6:自分のことなのに、何もわからない

 家族と口論した日から、ずっと雨が続いていた。明日から七月だが夏の気配など微塵もなく、梅雨は永遠に続くように思われた。


 湿ったアスファルトのにおいにうんざりしながら、ミカルはとぼとぼと歩いていた。

 学校は手術が終わるまで休むことになった。しかし安静が必要と言われても、特に具合が悪いわけでもないのに家で大人しくしているのは苦痛だった。

 昼間はずっとカレンと二人きりで、テレビもゲームも時間を制限されているから、退屈で仕方がない。


 アユタからは毎日メールがきたし、日曜日には遊びにきてくれるらしい。だが、それは途方もなく遠い出来事のように思えてしまう。


 外の空気を吸いたいというと、カレンは昼食後に少しだけ外出を認めてくれた。だが、平日の昼間では友だちはみんな学校で、誰も相手にはしてくれない。


 道行く人は、こんな時間に中学生がふらついているのを訝しげな目で見る。その視線から逃げるように傘を短く持っていたが、しばらくすると雨は止んだ。


 濡れた傘を持て余しながら、ミカルはユウリの店へと足を向けた。他に行くところなど思いつかなかったのだ。

 レジには見慣れない女の子がいた。強烈な配色の制服も、女の子が着ると意外にもポップで可愛いような気がするから不思議だ。

 ミカルが店内に入ると奥からユウリが顔を出した。裏で休んでいたのか制服姿ではなく黒いTシャツにジーンズで、髪はいつもにも増してぼさぼさだった。


「久しぶり、ミカル」

「……バイトの子、決まったんだ」


 それだけのことに、妙に動揺している自分に気づき、ミカルは目を泳がせる。

 日々、色々なことが変わっていく。わかっているはずのなのに、大したことじゃないはずなのに、疎外感を感じてしまう。


 大人にとっては、二ヶ月なんてあっという間なのだろう。だが、十四歳のミカルにとってはうんざりするような長い時間だった。そのほとんどを病院で過ごすとなればなおさら。


 その間に友だちがみんな変わってしまう、自分一人の時間が止まり取り残されてしまうようで、ミカルの気持ちは沈む。

 ぼんやりと女の子を見つめるミカルに、ユウリは苦笑しながら答える。


「残念ながら、彼女はバイトじゃないんだ。本社からのヘルプ」


 肩を竦めてそう言い、それからユウリは急に真顔になって、ミカルの顔を覗き込んだ。


「……どうした、元気がないね」

「そう……?」

「本当に顔色が悪い。家に帰ったほうがいいんじゃないのか?」


 家に帰るのは嫌だ。口に出さずに首を振ると、ユウリはミカルの背に手を置き、頷く。


「雨も上がってるし、少し散歩でもしようか」


 ユウリはそう言ってミルク味のアイスキャンディーを買い、ミカルに渡した。


「いいの? 店……」

「構わないさ、客もそんなにこないし」

「そんなこと言ってちゃダメじゃん。自分の店なのに」


 いつものように憎まれ口を叩いてみた。だがその口調はイヤミというよりユウリを心配しているような口ぶりになってしまい、なんとなくそれが恥ずかしくて、ミカルは俯く。


 ミカルの様子がおかしいのを察したのか、ユウリは黙って隣を歩いていた。元町通を抜け、細い道に入ると人影はほとんどなく、ビルの影が冴えない顔色を隠してくれているようで、少しほっとした。


 アイスキャンデーは温い空気にさらされ、溶けて流れた粘液はミカルの指先を濡らす。ぽとりと落ちる乳白色の雫の行方を見つめ、ミカルは不意に立ち止まった。


「ミカル?」


 ユウリの声に顔を上げて気づく。いつの間にか、海の近くまできていた。自宅のマンションはもうすぐそこだ。


「僕んち……あそこ」


 そう言ってを指差した。自分でも表情が消えているのがわかる、頬が強張って喉に何か詰まっているようで苦しい。


「へえ、いいところに住んでるじゃないか」


 ユウリはミカルが指したほうに目をやり、それから視線を戻して微笑む。いつもの、少し頼りなさそうだけど優しい瞳。


「僕、しばらくユウリんとこ行けないかも」

「ああ、もうすぐ夏休みだもんな。どこか旅行でも行くのか?」


 いいなぁ、と暢気な調子でユウリはつけ加えた。


「違うよ。手術……するんだって。長い入院になりそうなんだ」


 言わないつもりだった。ユウリには関係のない。よく店にくるだけの中学生に、こんなことを打ち明けられても困るだけだろう。

 退院したら、また何食わぬ顔でお菓子を買いに行けばいい。それだけの関係だ。そう思うのに、なんだかもう戻ってこれないような気がしてしまう。

 ユウリは一瞬視線を泳がせ、それからミカルの肩を掴んだ。


「いつだ」

「……え?」

「いつから入院するんだ、手術の予定は?」

「ど、どうしたの……?」


 いつもと顔つきが違う。目は鋭い光を宿し、眉を吊り上げた表情はミカルの知るユウリじゃない。


 掴まれた肩にユウリの指が食い込む。だが痛みよりも、ユウリの豹変にミカルは動揺していた。もう半分以上溶けて形をなくしたアイスキャンディーはミカルの手から落ち、アスファルトの上でくだける。


