第8章 最後は神頼み!

 十二月、師走になってから雪でも降りかねない寒い日が続いている。さくらはカシミヤのマフラーをしっかり首に巻きつけて冷たい風を防ぎながらおでん屋に飛び込んだ。


「おー」


 カウンターの向こうからジョーが声をかけてきた。


「たまには、いらっしゃい、ぐらい言ったら?」


 さくらは彼に逢えた喜びを隠して不機嫌な顔をつくろう。先週はこの忙しい師走だというのにジョー、いや慶子おばさんの店は臨時休業とやらで閉まっていたのだ。


 毎週彼の店を訪れている自分としては、金曜日に彼の顔が見られないとガクンとくる。それも、話を聴いてもらいたかったその大事な週末に逢えなかったのだから。


 今日もテーブル席にサラリーマンらしき背広の男達が二人座っているのみ。カウンターの端のいつもの席に腰掛けながら、店がこの客数でやっていけるのかさくらは心配にならざるをえない。


「ねー、お客さんの数、少ないよね」


 店内を見廻してからさくらが囁くように言うと、ビール瓶とグラスを差し出しながらジョーがいつものようにニヤリとした。


「そんなことないさ。もう遅いんだぜ」


「それならいいけれど」


 手酌でビールをグラスに注ぎながらさくらはジョーに微笑する。


「で、さくらは何か話があって来たんじゃないのか?」


「あっ、わかる?」


「そりゃ、何となくね」


 ジョーはそう言うと眼を逸らせて奥のキッチンにある冷蔵庫からイカや海老を取り出して来た。俎板にイカを載せて包丁で細かく切り刻む音がする。トントントン。


「あのね、お見合いしたんだ」


 さくらが言うと、ジョーは一瞬沈黙してからこちらを見ずに答えた。


「あー、おばさんがそう言っていた、ってお袋が言っていた」


 ということはこちらの一挙一動(?)は母のお喋りのおかげで安藤家の人々に筒抜けらしい。


「とても揃ってデキた人だったの」


 さくらは意図的に朗らかな声を出して彼の反応を探る。ジョーはちょっと頬を強張らせたが、いかにもさり気なく答えた。


「よかったじゃないか」


 フム、とさくらは鼻を軽く鳴らす。もっと関心を持ってもらわないことには話が盛り上がらないではないか。


「一流大学を出てお堅い銀行に勤めているし、すごいイケメンで逞しい山男なの」


 ジョーは俎板の上でトントントンとイカを刻むばかり。いや、包丁のリズムが前より早くなった気がする。


「ね、どう思う?」


 しびれを切らしてさくらは畳み込むようにジョーに尋ねた。


「よかったじゃないか。で、どうしてソイツを断ったんだ?」


 やっと俎板から顔を上げて、ジョーが珍しく真面目な顔つきでこちらを見た。


「どうして断ったって知っているの?」


 尋ねながら、さくらは胸の内で舌を打つ。母が慶子おばさんにお喋りしたに違いない。この大悲劇(?)を魚にして大いに飲んで嘆き悲しもうと予定していたのだけれど、話が伝わっているとなるといささか腰砕けになってしまう。


「さくらのことは、なんだってわかるさ」


 ジョーの声音はいつもより優しい。いや、もしかしたらいつも優しかったのかもしれず、それに気づいていなかっただけだろうか。


 さくらはちょっと気恥ずかしくなりビールのグラスをもてあそんだ。


「あのね、もしかしたら探していた人はこの人じゃないか、って一瞬思ったの。初めての出逢いだというのに昔からの知り合いみたいにリラックスできて、一緒に話していて楽しかった。車でうちまで送り届けてくれて、それで、さようなら、と言おうと思ったら、彼が、話しておきたいことがある、って改まった口調でこちらを向いたの」


 グラスを見つめて独白しているのだけれど、ジョーが耳を傾けてくれていることは、何となく気配でわかる。


「まさか最初のデートでプロポーズ? とか思って緊張したわ。彼が前置きだけ告げてしばらく黙っていたから、いや、ひょっとしてゲイだったりして、とか不安になった。そうしたら、何だったと思う?」


 中西の口から出たのはある新興宗教団体の名前で、彼はその青年会のメンバーだったのだ。世の中で誤解されているところがあるから、と彼は説明した。別に一緒にメンバーになって欲しいというわけではない、とも付け加えた。ただ、知っていて欲しい、と。


「私、一晩考えてみたの。話には聞いていたけれど、いったいどういう宗教なのかグーグルして調べてみた。で、やっぱり苦手なんだ。信者から献金を集めるぐらいで社会的に害のない団体だとしても、そういう宗教にハマっている人ってどうしても胡散臭く感じられて、生理的にダメなの」


 さくらが相変わらずビールのグラスをもてあそびながら白状すると、ジョーが溜息に似た声を出した。


「愛があれば、宗教だなんだって関係ないだろう?」


 さくらはいったいジョーがどういう顔をして愛なんて言葉を吐いたのだろうか、と彼を見つめた。そういう怪しいヤツはやめておけ、と笑い飛ばしてくれるかと期待していたのに、責められているように感じる。


「だったら、愛がなかったということだわね」


 そう口に出したとたんに、さくらは自分でもはっきり理解した。宗教が、とか気になってしまったのは、中西にちゃんと惚れてはいなかったということを。


 携帯の着メロが聴こえ、ジョーが奥の帳場へ向かった。


 黒いTシャツを着た肩幅が異様に広く見える彼の背中。いったいいつの間にジョーはあんなに逞しくなってしまったのだろう、とふと戸惑う。


 二言三言喋ると、彼は上半身だけこちらに向けて眉をしかめた。


「あー、さくらがいるから・・」


 不意に自分の名前が出たので、さくらはいったいどうしたのかと眼で彼に尋ねたが、ジョーは不安げな表情を湛えたままこちらを見るばかり。


 サラリーマン風の男が勘定を支払いに来たので、さくらはとっさに帳場へ向かって伝票をチェックし仲居役を務めることにした。


「毎度ありがとうございます」


 威勢良く客を見送ってから、まだ携帯を手にして何やら込み言った話をしているらしいジョーに近づき、小声でいとまを宣言する。


「じゃあ、もう帰るから」


 するとジョーに腕をつかまれ引き留められたのだった。彼の手の思いがけない力強い感触に思わず胸がどきりとする。


 話を終えたらしいジョーは携帯をパチンと閉めると、真剣な顔を振り向けた。


「今店を閉めるから、一緒に帰ろう」


 こちらの返事を待たずに店仕舞いを始めたジョーを手伝いながら、いったい何事かとさくらは戸惑う。たまたま最後の客達が退出してくれたとはいえ、まだいつもの閉店時間ではないのは確かだった。しかし唇を真一文字に結んだジョーには何か考えがあるらしく、どうやら店を閉めてからでないと答えは聞けそうにない。


 店の外に出ると、凍てついた空気に酔いが一気に醒めた。ダウンのジャケットを羽織ったジョーがガラス戸に鍵を掛け、二人で並んで夜道を歩きはじめる。


「何か、あったの?」


 さくらが問いかけると、隣を歩いているジョーは前方を向いたまま頬を強張こわばらせた。


「あのさ、おでん屋は年内でしばらく閉めようと思うんだ」


 突然の話にさくらは愕いた。客が少ないとは思っていたが、閉店を迫られるほど不振だったとは知らなかったからだ。


「どうして? 慶子おばさんがそう望んでいるの?」


 さくらの問いにジョーはしばらく答えなかった。駅の表口を抜けると葉を落とした裸の銀杏並木が閑静な住宅街へと続いており、淡い街燈の灯りが間遠に足許を照らしている。


「お袋、実は癌なんだ」


 突然のジョーの言葉に愕き、さくらは足を止めて彼を見た。


「なぜ・・、なぜ今まで黙っていたの?」


 ジョーも立ち止まると、こちらを見た。


「さくらを心配させても、お袋の癌が治るわけじゃないからな」


 彼の顔には悲痛さというより諦めが漂っており、安心させようとでもいうのか、ジョーは薄い笑みを口許に浮かべた。


「水臭いことを言わないでよ。私達は兄弟みたいなものじゃない。慶子おばさんは私にとっても大事なの」


 喋っているうちにさくらの胸は重苦しい憤りにふさがれた。それは、これまでそんな大事なことを内緒にしていたジョーに対しての憤りというより、いわば身内のおばさんを襲った癌という病に対する怒りだ。眼の前に立っているジョーの顔が不意に霞んで、さくらはどうやら自分が涙を流していることに気づいたのだった。


「泣くなよ。まだ俺は絶望していないんだから」


 ジョーは快活な声を装ったが、あふれ出した涙は止まらない。


 唐突に、さくらはジョーにしっかり抱き締められていた。哀しみに襲われているのは息子のジョーの方なのに、と頭の片隅ではわかっているのだが、さくらはしばし彼の腕の中で子供みたいに啜り泣いた。


 こうして彼の力強い腕に包まれ胸の鼓動に耳を寄せていれば、すべては杞憂きゆうに終わってくれるのだろうか。そう信じてもいいのだろうか。


 さくらがやっと落ち着きを取り戻すと、ジョーは腕を解いて話しはじめた。


 九月に急性盲腸で入院した際に慶子おばさんの膵臓すいぞう癌が見つかったこと、癌は手術で摘出したのだけれど、先週の検査で胃に転移していることがわかったそうだ。


「医者は手術すれば大丈夫だろうと言ってくれた。ただ、転移が早いから、悪性の可能性もあるそうだ」


 さくらは思わずジョーの手を握った。


「大丈夫よ。きっとおばさん、元気になるわ」


 ならないはずがない、とさくらはジョーの顔を見つめる。万が一慶子おばさんが亡くなったりすることがあったら、ジョーは天蓋孤独の身になってしまう。そんなこと、絶対に許せなかった。


 ジョーはさくらの手を握り返すと、言った。


「さくらにそう言ってもらうと、心強いよ」


 当たり前でしょう、私の方が二カ月お姉さんなんだから、という定番の台詞をさくらは呑み込み、泣き笑いの微笑で彼に答えた。



 慶子おばさんの手術は二十日と決まった。この寒い季節におでん屋を閉めるのは心苦しいとおばさんが言うので、ジョーは大学を休んで店に出るそうで、さくらもオフィスの後に極力手伝うことにした。彼を励ますにはそれが一番だと思えたからだ。


 さくらがおでん屋の手伝いで忙しいと伝えると、里子が食べに来てくれた。


「最近どうしているのかと思ったら、もう婚活はやめたっていうわけ?」


 カウンターに座った里子に問われて、さくらは苦笑する。


「やめたわけじゃないけれど、ちょっと活動休止中」


「年末までに婚約に漕ぎ着けるはずだったんでしょう? このクリスマスのロマンチックな季節におでんなんて食べていたんじゃ、出逢いなんてないよ」


 里子に言われるまでもなくそんなことはわかっているが、さくらは強気の発言をする。


「まだ年末まであるわよ。この店にだって若いサラリーマンとか来るわけだし、私のエプロン姿にゾッコン、という展開だって有り得る」


 里子が肩を竦めて店内を見渡した時に慶子おばさんの様子を見に行っていたジョーが店に戻って来た。カウンターの中に入って奥で手拭を頭に巻いている彼を見て、里子がさくらを手招きして囁いた。


「ちょっと、あれ、誰?」


「誰って、私の弟分、この店の若旦那」


 さくらが面白おかしく説明すると、里子は彼の姿を眼で追った。


「ひょっとして独身?」


「正真正銘、私の知る限り独身よ」


 ジョーがさくらの隣に並び立つと、里子はいやに妖艶な微笑を湛えている。


「さくら、若旦那を紹介してちょうだい」


 怪訝な顔をしているジョーにさくらは里子を友人だと紹介した。


「やあ、いらっしゃい」


「ここのおでん、とっても美味しいですね。また来ちゃおうかしら」


「どうぞ、いつでもお寄り下さい」


 さくらが甲斐甲斐しくテーブル席の客におでんや酒を運んでいる間も、里子は嬉しそうにジョーと話をしているようで、ジョーも満更でもなさそうな笑顔を浮かべているではないか。


「さくらは年末までに婚約するって公言して、婚活しているんです。知っていました?」


 冷酒を傾けながら里子が愉快そうに話すと、カウンターの中でジョーがおでんを盛りつけながら同じく愉しそうに答えた。


「知っていますよ。俺は一応参謀役を与えられていますから」


 二人して自分をコケにしているのは面白くない。それに酔ってでもいるのか里子は柄にもなく猫撫で声を出した。


「年末までってもうカウントダウンだから、奇跡でも起きないと難しいですよねー」


「まだ神頼み、っていう手が残っているわ」 


 さくらはおでんの盛り付けを手伝いながら毅然として宣言する。そう、このさくらが誓って出来なかったことなどいまだかつて何一つないのだ。


「あれ、宗教は苦手とか言ったじゃないか」


 傍でジョーが冷やかしたので、さくらは応酬した。


「宗教に振り回されるのはイヤだけれど、こちらの願いを聞き届けてくれる神様だったらどの神様でも大歓迎よ」


「じゃあ、さくら、パワースポットに祈願に行かなきゃ」


 里子の軽口にジョーが真面目な顔で尋ねた。


「何ですか、そのパワースポットって」


 こういう分野が得意な(?)里子が嬉々としてパワースポットについて説明をはじめ、さくらが客の注文をテーブルに運んで戻って来ると里子とジョーはまだ話し込んでいた。


「つまり、普通の寺や神社でいいわけか」


「ま、そうだけれど、気の力があふれている場所、ということなの。たぶん昔の人はそういう場所を察知していて、そこにお社を建てたということでしょうね」


 里子は長い髪を手でかき上げ、いつものドスが利いた声をおくびにも出さず、やけに女々しく振る舞っているように感じられる。


 さくらが客の注文を取ってカウンターに戻ると、里子がジョーに顔を寄せて何か親しげに耳打ちしていた。それに応じて気前良く笑顔を見せているジョー。


 面白くなくてさくらはフン!と小鼻を上に向ける。


 粘っていた里子がやっと腰を上げてくれたのは閉店間際の時間だった。彼女を送り出してカウンターへ戻ると、ジョーが可笑しそうに呟いた。


「あれがいわゆる肉食系美人っていうタイプなのかな」


 さくらは彼の緩んだ頬を抓るかわりに皮肉を言う。


「そう、取って食われないように、せいぜい気をつけることね」


「あれっ、もしかして妬いている?」


 ジョーの嬉しそうな声に、さくらは彼をにらんで「まさか」と断言した。でもそう言ったとたんに先ほどから胸の内でくすぶっている不快なものの正体が掴めたのだった。それは「まさかの嫉妬」に相違なかった。



 さくら達が住む住宅街のはずれに鎮守の森がある。このあたりはもともと鬱蒼と雑木林が生い茂っていた地で、宅地開発を免れた一角は公園になっており、そこに朱色の鳥居が並ぶ石段があり奥に小さなお稲荷さんが建っている。


 慶子おばさんの手術が明日に迫った晩に、さくらはジョーに誘われて鎮守の森を訪れた。子供の頃はよくこの公園で遊んだもので、夕方になって暗闇が訪れると、お社の前に対で立っているキツネの石像がじろりとこちらを見そうな気がして怖く感じられたものだ。


「お稲荷さんっていうのはやっぱりパワースポットだろう? 昔の人はきっと何か霊感を察してここにお稲荷さんを建てたんだろうな」


 石段を登りながらダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んだジョーが言う。


「パワースポットかもしれないけれど、何か出て来そうで不気味だわ」


 さくらは闇に淡く浮かび上がる鳥居を見上げながら耳を澄ます。林の方角からカラスだろうか、不意に鳥が飛び立つ不気味な音が聴こえて思わず足がすくんだ。


「臆病だな、さくらは」


 そう言うと、ジョーはポケットから手を出してさくらの手をつかんだ。


 彼の温かい手。昔もこうして手を繋いで何度もこの石段を登ったはずなのに、彼に手を握られていると思うといやにドギマギする。このところ、前と変わらない彼のちょっとした仕草になぜか鼓動が早まり字の如くドキドキするのだ。いや、急な石段を登って来たのでそれで脈拍が早まっただけだろうか。


 石段を登り切ったところに対のキツネが社を守るように飾られている。さくらはタッパーに入れて持って来た白滝入りの油揚げ(おでん)をキツネにお供えした。


「ねえ、なんでキツネは油揚げが好きってことになっているの?」


「どうしてかな。人に化けておでん屋に来たりしたかもしれないね」


 軽口を叩きながらジョーはキツネに軽く手を合わせた。たたりがあってはいけないのでさくらも真似る。


 三角屋根の小さな社は雨風に打たれてずいぶん古びており、神社のようなお賽銭さいせん箱や鈴はないので、二人で社の前に並び立ち、眼を瞑って手を合わせた。


 時おり風にあおられて枯れ葉が騒ぐ音が聴こえる以外、全くの静寂だ。


 さくらは胸の内で、慶子おばさんの手術がうまくいきますように、とお祈りした。薄眼を開けて隣のジョーを盗み見ると、彼はまだ一心に祈っているようだった。


 さくらは再び眼を瞑り、ジョーが元気になりますように、と祈る。いや、彼は今だって元気なのだからその必要はないだろう。でも彼がおばさんの病で胸を傷めたり悲嘆にくれる顔は見たくなかった。


 ふと、パワースポットに行けと里子に教えられたことを思い出し、ついでに婚活のお祈りもしておこうかという考えが胸を過る。


 どうか素敵な人と結ばれますように。


 眼を固く瞑って胸の中で祈りを唱えていると不思議な安堵に包まれた。それはこの六カ月間近くの騒動のような慌ただしい婚活とは無縁な、地に足が着いたごとき確かな手応えで、結婚できないかもしれないとの不安を感じていた自分は遥か昔の笑い草であったというような安らぎだ。


 私にとっての、私だけの素敵な人。いわば幸せの青い鳥を探して長いこと旅に出て、そしてやっとここに戻って来た、そんな気がする。


 さくらが視線を感じて眼を開けると、隣でジョーが微笑していた。


「何をそんなに熱心にお祈りしていたんだ?」


「何を、って慶子おばさんの回復を願っていたに決まっているじゃない」


 さくらはつい恥ずかしくなってツッケンドンになる。そんな素振りを見せたら他のことを考えていたことがジョーにはお見通しに違いない。


「俺はさくらのこともお祈りしたよ。素敵な旦那が見つかるように、ってね」


 ジョーの言葉にさくらは一瞬びくりとして、彼を見上げた。彼が吐いた他人行儀とも思える言葉に実は傷ついており、こちらのそんな動揺が彼の瞳にくっきり映っているような気がする。


「もしかして・・」


 もしかして、ジョーは私のことが好きなのかと思っていた。


 とっさにそう口を滑らしそうになったが、さくらはあやういところで言葉を呑み込み微笑で誤魔化した。


「ジョーのお祈りのおかげで年末までにプロポーズしてくれる人が現われるかもね」


 さくらは冗談を装い、ジョーに背中を向けた。空を見上げると蒼褪めた月。


 いつからこんなにややこしくなってしまったのだろう。ジョーはまったく女心に鈍感なんだから、と嘆きたくなるのだが、ここでそんな愚かな本音を出すわけにはいかない。なにしろ明日は慶子おばさんの大事な手術の日なのだ。


 さっさと歩き出したさくらを後ろから追いかけて来ると、ジョーは隣に並び立った。


「お稲荷さんってさ、祈りが叶えられたらまたお礼参りに来なきゃいけないんだって」


「じゃあ、おばさんの手術が終わったらまたお礼に来ましょう」


 ジョーを力づけようとさくらは意図して朗らかな声を出した。婚活よりも何よりも、彼には元気な笑顔を見せていて欲しい。


 ジョーの手が伸びて来てさくらの手をそっと握った。


「さくらにそう言ってもらうと、お袋の手術もうまくいきそうな気がする」


 絶対うまくいくわよ、とさくらは祈るように彼の手を握り返した。



 今日は十二月二十四日、巷ではカップルが愛を囁き合うクリスマス・イブの日だ。恋人でもいれば当然クリスマスのイルミネーションが綺麗な街へ繰り出したいところだが、さくらは例年通り家で両親と共にイブを祝うことになる。数えて二十九回目のホームクリスマス、来年はめでたくも(?)三十周年となるわけだ。


