初夜編 深い眠りから覚めたなら17
彼女の家は、御堂から少し離れた場所にあった。トリトン村がリーゼロッテに提供した家は、この村では立派な造りをしている。木造の平屋建てが多い中、彼女の家は灰色の石造りの建物である。家の裏手と左右に庭がある。
一人で暮らすには十分すぎる広さであり、極貧生活の修道院では考えられないほど、立派な建物である。
(私、これからここではじまるのね)
リーゼロッテの目は輝いていた。彼女の心に、サァーっと涼しい風が吹きぬけていく。これから、新しいことが始まる。そんなワクワク感に包まれていた。
彼女は開けている未来が全て明るいものになると無条件で信じている。朝の日差しのように爽やかな光は、大いなる意思からの贈り物であると確信した。
「コンラッド様」
コンラッドがリーゼロッテに建物を説明している最中、二人に声をかける者がいた。その声に、コンラッドとリーゼロッテが振り向く。すると、そこには二人の若い男性が立っていた。
途端、コンラッドは顔をほころばせ、ねぎらいの言葉をかけながら、二人に近寄った。
リーゼロッテの顔が再び紅潮する。先程は離れた距離で異性を見つめたが、今度は限りなく近い距離に異性がいる。汗の匂いが彼女の鼻腔に届く。異性から放たれる甘い香りだった。それと同時に、脳を分厚い手が包み込む。優しくもあり、どこか強引だった。リーゼロッテは、初めての男の香りに心臓の高鳴りを覚えた。
「聖女様」
コンラッドはリーゼロッテを呼ぶ。そして、二人の肩を抱きながら、彼女に近寄る。彼女は、更に強力な男の匂いに触れた。
クラクラと眩暈がするような激しさにリーゼロッテは笑いを浮かべるので精一杯だった。
「この二人を紹介させてください。まず、こいつはエイド。村で唯一の医者をしています」
エイドは、コンラッドの紹介の後、人の良さそうな笑顔を浮かべて会釈をした。
「そして、コイツは御堂と自宅の改築を担当している大工のジェフェットです」
ジェフェットは、コンラッドの紹介の後、リーゼロッテに近づいた。そして、おもむろに手を差し出す。リーゼロッテは驚いた表情を浮かべ、彼の手を凝視する。
(握手……ってことだよね)
リーゼロッテはゆっくりと手を差し出す。すると、ジェフェットは強引に彼女と握手を交わした。
リーゼロッテの体がビクリと震える。初めて触れる異性の手だった。コンラッドは、彼を大工といった。それに偽りなく、彼の手はゴツゴツとしている。皮膚は強張っており、指先はとても硬い。掌にはあちらこちらにマメが出来ている。大きく太い手は、人らしい温かさがある。ジェフェットの体温を盗むよう、リーゼロッテの白い肌に朱が滲む。
「ジェフェットです」
「せ、聖女のリーゼロッテです」
リーゼロッテはようやくジェフェットの顔を見た。エイドと変わらない年齢。エイドには人懐っこさがあるが、ジェフェットにはない。むしろ、人に対する厳しさが顔つきに表れている。
リーゼロッテはその厳しさを自分の修道院の生活に重ねた。彼の厳しさを自分の丈に合わせ、そして、彼に自分勝手な親近感を覚える。
親近感を抱けば抱くほど、頭は茹で上がる。離れていく掌も愛おしく、可能であれば、まだまだ触れていてたい。という欲求さえ浮かびあがってきた。
「ジェフェット様。この度は、御堂と自宅の改修にご尽力いただきありがとうございます」
「いいえ。この村に聖女様が来られるのですから、これぐらいは……」
「大いなる意思も、きっと喜ばれるかと……」
「聖女様がそう仰られるのでしたら……」
リーゼロッテは、ジェフェットの他人行儀な言い草が寂しかった。初対面だから。と言い聞かせつつも、胸に残る寂しさに目を瞑る我慢強さは持ち合わせていない。
はにかんだ笑いを浮かべながら、リーゼロッテは口を開く。
「ジャフェット様。私のことは聖女ではなく、リーゼロッテとお呼びください」
リーゼロッテに申し出に、ジェフェット一瞬驚いた表情を浮かべる。しかし、すぐに顔つきを戻すと、彼女にこう言った。
「わかりました。リーゼロッテ様。それでは、私の事をジャフェットではなく、ジェフとお呼び下さい」
すると、ジェフははにかんだような笑いを浮かべた。途端、彼女の心がまたひときわ高く鳴る。世界がジェフ以外を白く包み込む。リーゼロッテは、激しい光にに包まれ、彼の顔を直視することが出来なかった。
その日の夜、彼女は寝床の下にアヌイを寝かせた。
「ねぇ、アヌイ」
リーゼロッテはアヌイに声をかける。アヌイは面倒くさそうに顔を上げると、鼻を鳴らした。
「ジェフさん。いい匂いがしたね」
アヌイは「アホくさ」と言いたげに顔をしかめると、すぐに体勢を戻した。一応、耳だけはピーンと立て、聞いている素振りを見せている。
「アヌイー! 私が変な事を言ってると思うんでしょ」
アヌイはリーゼロッテの言葉に否定しなかった。その証拠に尻尾を左右にバンバンと音を立ててる。アヌイの反応に、リーゼロッテは状態を起こして、アヌイに小言を言い始めた。だが、馬の耳に念仏。いや、ロバの耳に念仏だ。アヌイはとうとう傍立てていた耳を倒し、詰まらなさそうにアクビをする。
「別に、アヌイが思っているような事じゃないよ。ただ、ジェフさんって良い香りがしてね。男の人ってすごいなぁ。って思うって……。そう、思うとさ――」
リーゼロッテは膝を立て抱きかかえる。言葉は少しずつ小さくなり、何を言っているか分からない。アヌイは伏せていた顔をあげ、俯いている主人を見つめる。ブツブツと何かを呟く彼女に、アヌイは前脚をベットにかけ、「ヒーヒー」と啼いて見せた。
すると、リーゼロッテはガバッと顔をあげ、自分の鼻とアヌイの鼻を重ねる。主人の顔は年齢相当の少女の顔だった。心に沢山の刺激を受け、いつになくキラキラと輝いている。不気味に輝く光は、アヌイが怖くなるぐらいだ。
「秘密よ。アヌイ。今まで言った事」
リーゼロッテの迫力に、アヌイは負けた。アヌイはただ、リーゼロッテの言うまま、首を縦に振るのだ。
「そして、アヌイ。ジェフさんの乳首ってやっぱりピンク色だよね。絶対にそうだよね」
途端、アヌイの目は細める。再び「あほらしい」という表情を作り、すぐに寝床に戻った。
自分の頭上で延々と語られる男の乳首の色。男の乳首がピンクか茶色か黒か白か。ロバには堂でも良い。とにもかくにも、自分の睡眠を確保することの方がロバには大切なのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます