8:わかってくれると信じていた

 ユウリが銃器の手入れをしている頃、ミカルは風呂上がりのアイスクリームを食べながらリビングで涼んでいた。

 テレビではお気に入りの若手芸人が新ネタを披露している。

 父は早く帰る予定だったが、仕事が長引いているのか、帰宅は零時を回ると連絡があった。

 明日、仕事を返上して病院に行かなければいけないためだろう。


「ミカル、テレビばっかり観てないで、それ食べ終わったら歯を磨いて寝なさい」


 不機嫌なカレンの声を背中で聞き、ミカルはわざとのんびりとした口調で答える。


「いいじゃん、まだ早いよ。どうせ明日から好きなだけベッドでゴロゴロできるんだし」


 ミカルは振り向きもせず黙々とアイスクリームを口に運び、お笑い番組を観ているとは思えない難しい顔で画面を凝視している。

 カレンの顔を見ないためだ。見てしまうと決心が揺らぐ。


「もう! 遊びに行くわけじゃないのよ!」


 甲高い声で言われ、ミカルはびくりと肩を跳ね上げる。カレンの小言には慣れているけれど、今日はことさらきついような気がする。


「……わかったよ、すぐ寝るから。姉さんも早く風呂入ってきなよ」


 テレビに視線を向けたままそう言うと、しばしの沈黙の後、バタンと大きな音でドアが閉まった。


 大きく息をつき、ミカルはテレビの音量を上げた。

 言いつけ通りに歯を磨き、自室に戻る。

 しかし、ベッドには入らずに急いでパジャマを脱ぐ。お気に入りのワークパンツに足を突っ込み、上にはTシャツを着た。

 ポケットにはありったけの現金を入れ、薄い綿のパーカーを掴んで、そっと玄関を出た。


 オートロックドアが背後でカチリと鳴る。その小さな音にびくびくしながら、ミカルはエレベーターのボタンを押す。

 階数表示を見つめながら、早く早くと心の中でエレベーターを急かした。今にも後ろからカレンの怒鳴り声が聞こえそうで、心臓がバクバクと暴れた。

 やってきた箱に乗り込むと、ミカルは大きく息を吐き、ぺたりと壁にもたれる。

 ガラス張りのエレベーターの外では、街の灯が海辺に吹き寄せられた星屑のように瞬いていた。


 こんな時間に……しかも一人で外出するなんて初めてだ。こんな些細なことにドキドキしているのも情けないが、今まで昼間の外出だってカレンはあれこれ詮索してなかなか許してくれなかった。


「心配してくれてるのは、わかってるんだ」


 だけど、どうしても納得がいかない。何も知らされないまま手術を受けるなんて。


 たくさんの検査、入院、手術。自分ではわからないけど、本当はすごく危険な状態なのかもしれない。本人に話せないというのは、手術の成功率が低いからだろうか。けど、それならなおさら、聞いておきたい。


 もしも、そのまま戻ってこれなくなる可能性があるなら。


 怖いけど……せめてちゃんと話し合う機会が欲しい。何度訊いても答えてくれない家族に対し、抗議するための家出だった。

 遠くに行こうなんて思ってない、所持金も乏しい。ただ一晩、どこかでやり過ごせればいい。

 子供じみてるのはわかってる。だがほかに方法が思いつかなかった。


「ミカル!」


 頭上から姉の叫ぶ声が微かに聞こえた。

 マンションを見上げると、二十四階のバルコニーからカレンが身を乗り出しているのが見えた。リビングから漏れる光が彼女の白い肌を浮かび上がらせる。


 迷いを振り切り、ミカルは走り出した。暗い路地を曲がるともう、カレンからはミカルの姿は見えないだろう。


 ミカルは、ユウリの店へ向かっていた。

 アユタのところはダメだ。すぐにカレンが根回しするだろう。他の友だちだってみんな家族と暮らしている。こんな時間に呼び出せば怪しまれるに違いない。


 ユウリなら……きっとわかってくれる、そう思った。迷惑なのは承知している。でも、彼が理解を示してくれたことでどれだけ救われたか……話したかった。

 同じ歳の友だちには相談できないことも、ユウリになら強がらずに言える気がする。


 ミカルは懸命に夜の街を駆けた。慣れた道も昼間とはずいぶん表情が違う。頭上のネオンサインはどこか懐古的で、物悲しさを湛えつつも鮮やかだった。


 走ればすぐだと思ったのに、目的のコンビニは意外に遠い。息が上がる。全力で走ったことなど今までなかった。


 いや、違う。幼い頃、こんなふうに走ったことがある。どこか広くて明るい場所……名前を呼ばれ、その声に応えたくて走った。


 頬を打つ風は生温く湿っていた。息が苦しくて涙が滲む。まるで水底を走っているみたいだ。目の中に飛び込み流れていく街灯の光が眩しい。


 ずっと運動を禁じられていたからだろうか。マンションを出てから五分と経っていないのに、足がガクガク震える。

 力が入らなくてカクンと膝が折れ、倒れる―――そう思ったとき、ふいに腕を掴まれ引き寄せられた。


 視界の端に見えるのは、黒ずくめの細身の男……見覚えのあるぼさぼさの髪をネオンサインが気まぐれに染める。視線は正面の真っ暗なショーウインドウに向けられていた。


「え? ユウリ……? どうして……」

「声を出すな」

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