 寺内家のクリスマス料理は記憶に残る限りローストチキンだったが、今年は母がデパートで冷凍の七面鳥を買って来てローストターキーを焼いた。


「こりゃ、チキンみたいに小さな七面鳥だなあ」


 肉を切り分ける役を母から仰せつかった父がナイフとフォークを手にこぼしてにらまれた。


「このサイズでもお高かったのよ。でも七面鳥の方が脂が少なくて健康的なんですって」


 テーブルの上にはワイングラスと赤いナプキンが並び、一応クリスマスの雰囲気は出ている。肉を皿に取り分けてから、家族でイブの乾杯をした。


「丈君も食べに来ればいいのにね」 


 母のボヤきにさくらは肩をすくめる。慶子おばさんの手術はうまくいったのだが、おばさんがまだ入院中なのでジョーを招くように母から申しつかっていたのだった。


「呼んでおいたわよ。でも、今夜はイブの行き場がない客のために店を開けておきたいんですって。後でケーキを食べに来るって」


「イブにおでん、ってちょっとミスマッチじゃない?」


 母が意見すると、父が反駁はんばくした。


「イブ、イブ、って言うが日本人はキリスト教徒じゃないからな。家族持ちは子供のためにクリスマスを祝うかもしれないけれど、普通の日本人は寒い冬の夜にはおでんの方がいいと思うさ」


「あら、今はクリスマスって若い人達のためにあるみたいじゃない。丈君ももしかしたらガールフレンドか誰かと過ごす予定があるのかもしれないわね」


 何気ない母の台詞に、さくらは反射的に答えていた。


「それはないと思う」


 言いながら、いや、もしかしてそういうことがあるのだろうか、といささか不安にならないわけではない。今夜は手伝いはいらないと言ってくれたけれど、本当におでん屋をイブの晩に開けているのか、行ってこの眼で確かめたくなる。


「でも慶子さん、お店はどうするのかしらね。胃を三分の二も切ってしまったら、やっぱりお店を続けるのは難しいんじゃないかしら」


「いや、胃癌っていうのは生存率が高いらしいし、会社でも手術の後元気にやっている人を知っているよ」


 両親の話を耳にしながら、さくらは今年いっぱいでお店はしばらく閉めると語っていたジョーの顔を思い起こした。彼にだって大学の仕事があるのだから、ずっと慶子おばさんの代りを勤めることは難しいらしい。


 たっぷり時間をかけてローストターキーを食べワインを飲んだがジョーは現われない。


 母が毎年クリスマスに焼くのは苺を挟んだ白いデコレーションケーキで、小さなサンタのろうそくが飾られている。ジョーは昔からこのケーキが好きだった。さくらは携帯でクリスマスケーキの写真を撮り、ジョーにテキストメッセージを送った。


「早く来ないとケーキがなくなります。メリー・クリスマス!」


 写真の効果があったものか、コーヒーを淹れケーキを切り分けて食べているところに、ほどなくしてジョーがやって来た。


「あら丈君、待っていたのよ」


 母は上機嫌でジョーにケーキを大きく切り分けた。


「おばさんのケーキはいつも飛び切り美味しいですね」


 ジョーがヨイショしたので母君はますますご機嫌だ。さくらはテーブルを眺め渡し、ジョーが昔みたいに家族にしっかり融け込んでいるサマを微笑ましく感じた。


 しばらく父や母と話していたジョーは、さてと、と言うと真面目な顔になった。


「おじさん、おばさん、ちょっとさくらをお借りしてもいいですか? 一緒に行ってもらいたいところがあるので」


 そんな話、聞いていないけれど、とさくらは内心愕く。


「あら、でももうこんな時間だし」と母が言いかけると父がそれを制した。


「どうぞ、どうぞ。丈君と一緒だったら心配ないし、イブの晩ぐらい出かけてくれた方が年頃の娘の親としては安心だ」父の言葉に、またまたさくらは愕く。


「それじゃあ」とさくらは赤いセーターの上に白いダウンのジャケットを羽織って、ジョーと共に表へ出た。歩きはじめた彼の後を追いながら、尋ねずにはいられない。


「いったい、どこへ行くの?」


 ジョーは嬉しそうな顔で振り向いた。


「この前約束したじゃないか。祈りがかなったら一緒にお礼参りに行くって」


 ということは鎮守の森へ向かうのだろうか。


 空を見上げると満月に近づいた月が蒼い光を優しく投げかけていた。駅前は華やかにライトアップされクリスマスのイルミネーションで彩られているが、イブの住宅街は淡い月光と街燈の仄かな灯りに照らされているばかりで、厳粛とも呼べる静けさに包まれている。


