9:意外なストリートファイト

「声を出すな」


 そう言ったユウリの声、抱き竦められたのとチリリと何かが焼けこげるような音がしたのは同時だった。

 見上げたユウリの頬に走る赤い痕。血はゆっくりと膨らみ一筋流れた。


 その次は破裂音だった。ガラスが弾ける鋭い音が生温い夜に響く。しかし割れる瞬間は見えなかった。ユウリはミカルを腕の中に抱え、破片から庇う。


「バカが……! 見境なく発砲しやがって」

「え……」


 発砲……銃? まさか。でも怖くて振り返ることができない。

 発砲音はしなかったけれど、サイレンサーってやつ? 本当に音しないんだ……。


 恐怖を紛らわそうと意識が働くのか、ミカルが見当違いなことに感心していると、複数の足音が聞こえ、三人の男に取り囲まれた。覆面をしているから顔はわからない。


「だ、誰?」


 思わずユウリにしがみつく。しかしその手をほどき、ミカルを背に庇う。


「動くなミカル」


 短く言ったユウリの声は冷静だった。覆面の男も無言で襲いかかってくる。明らかに、ただの暴漢じゃない。


 先陣を切った男の懐にユウリは迷いもなく踏み込み、胸ぐらを掴んで投げた。大柄な男が綺麗な弧を描いて飛ばされる様を間近で見て、ミカルはただ呆然とそれを目で追う。


「う、うわ……」


 息をつく間もなく次の男の胸を突き、彼は壁に激突して昏倒した。


 一人残った男は懐から銃を取り出したが、引き金に指をかける間もなくユウリはその手を蹴り上げる。

 バランスを崩した男は、最初に投げられ体勢を立て直しかけたもう一人を巻き込んで、気の毒なことに先ほど弾け飛んだガラスの破片の上に転倒した。


 ユウリの動きは格闘ゲームのデモ画面のように流麗で、無駄がなかった。呼吸も表情も平常時のままだ。

 周囲では通行人が遠巻きに様子を伺っている。ユウリの舌打ちが聞こえた。


 ぽかんと口を開けたままでいると、ふいに身体が宙に浮く。ユウリはミカルを抱え上げ、乱暴に車に押し込んだ。


「な、何? なんだよあの人たち……」


 返事はなく、ユウリはエンジンをかけアクセルを踏む。古い年式の白い軽自動車は億劫そうな音でうなる。車が発進する衝撃で倒れそうになるのを、ユウリの腕が支えた。


「ちょっと! 何、今の……説明してよ!」

「そんな状況じゃないだろ!」


 銃口を向けられても動じなかった男が、必死の形相で叫びハンドルを握る。

 その様子に一瞬怯むが、疑問がそれを一蹴する。


 そんな状況じゃないって、どういう状況だ? 

 何が起こっているのかさっぱりわからない!


「待ってよ、だって発砲なら……そうだ、警察……警察に連絡しないと! 携帯、携帯……あれ? 落としたかな……」


 あった! そう嬉しそうに言ったミカルの手からユウリは携帯を奪い、回転部分を強引にねじり破壊した上で車窓から投げた。


「なっ……何すんだよ!」


 無惨に割れ道路に飛び散るプラスチック片を目で追い……諦めて視線を上げると、路上に父がいた。


「あ……父さん?」


 どんどん遠退いていくけれど、間違いない。街灯に照らし出されるシルエットは、父だ。何か叫んでいるけれど風に掻き消されて聞こえない。


「ユウリ、停めて!」


 運転席の男に叫ぶ。ハンドルを握りながら一瞬向けられたユウリの視線は、ぞっとするほど鋭かった。


「……ユウリ? どうしたの、停めてよ! 今の、僕の父さんなんだ」


 何故ユウリがこんな怖い顔をするのかわからず、それでもミカルは訴えた。だがユウリは車を停めるどころか、スピードを上げた。


 後ろへ流れていく光を受けて光る黒い瞳に浮かぶのは、憎悪だ。そう感じた。理由はわからない。


「何なんだよ一体! 停めて……ここで降りるから!」


 家出をするつもりだったが、銃を持った連中が出てくるなんて予想外だ。というか、あり得ない。まだ、さっきまでそんな連中がそばにいたなんて信じられない。


「ねぇユウリ……お願い!」


 しかしミカルの懇願など聞かず車は迷うように細い道をぐるぐると走った後、トア・ロードへ出て山手へと進路を取った。


 いくら言っても聞き入れてもらえないことを悟ると、ミカルはドアに手をかける。当然ロックがかかっているが、ミカルは諦めずにガタガタをドアを揺さぶり続けた。


「ミカル、頼むから大人しくしてくれ……」


 ユウリは右手でハンドルを切りながら、空いた手で五センチほどの銀色のカプセルを取り出し、ミカルの鼻先に突きつけた。


 つんと、柑橘に似たにおい。それからふわりと手足の力が抜け、ミカルはくたりとシートにもたれた。身体がどこかに沈んでいきそうな錯覚、視界はふにゃりとゼリーみたいに不確かで気持ちが悪い。


「……な、に? これ……」


 クロロフォルムとかいうやつ? 

 そう問いかける声も頼りなく掠れる。


「作用は似ているが違う。害はないから安心しろ」


 ユウリの声は小さくぶれたように響く。それは意識が薄れるせいかと思ったが、いつまで経ってもミカルの意識ははっきりとしたままだ。ただ、身体に力が入らないだけ。


「気絶は…しない…んだ……」

「希釈してある。効果はすぐに切れるから……しばらく我慢してくれ」


 苦しそうに眉を寄せ、ユウリはまっすぐに視線を前に向けている。その顔は酷く傷ついているように見えた。


 助けてくれたのかと思ったら拉致されてショックを受けているのはこっちだ。ミカルはユウリの横顔を恨みがましく見つめながら、ふと思いついた可能性を問いかけてみる。


「もしかして……誘拐、なの?」


 ユウリは答えない。車は速度を緩め、妖しいネオンサインを掲げたビルの駐車場のスロープを下った。

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