3:父と娘とはそういうものか
「遅いじゃない、ミカル。寄り道してたんじゃないでしょうね?」
マンションのドアを開けた途端に見えたのは、眉を吊り上げたカレンの顔だった。
少し長めのボブヘアは真っ黒で、ミカルのようなハーフらしい面立ちではないが、弟の目から見てもけっこう可愛い。アユタが夢中になるのも頷ける。……こんな鬼のような形相で出迎えたりさえしなければ。
「違うよ、ちょっとアユタと話し込んじゃって」
曖昧に答えながら、ミカルは香ばしいにおいに鼻をひくひくとさせた。テーブルの上には焼きたてのスコーンが籠に盛ってあった。
ミカルはリビングに鞄を放り出し、それに手を伸ばす。だが、カレンがぴしゃりとその手を叩いた。
「ダメよ! 先に手を洗って着替えて!」
そう言いながらも、カレンはブルーベリーとミルクのジャムを出してくれた。どちらもミカルの好物だ。
「もう、一々うるさいなぁ……」
文句を言いながらも、ミカルは姉の言葉に従い、手洗いと着替えを済ませて戻ってきた。
ユウリにもらったロリポップ、その後チョコレートクリームが挟まったビスケットを食べて、その上何食わぬ顔をして姉の手作りのおやつを頬張る。その上夕食も残さず平らげるのだから我ながら食べ過ぎだと思うが、摂取したカロリーはちっとも身にならなかった。
「ちょっとミカル! これは何?」
ミカルが二つ目のスコーンを手に取ったところで、後からカレンの尖った声が聞こえた。
「あ……」
振り向くと、頬を真っ赤にして怒っている姉の顔があった。指先には、紫と黄色の毒々しいセロハンがひらひらと揺れている。
いつもは証拠隠滅した後に帰宅するのだが、今日はあのまずいロリポップをネットで検索してみようと、包み紙をポケットに入れた。それを忘れていたのだ。
「買い食いはダメって言ったでしょう! こういうのは、添加物がいっぱい入ってるんだから。それに寄り道しないで帰ってきてって、あれほど……」
「わかってるよ」
「嘘! 全然わかってない! 私だってこんなこと、言いたくて言ってるわけじゃ……」
甲高い声で怒鳴った後、カレンは急にそれを後悔したように唇を噛み、静かにミカルを見つめた。
「……あなたは普通の身体じゃないのよ」
「大げさだよ、姉さん。事故に遭ったのなんてもう九年も前だよ」
「ダメよ、だって頭を打ったのよ。何年も経って突然後遺症が出る場合だってあるのよ」
交通事故だった。車に跳ねられ、外傷は幸い擦り傷と軽い打撲程度で済んだ。しかし、落下した際に後頭部を強く打った。
事故から九年、通院はしているものの、今のところ深刻な症状は出ていない。小さかったからか恐怖のせいなのか、事故のことはあまり記憶にない。
覚えているのは、まだ幼かったカレンが病室でずっと泣いていたこと。一緒に遊んでいたのに目を離してしまったから、だから弟が怪我をしたのだと、何度も自分を責めていた。
事故に遭った本人よりも、カレンのほうが精神的なショックが大きかったらしい。いつもピリピリして口うるさいのも、責任を感じてのことだろう。
だから、ミカルは反抗しつつも結局はカレンに強く逆らえないでいた。
「……ごめん、姉さん」
「いいの。私こそ怒鳴ったりしてごめんね」
カレンは少し悲しげに笑って、キッチンに立ち、夕食の準備に取りかかった。こうして家事の一切を引き受けているのも、償いのつもりなのかもしれない。
でもカレンはまだ十八歳だ。もっとやりたいこともあるだろうし、おしゃれをして遊びに行ったりもしたいだろう。街で同じ年頃の女の子とすれ違う度、そう思う。
姉さんのせいじゃない。事故はただの不幸は偶然だったのだ。そう言っても、悔やむ気持ちは消せないのだろう。
父もそうだ。離婚さえしなければ、自分がもっと子供と接する時間があればと悔やんでいた。ハウスキーバーにもっと子供たちについているように言い聞かせておけばと。
二人の後悔は理解できる。心配してくれている、愛されているのだと実感できる。でも……どこか息苦しい。
甘い物を異常に欲してしまうのは、もしかしたら頭を打ったせいなのだろうか。
そうかもしれない。いい加減な推察に妙に納得して、ミカルはスプーンに残っていたジャムを舐めた。
「友だちと遊ぶのは構わない、だが、一旦家に帰ってからにしなさい」
珍しく早く帰宅した父が冷静な声でそう告げた。夕食は外で済ませてきて、今は寛いだ様子でスコッチグラスを傾けている。
父、バート・ラウは、アジア各国にエステティックサロンを設ける、化粧品開発会社、イズンの役員の一人だった。
しかし、とても美容業界人の風体には見えない。東洋人らしからぬがっしりとした身体を黒のスーツで包んだ姿など、映画で見た強面SPそっくりだ。
丁寧に撫でつけた髪とあご髭、それに猛禽類の目。日本支社の善良なサラリーマンたちは、この父相手だとさぞ仕事がしにくいだろうと気の毒に思う。
以前は香港本社に勤めていたが、兵庫県に優秀な脳外科があると知ると、ミカルのために日本支社に移ることを希望した。
だが、やはり日本だけでは仕事がままならないのか、度々香港に出向いている。
バートの忠告にミカルは唇を尖らせ、すねて見せる。父に不便な生活を強いている罪悪感は、敢えて表に出さないようにしていた。
洗い物を終えたカレンは、二杯分のハーブティーを持ってミカルの隣に座った。
「友だちって、アユタ君のことでしょ。寄り道するくらいなら連れてきたら?」
「うーん……」
アユタの恋なら応援したいが、相手がカレンでは素直に協力する気になれない。どう答えようか迷っていると、カレンは何を勘違いしたのか、唇を尖らせじろりとミカルを見る。
「なんだ、もしかして彼女ができたの?」
「ち、違うよ! そんなんじゃ……」
「隠すことないじゃない。どんな子なの?」
それを聞き、バートは少し厳しい顔をカレンに向けた。
「詮索はよしなさい、カレン。十代の男の子の恋は、女の子が想像しているよりデリケートなものだよ」
「もう、父さんまで何言ってるんだよ!」
父のフォローに思わず立ち上がり、ミカルはムキになって否定する。顔が熱い、これでは彼女のことをからかわれて赤面してるようにしか見えない。
だが、本当のことを言うわけにもいかない。アユタの思いも、それから、ユウリの店に寄り道していることも。特に、買い食いがバレたときのカレンの反応を思うと恐ろしくてとても口にはできない。
「カレン、少しくらいは大目に見てやったらどうだ? 一緒に下校するくらい、健全なものじゃないか」
だから違うと言ってるのに。しかし、寄り道を許してくれそうな流れなのはありがたい。
父の言葉にカレンはつまらなそうに鼻を鳴らしながら、小さく頷いた。そんなカレンをバートは静かな目で見つめ、それから優しい仕草でその髪を撫でる。
時々、父とカレンはこうしてミカルには不可解な視線を交わす。父と娘とはそういうものかと思いながら、妙な居心地の悪さを感じ、ミカルは自室へ引き揚げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます