5:何も知らない僕を誰かが呼ぶ

 ミカルが病院に行くのは火曜日か木曜日だった。少しでも授業の遅れがないようにと、体育のある日を通院日に決めていた。

 いつもはカレンと一緒にバスに乗って行くのだが、今日は父が車で送ってくれた。急に仕事の手が空いたのだと言っていたが、嘘だ。


 ポーカーフェイスを装っているけれど、表情は硬い。普段は口を開けば小言ばかりのカレンも、今日は妙に大人しい。


 黒のRLは山手へ進路を取る。布引トンネルを抜けると、目の前はむせ返るような緑だった。しとしとと降る雨に打たれ、新緑は静かに揺れる。

 セント・メイスン病院は山中にひっそりと佇んでいる。のっぺりとした白い建物は無機質で、外来病棟の奥には入院病棟、そして教会が並んでいた。診療は完全予約制で、他の患者と鉢合わせることは滅多にない。


「ミカル、今日は新しい検査が増えるそうだ」


 先に診察室に通された父がなんでもないふうに告げる。だが、その表情には微かな動揺が見えた。一緒に担当医から説明を受けたカレンは、何も言わずに父の背に隠れている。


「ふーん……なんで? どんな検査?」


 一人待たされていたミカルは、椅子に座ったまま、足をぷらぷらさせながら問う。


「怖い検査じゃないわ。大丈夫よ」


 カレンはいつになく優しい笑みを浮かべてミカルを気遣う。それが余計に不安を煽っているのを、彼女は気づいていないのだろう。


「別に怖がってなんかないけど……どういう検査で、何を調べるの?」


 ミカルは食って掛かるような口調で言い返し、姉を睨んだ。八つ当たりなのはわかっている。でも、ずっと苛立ちが募っていた。毎週病院に通いながらも、病状については何も教えてくれないことに。


「姉さんも説明聞いてたんでしょ? 僕、これから何をされるの?」

「……私には、うまく説明できないわ」


 弟に詰め寄られ、珍しくカレンはたじろぐ。それを見かねたのか、バートは静かにミカルの背に手を置き、低い声でたしなめる。


「ミカル、お前が知る必要はない」

「なんで? 検査を受けるのは僕なのに!」

「ほら、すぐにそうやって興奮する。そんな状態では検査が長引くだけだ。内容を教えないのは、お前の負担を少しでも軽くするためだと、前にも説明しただろう?」

「でも! 知らないほうが……」


 不安なんだ―――。


 さらに食い下がろうとしたところへ、看護師に検査室へ促され、ミカルは言葉を呑み込むしかなかった。


 最初は画像検査だ。CTだかMRIだか、多分そんなやつだ。自力で調べた知識で、ミカルは自分の状況を知ろうとしていた。


 いくつかの検査を終え、最後の検査室に通された。毎回受けるこの検査だけは、どんなに調べてもよくわからない。脳波検査に似ているけれど、何か違う気がする。


 部屋は狭く、中央に検査台が一つ、それにスピーカーと何種類かの照明、それに患者の様子を観察するためと思われるカメラが四方に備えつけられている。


 担当医は別室からスピーカーを通して話しかけてくる。その声に混じり、何か判別し難い電子音のような物が時々流れた。照明は瞼を閉じても眩しいような閃光を発したり、弱く明滅したりする。


 いつもは薬を飲むとすぐに眠くなるのに、今日はなかなか睡魔がやってこない。やはり、父の言う通り興奮しているせいなのか。


 じっと横たわっているのは苦痛だった。ミカルの状態を把握したのか、スピーカーからは微かなノイズのような音が規則正しく流れ始めた。


 ああ、これは鼓動だ。心拍と同じリズムを刻んでいたそれは、徐々にゆったりとしたものに変わり、ミカルを眠りへと誘う。


『さぁ、ミカル君……何が見えますか?』


 医者の声だ……眠りと覚醒の間でミカルは思う。


「何……も」


 瞼が作る暗闇に、ゆっくりと光を当てられているのを感じる。


「もう…行かなくちゃ」

『……どこへですか?』

「……呼んでる」


 誰が……?