「いいから、答えるんだ! どこの病院に、いつ入院するんだ?」


 怒鳴り声に耳がキンとする。ミカルは目を逸らすこともできず、ユウリを見返した。


「ユウ…リ……?」


 ミカルの震える声にはっとしたように手を放し、ユウリは後悔したように目を伏せる。


「すまない……病気だったなんて知らなくて、驚いてつい……」


 狼狽える様子は気弱そうで、もう、いつものユウリだった。


「それで……どこが、悪いんだ?」

「頭」


 冗談めかして言おうとしたけど、失敗だった。ユウリは眉をひそめ、ミカルの次の言葉を待っている。その真剣な表情を見て、ああ、さっき少し怖く見えたのは、心配してくれていただけなのだと思えた。


 ユウリはちゃんと話を聞こうとしてくれている。変に子供扱いしたりせず、まっすぐに目を見て。それが心強く思えて、ミカルは顔を上げ、真面目にユウリの問いに答えた。


「小さい頃、事故に遭って頭打ったらしくてさ、それでずっと通院してたんだ。でも、この間の検査で何か見つかったのかも」

「……何が?」

「わかんない。話して…くれないんだ。父さんも姉さんも。僕……どこが悪いんだろ」


 もどかしかった。聞いて欲しいのに、話せる材料があまりに少ない。


「入院するのは、布引のセント・メイスン病院てとこ……脳の専門なんだって」


 ミカルは白々としたその病院を思い浮かべながら、他人事のように淡々と言う。


「入院は、七月に入ってすぐ。手術の日取りは……わかんない。僕、何も知らないんだ」


 肩を竦め、溜め息をつく。改めて言葉にすると、とても理不尽なことのように思えてしまう。本当に何も知らない。


「それは……辛いな」

「……え?」

「自分のことなのに、何もわからないなんて……辛いだろう」

「ああ……うん」


 曖昧に答えながら、ミカルはユウリを見つめた。ミカルの不安に同調するように、ユウリの瞳は悲しげな色を湛える。


 ユウリの言葉に、強張っていた何かが解けたような気がした。辛いと思っていいんだ。それだけで、少し気持ちが軽くなった。

 肯定されることに飢えていたのかもしれない。家族は心配のあまり、あれもダメ、これもダメと禁止ばかりを口にしてきたから。


 ぼんやりと見つめていると、ユウリはそっと手を伸ばし、ミカルの髪に触れた。

 華奢に見えるのに意外と大きな手だ。そして、温かい。労るように、祈るようにユウリの手は何度もミカルの頭を撫でる。


 なんだか小さな子供になったみたいだ。すべて委ねて、眠ってしまいたいような気分になる。指先が耳に当たり、くすぐったくてミカルは肩を竦める。


「……いつまで撫でてるんだよ」


 ユウリが与えてくれる体温に安心し切っている自分に気づき、なんだか急に恥ずかしくなる。ミカルは名残惜しく思いながらも彼の手のひらを払い、照れ隠しに唇を尖らせる。


「別に……辛くなんかないよ。知ってたからって自力で何かできるわけでもないし」

「けっこうしっかりしてるんだな、ミカル」

「ユウリが頼りなさ過ぎなんだよ。退院したらまたお菓子買いに行くから、それまでお店潰さないようにね」


 ようやくいつもの調子を取り戻してイヤミを言うと、ユウリは嬉しそうに笑う。


「ああ、もちろん。いつでもおいで。君の好きな物をたくさん仕入れておくよ」

「じゃあ……あの紫と黄色の……」


 思わず口走り、ユウリの不思議そうな顔を見てしまったと思った。この間は散々まずいと文句を言ったのだった。でも、鮮烈な色彩と強過ぎる香料と甘さ。最初はまずいと思ったのに、癖になる。


「気に入らないんじゃなかったのか?」

「ん……そうでも…ない」


 なんとなく、あの味が懐かしい気がするのだ。それを言おうかどうか迷って、やめた。

 なんとなく気まずくて頬を膨らませていると、ユウリは『待っているよ』と言って、マンションの下まで送ってくれた。

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