11:ホリー・エクランド

 ああ、やっぱり……ミカルは夢の中でそう呟いた。

 いつもの夢だ。見ると思っていた、眠りに就く前、そんな予感があった。


 黄金の草原は穏やかな風にたゆたい、ゆったりと雲が流れる空には優しい音楽が流れているようだった。

 誰かが名前を呼んでいて、ミカルはそれに応えようと走っている。

 同じ……繰り返し繰り返し見た夢。でも今日はその続きがあった。


 ミカルは息を切らしながら懸命に走っていた。小さな身体は金色の草に埋もれそうになりながら、土を蹴りまっすぐに走った。手には薄汚れたボールを握って。


 キャッチボールは上手にできなかった。ミカルには大き過ぎるボールはいつも手から零れてしまう。ボールを追いかけている時間の方が多かったが、それでも楽しかった。


 遊び疲れると、誰かが内緒だと人差し指を立て、口に入れてくれたロリポップは紫と黄色のマーブル。強烈な甘さに頬が痛くなる。

 大好きだった。これからずっと一緒に暮らせるのかと問うと、その人は優しく笑って頷いた。

 その答えを聞いたとき、自分の顔中に笑みが広がるのがわかった。気持ちが溢れて苦しいくらい……息を喘がせながら笑った。こんな毎日が、ずっと続くのだと思っていた。


 だが、不穏な風がささやかな幸福を吹き消していく。

 悲鳴と、何か大きな……すごく大きな音がした。目を焼くような光が一瞬に広がり、爆風が頬を掠めていく。

 何が起こったのか、よくわからない。

 泣きじゃくって手を伸ばしたけれど、どこにも届かなかった。




「……っ!」

 何か叫びかけて、ミカルは目を覚ました。実際にそれが声になっていたのかどうかはわからない。

 涙の代わりに汗の粒が流れて落ちた。


 夢にはいつもの穏やかさはなかった。でも何が違うのか、目が覚めた途端わからなくなる。ただ頬に受けた爆風の熱さを妙にリアルに感じて、ミカルは手のひらで汗を拭う。


 自分が思っているよりダメージを受けているのかもしれない。それはそうだ。入院と手術だけでも辛いのに、見知らぬ男たちに襲われかけ、信頼していたユウリに誘拐されたのだ。


 胸元に手を当て鼓動を落ち着けようと深呼吸すると、視界に人影が映った。驚きに一瞬息を呑むが、すぐに肩の力を抜いた。


「なんだ、ユウリか……」


 ユウリは少しずつ近づき、ベッドの前で止まった。何も言わずに薄闇の中、ただミカルをじっと見つめている。


「な……に? まさか変な気起こしたとかじゃないよね? 手に入れたかったって、そういう意味じゃ、ないよね?」


 冗談混じりに問うミカルの声など聞こえていないかのように、ユウリは掠れた声で呟く。


「……嫌な夢を見た」


 それを聞いてミカルは眉をひそめる。ユウリはミカルがうなされているのを見て、それでわざとこんなことを言うのだろうか。


「隣で、眠ってもいいか?」


 問いかけてはいるものの、ユウリの表情には、ミカルの反応を伺うような余裕は見えない。


「ちょっと……なんだよそれ……て、いいって言ってないし!」


 ミカルの訴えを無視し、ユウリはもぞもぞとベッドに潜り込む。

 誘拐犯と同衾なんてまっぴらだ、そう言って突き飛ばそうとした。でもユウリの唇は震えていて、憔悴した瞳は胸が痛くなるくらい危うげだった。


 仕方なく、ミカルは少し身体をずらしてユウリのために寝場所を空けてやった。

 元々二人で使用することを目的としたベッドだ、別に狭くはない。でもなんとなく居心地が悪い。ミカルが背中を向けようとすると、それを引き止めようとするかのように、ユウリが口を開いた。


「俺は……お前の母親を愛していた」

「僕の母さんを、知ってるの?」


 離婚して今は香港で暮らしているはずだ。それで父を恨んでいるのだろうか? でももう何年も前に別れたんだし、何かあったにせよこんな手段を取るのは筋違いだと思うが。


 それを言おうかどうか迷っていると、ミカルの心の内を読んだかのように、ユウリはゆっくりと首を振り否定する。


「ミカルの……本当の母親は、ホリーという。ホリー・エクランド。美しくて芯が強くて……聖母のような人だった……」

「え……?」


 本当のって……?


 ドクンと鼓動が強く打つ。ユウリが何を言いたいのかわからない。でも……頭の奥が疼く。内側からノックされているみたいだ。その音は鼓動に混じりミカルの不安を煽る。


「さっき言ってた『彼女』って、その人?」


 ミカルの問いにユウリは苦悶の表情を浮かべ、自戒するように苦しげに言葉を吐き出す。


「そうだ。だが……もう、いない」


 虚ろな瞳は、ミカルを映しながらもっと別の何かを……恐らくはそのホリーという人を……本当の母親だという人を見ている。


「俺のせいだ……」


 自分を責めるように呟いた後、ユウリは目を閉じた。しばらく見つめていると、規則正しい寝息が聞こえてきた。


 眠ったらしい。でも苦しそうな表情だ。こんな顔で眠って、果たして疲れが取れるのだろうか。

 ユウリはまた悪夢を見ているのか、時折、眉を寄せて唇を噛み締める。


「……ユウリ?」


 あまりに辛そうだったので、ミカルは思わず手を伸ばし、その頬に触れた。

 泣いているのかと思った。だが、ユウリの頬は濡れてなどいなかった。

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