 その問いが医者のものなのか、自問なのか判別できなかった。


『ミカル……』


 声はいつの間にか医者のそれとは違っていた。その途端、視界は黄金の光で満たされる。


 暮れていく空と草原はどこまでも金色に染まる。その景色の中、ミカルは息を切らして走った。身体が小さいせいか、草の波に溺れそうになる。それでも、懸命に走った。呼ぶ声に応えるため。


 優しい腕に抱きとめられ、髪を撫でられる。温かくて、少しくすぐったい。


 幸福なイメージなのに胸が痛くて、眦から流れた涙がこめかみを伝う。

 そのわけを知らないまま、検査台で眠るミカルはそろそろと両手を天へ向けて伸ばし、抱き上げてくれる腕を待った。




「手術……?」


 突然の父の言葉に、ミカル呆然と呟く。

 帰宅後、ミカルは自室にいるようにと言われ、その間、父と姉は何か話し合っている様子だった。


 病院でも、検査が終わった後、二人だけが担当医に呼ばれた。ミカルは売店で買ったコミック誌をめくりながら待っていたが、落ち着かなくて吹き出しの文字はちっとも頭に入ってこなかった。


 家に帰る車の中でも二人は一言も話さず、不気味なほどの沈黙が車内に満ちていた。


 何かよくないことを担当医から言われたのだろうと察しはついた。しかし、ようやくリビングへ呼ばれたかと思ったら、何の前置きもなく手術だと言う。しかも入院は七月の半ば。これもすでに決まっているらしい。


「待ってよ、なんでそんな急に……」


 思わず立ち上がり、ミカルは抗議する。


「ミカル、座りなさい」


 注意する父の表情は冷静で……もっともそれはいつものことなのだが、声音は動揺を隠し切れないのか、微かにひび割れていた。


「どうして手術なの? 別にどこも痛くないし元気なんだけど!」

「自覚症状が出ないことだってある」

「じゃあ、説明してよ! どこが悪いのか、どういう手術なのか」


 反抗を続けるミカルに、父の目つきが厳しくなる。それに怯み、ミカルはカレンに視線を移した。


「ミカル、あなたに話しても混乱させるだけだって……お医者様の判断なの。無闇に子供に治療計画を話す必要はないって」

「子供じゃない……もう十四歳だ!」


 カレンに子供扱いされ、ミカルはさらに頭に血が上るのを感じた。確かにまだ中学生で大人とは言い難いけれど……自分が何に立ち向かうのかくらい知りたい。


「子供だ。納得いかないことがあればすぐ大声を出す。甘えるのもたいがいにしなさい」

「そうよ……父さんも私も、意地悪で教えないわけじゃないわ! 全部ミカルのためじゃないの!」


 声を震わせ、カレンは早口に言い募る。いつもミカルにきつくあたるカレンだったが、こんなことを言うのは初めてだった。


「父さんが仕事で無理をしながら日本で暮らしてるのはミカルの治療のためじゃない! 私だって、あなたのためにどれだけ我慢してるか……!」

「カレン、よしなさい」

 たしなめる父の声は優しかった。

「……ミカルに、元気になって欲しいのよ」


 涙ぐむカレンの顔を見て、ミカルはそれ以上何も言えなかった。

 父も姉も、自分のために犠牲を払っている。それは痛いくらいわかっている。子供じみた我がままなのだろうか。ただ、自分の身に起きていることを知りたいというのが?


 ミカルは納得がいかずしばらく黙っていたが、やがて諦め、小さな声で訊ねた。


「……学校、休むの……? 試験は?」


 その言葉にバートはほっとしたように息をつき、慈しむような目でミカルを見つめる。


「少し夏休みが早まったと思えばいい。明日にでも担任の先生に報告しに行こう。試験は……そうだな、それも相談してみよう」


 授業の遅れなど気にしなくていい、そうつけ加えるとバートは書斎に向かった。仕事が残っているのだろう。本当は忙しいのに、無理をして病院につき添ってくれたのだ。


 残された二人には気まずい空気が流れる。カレンの目の端はまだ涙に光っていた。


「姉さん……」

「な、何? どうしたの?」


 じっと見つめていると、カレンは不思議そうに首を傾げた。まっすぐな髪がさらさらと流れ、白い頬にかかる。

 その表情が妙に幼く見えて泣きたくなる。

 手術をして元気になれば……彼女はもっと自由になれるのだろうか。


「今日、おやつ食べ損ねた……」


 そう言うと、カレンはしばしきょとんとミカルを見た後、唇の端を引き上げて少し意地悪な顔を作る。


「ほら、子供じゃないの。しょうがないわね……パンケーキならすぐにできるわ。それでいい? 夕食前だから少しだけよ」

「……うん」


 こくりと頷いて答えると、カレンはミカルから目を逸らして立ち上がった。そのとき、髪を直す振りをして涙を拭うのが見えた。


 いつもきつい口調なのは、あの涙を隠すためなのかも知れない。優しい、いいお姉さんだとアユタが言った。知ってる、そんなことくらい。でも時々、それが息苦しいのだ。


 しばらくすると、フライパンの上で溶けるバターのにおいが漂い、生地が流し込まれるジュッという音が聞こえてきた。

 でも本当は、パンケーキじゃなくてナッツがいっぱいのチョコレートバーが食べたい。


 不意に何故か、ユウリがくれたあのまずいロリポップの味が鮮やかに甦った。

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