「ねえ、今夜はどんな人がおでん屋さんに来ていたの?」


「身寄りのない人、奥さんに死に別れた人、彼氏のいないOL」


「嘘ばっかり。本当はお店、閉めていたんじゃない?」


 並んで歩いているジョーはしばらく沈黙していたが、ああ、と答えた。


「・・本当は、誰に逢っていたの?」


 さくらが思い切って尋ねるとジョーは立ち止まって可笑しそうにこちらを見た。


「気になる?」


 さくらは彼を見つめて、白状する。


「気になるわ。シャクだけれど」


 ジョーは目許で笑うと、うそぶいてみせた。


「俺が指導している院生の女の子。スゴイ美人だ」


 さくらは彼をにらみ、フン!と小鼻を上に向けた。


「それも嘘。そんなことお見通しだわ」


 ジョーは顔を近づけると発言を訂正した。


「店を早く閉めて病院へお袋の顔を見に行ったのさ。イブだからな」


「看護婦さんも可愛いし、とか言いたいんでしょう?」


 彼の答えに安堵してさくらが軽口を叩くと、ジョーは笑って彼女の手を取った。


「そうやって焼き餅焼いているさくらも可愛いよ」


「別に、焼き餅なんて焼いていないわよ」


 先日ジョーと共に慶子おばさんの見舞いに行った折には白髪の年配の看護婦しかいなかったことを思い起してさくらは内心ほっとする。


 長い石段を彼と手を繋ぎながら登った。これまでも何度もこんな場面があったように思う。小学生の頃だったかもしれないし、中学の頃にも一緒に登ったかもしれず、ふと既視感のように思い出が蘇ってきそうになる。


 鳥居を潜りお稲荷さんに向かって二人で手を合わせた。


 慶子おばさんの手術が成功したことに感謝を込めて。そしておばさんが回復してまた元気になってくれますように、と。そして・・


「さくら」


 名前を呼ばれてさくらが振り向くと、ジョーがおやしろを見つめたまま、言った。


「昔ここで約束したこと、憶えていないかい?」


「いつ? 何を?」


 さくらが怪訝けげんな顔で尋ねると、ジョーがこちらを振り向いた。


「ずっと昔、おやじが死んだ頃」


 おじさんが亡くなった頃といえば小学校二年の時だ。彼はあの頃よく父親を思い出して一人で眼に涙を溜めていたが、さくらが近づくと気づかれまいとそっぽを向いたものだ。


 しばらくさくらを見つめていたジョーが、覚悟を決めたかに口を開いた。


「ここで、さくらは言ったんだ。・・大きくなったら俺のお嫁さんになってくれる、って」


 ジョーの言葉に愕きつつも、さくらは不意にその光景を思い起こした。


 おじさんの魂にお祈りしようと二人で鎮守の森を訪れて、思わず涙したジョーを抱き締め、確かそんな風に慰めた憶えがある。約束、と言われれば、約束には違いない。


「大きくなったら、って幾つぐらいになればいいのか、ってずっと考えていたんだぜ」


 そう言うと、ジョーは腕を廻してさくらを力強く抱き寄せた。


「もう大きくなった、ってことでいいのかな、って」


 当時は背が低かったジョーの幼い面影が瞼にちらつく。確かあの時は、この自分が弟分の彼を守ってあげなきゃ、というぐらいに固く決心していたはずだ。


 そのジョーがいつの間にやら大きくなって、今ではこんなに胸が厚くなり肩幅も広くなって、有無を言わせないほど逞しい腕ですっぽりと身体を抱き締めてくれている。


「莫迦ね、そんな約束を憶えているなんて」


 さくらがジョーの胸に深く顔を埋めると、彼が耳許で囁いた。


「俺は約束を忘れたりしない。・・だからずっとさくらのことが好きだった」


 ずっと好きだった、って、それホントに本当?


 彼の顔を見上げると、ジョーがいつになく緊張した面持ちで、言った。


「結婚しよう」


 一瞬息の音が止まるかと思ったが、さくらは愕きを呑み下して一応確かめることにする。


「それって、もしかしてプロポーズ?」


「年末までに婚約する、って宣言したよな」


 彼の台詞が可笑しくて笑うと、ジョーは気まずそうな顔をした。


 ここで女心に鈍感な愛しい人を心配させてはいけないので、さくらは彼の首に腕を廻すと、答えた。


「年末まで、待てないわ」


 目許に安堵の笑みを浮かべたジョーが顔を寄せ、次の瞬間にはさくらの唇はしっかり彼の唇にふさがれていた。(了)


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