ先日完成した。御堂の完成を祝い、落成式と祈念式を行う事となった。

 しかも、リーゼロッテはコンラッドから直々に是非とも彼女が司式し、祈念式を執り行い、大いなる意思の加護を与えて欲しいと頼まれた。

 祈念式。それは、聖職者のみが執り行う、典礼だ。聖剣書の言葉を貸り、人々に大いなる意思の言葉を伝える。参列者に大いなる意思の加護に感謝し、これからも大いなる意思の加護を希う。そういう事を行う典礼である。

 リーゼロッテは、祈念式の補佐を行った敬虔はあるが、単独で行う事は初めてだ。

 御堂の祈念式を行う。それが決定してから、彼女は、聖剣書の言葉を舐める様にして呼んだ。時には、アヌイを参列者に見立てて、祈念式の練習を行った。

 だが、練習しても、彼女は自分の思うような祈念式を執れなかった。

 聖剣書の言葉の選び方。時折、聖女バラバラなら。とリーゼロッテは彼女になりき、練習をしてみた。だが、気味の悪いモノマネで全くもって意味を成さなかった。

 アヌイは、そんな主人の姿を知っている。日にちが近づき、凝り固まり、緊張する気持ちは、リーゼロッテだけではなく、アヌイにも伝わる。

 どんなに笑顔でいても、リーゼロッテの心は、口から心臓が飛び出るぐらいにバクバクと激しく鼓動しているのだ。


「おっ。リーゼロッテさん」


 そんな感情に気づかず、道行く村人は彼女に気軽に声をかける。


「こんにちはご主人」

「あぁ。聖女様。今日もいい天気ですね」

「そうですね。あ、先日はお野菜のおすそ分けありがとうございます」


 リーゼロッテは、声をかけられるたび、にこやかに笑い、手を上げる。老若男女、皆、笑顔だった。

 アヌイは、下から人間の挨拶を見上げる。たった、数秒で何がわかるのだろう。とロバは不思議で仕方なかった。

 不思議な事を繰り返し、リーゼロッテは笑顔を振りまいていく。

 だが、そんな彼女の表情が一瞬、真顔になり、足取りもピタリと止まる。主人に倣い、アヌイも歩みを止めた。何事かと思い、ロバは主人の顔を見上げる。

 何故か、彼女は下唇を強く噛み締めていた。表情は伺えないが、じっと真正面を向いている。

 何があるのだろう。とアヌイはワクワクしながら彼女と同じ方向を向いた。すると、反対方向からこちらに歩いてくる人がいた。ジェフである。


「ジェフさん」


 リーゼロッテの声は上ずっていた。いきなり、走り出す飼い主に、ロバはズルズルと首を絞められながら引きずられていく。


(このバカ女ー)


 アヌイの心の声に気づかず、リーゼロッテはジェフの下へ駆け寄った。


「リーゼロッテ様」

「こんにちはジェフさん。今からどちらへ?」


 リーゼロッテは村人にも見せなかった愛らしい表情を浮かべている。


「知人の家に用事があって、そこへ向かうところです。でも、用事が済んだら御堂の祈念式には参加します」

「本当ですか?」


 リーゼロッテの声が裏返った。それは、リーゼロッテが見ていた夢が、現実となったからだ。


「でも、俺。聖剣書の事や大いなる意思の事、何も知りません。それでも良いですか?」

「良いも何も。ジェフさんが参加してくださる。それだけで意味がありますよ。……」


 リーゼロッテは一度、そこで言葉を止めた。呼吸をするのが苦しくなった。息を飲むと、胸にドスンと沈む痛みが走る。心に響く重石のようで、その傷みはどうしてか心地よく、甘い心をちゅくちゅく刺激していく。


「それに、ジェフさんに私の初めてを見てもらえるなんて、とても幸せです」


 そう言うと、リーゼロッテは、ジェフから視線をそらす。アヌイは彼女の物言いにドキリとした。また、どうして人を勘違いさせる言い方を。と思い、呆れてしまっている。そして、確認するように、ジェフの顔を見る。彼は、頭をかき、顔を赤らめ、嬉しそうな、困ったような顔をしている。そして、リーゼロッテもまた、ジェフと同じ表情であった。


「祈念式って、御堂の中でやるんですよね?」

「はい」

「俺、本当に聖剣書の事、知りませんから。そんな俺に、わかるように話してくれますか?」


 リーゼロッテは表情を崩した。目を細め、柔らかく人を見つめる。今にも泣き出しそうなほど潤んだ視線をアヌイは初めて見た。


「えぇ。ジェフさんがそう仰るなら。私は可能な限り……」


 リーゼロッテはアヌイから手綱から手を話し、胸の前で組んだ。

 雨季と歓喜の変わり目。湿気を帯びた風と棘を落とした太陽の光。風は流れ、リーゼロッテのベールに優しく触れた。光の陰影が聖女の表情を作っていく。

 昼に見る三日月は、幻想の証左。だからだろうか。アヌイは見上げる少女が、かつて住んでいた修道院に大きく掲げられた、油絵の慈愛の聖女像と重なって映るのだった。





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