第7章 お見合いは合理的?

 銀杏の街路樹が黄金色に黄葉して美しく街を彩っていたのも今は昔、十一月に入ると急速に肌寒くなった。


 落ち葉を踏み締め駅に向かって歩きながら、さくらは半ば期待、半ば諦めの心境でコートの襟を立てる。今日は春子の家で催されるホームパーティーに向かうところだが、実はこのパーティーは彼女に仕組んでもらったお見合いでもあるのだ。


 先日彼女とお茶をした際の会話を思い出す。


「そんな、ネットなんて危ないし期待できっこないじゃない」


 ネットでの出逢いの成果(いやまたしても失敗)をこぼしたとたんに春子に言われ、さくらとしては友人の前でメンツを多少とも保つために弁明を迫られた。


「誤解よ、身元確認とかがあるから、別に危ないわけじゃないわ」


「でも、要するに自己申告ベースなわけでしょ? それだと、本当のところはわからないじゃない。友人として押せる人間かどうか、とか。だからガッカリ編が多いんだと思う」


 春子の観察には同感せざるを得ないところがある。自分も含めて、ネットの上は自己PRの世界で、さくらがプロフィールで「お料理好き(?)で家庭的な女性」を装うのとご同類、異性に好まれそうなタイプが氾濫しており、その中に第三者から見たらヘンな人間、ご免こうむりたいタイプが混じっていても不思議ではない。


 それに高階氏との出逢いで気づいたのだけれど、いわゆる「条件が揃っている男」というだけでは(惹かれるための)必要条件を満たしてはいるが不十分で、イイ人だとしても実際に逢ってみないことには相性が合うかどうかわからないわけだ。


「ところで」と春子が切り出したところによると、彼女の旦那の親友が結婚相手を探しており、さくらに合うんじゃないかとピンと来たというのだ。


「私に合う、って、どういう意味で?」


 苦笑してはみたが、さくらは内心は大いに乗り気になっていた。腐れ縁とは言わないまでも小学校以来の友人である春子はこちらの性格や趣味を熟知しているわけで、その彼女が「合う」のではと太鼓判を押してくれる男性だったら、「性格の一致」を狙える可能性が高くないとも限らない。


 もう十一月ということは、婚活当初の目的である(あった?)「年末までの婚約」を達成するためには手っ取り早く未来の夫(!)に出逢わなければならず、何万人もが利用しているネットのお見合いサービスで自己申告ベースのデータを便りに、当たるも八卦、当たらぬも、と悠々と検索をするヒマはない。


 一方で、さくらは春子が紹介してくれるという相手に実はそれほど期待していない冷めた自分にも気づく。


 この五ヶ月間近くというもの、考えられるすべての方法で花婿を探したはずだ。東に逞しき男がいると聞けばアスレチック・クラブで懸命に走り、西にデキる男がいると聞けば苦手な包丁を振りかざし、漢字が共通だとはいえ日本語とは似ても似つかない中国語だって(挨拶ぐらい)マスターしたのだった。


 これだけ奔走ほんそうしても素敵な男性に出逢わないのは、ひょっとして自分には結婚運がないのではないか、と内心懸念しはじめている昨今なのだ。


 春子の新居は閑静な住宅街にあるマンションだ。旦那の両親が資金援助してくれたそうで、さすがエリートの旦那(の実家)だけある、と羨ましくならざるを得ない。


「いらっしゃい! さあ、上がってちょうだい。まだ彼は来ていないんだ」


 春子に続いて広々としたダイニングルームに向かうと、彼女の旦那、夏彦が迎えてくれた。


 テーブルの上にはワイングラスとスモークサーモンや生ハムを使った綺麗なピンチョス(アペタイザー)が並んでおり、春子が料理できるのは鍋ぐらいだと思っていたさくらは感心した。やっぱり奥さんをやっていると、人間、それなりに進歩するものらしい。


 チリ産だとのワインを飲み、サーモンのピンク色が鮮やかなピンチョスを摘みはじめたところ、玄関のチャイムが鳴った。夏彦が迎えに出向き、春子とさくらは「いよいよやって来た」と目配せし合う。


 物音にさくらが興味と期待半々の眼差しを向けると、春子の旦那の後ろから登場したのは「水も滴るイイ男」、とは言い難い小柄な男性だった。


 六月の春子達の結婚式でスピーチに立った新郎の友人たるイケメンを思い起こし、それなりに期待していたさくらは内心大いにガッカリである。しかし、いかにも誠実そうな感じで悪い男ではない。


「さくらは小学校以来の私の大親友なの」


 春子の紹介に続いて旦那の夏彦が述べる。


「緒方は大親友とは言えないな。中高以来の腐れ縁だ」


 紹介らしからぬ紹介にいささか緊張していたその場の空気が解れ、皆で笑い合いながらワイングラスを傾けることになった。


 緒方徹というその彼は、中高一貫教育を行う男子校で夏彦のクラスメートだったとのこと。同じくエリート大学に進み、某IT企業でシステムエンジニアをしているそうだ。


「さくらって昔から理系が好みだったのよね」と春子。


 そのつもりはないけれど、さくらも話を合わせながら微笑する。


「昔から理科とか数学って苦手なんです。だから理系を選考する人ってすごく尊敬しちゃう」


「本当を言うと、僕は小さい時は理科が嫌いだったんです。明日はカエルの解剖、なんて言われて思わず仮病を使って学校を休もうかと思ったぐらいですよ」


 緒方の笑顔はちょっと弱々しく貧相な感じだ。


「あっ、それ憶えているよ。お前、カエルを麻酔して眠らせる代わりに自分が麻酔されたみたいな蒼い顔してたよな。いつぶっ倒れるかって心配したんだぜ」


 夏彦の言葉に緒方が苦笑して皆が笑い、ワインのグラスが空になる。


 ワインのほろ酔い気分も手伝い、これがお見合いだという事も忘れかけてお喋りをしていると、春子が席から立ち上がった。


「それじゃあ、そろそろお鍋にしようかしら。さくら、手伝ってくれる?」


 春子のあとに続いてさくらはキッチンへと向かう。キッチンの扉を閉めると、春子が瞳を輝かせた。


「緒方さん、どう? 素敵な人だと思わない?」


 そう聞かれても実は困る。というのは正直言って、印象の薄いタイプなのだ。誠実で優しそうではあるが、ソー・フヮット(だからどうだ)?


 さくらがそう感想を述べると、春子が眉をしかめた。


「さくらさあ、そんなシビアな評価をしていたんじゃ、上手くいくものも上手くいかないよ。付き合ってみないと彼の良さがわからないんじゃない?」


 なんでそこそこの(失礼!)相手とわざわざ付き合う必要があるのか、と疑問を感じてはいるのだが、わざわざ仲介の労を取ってくれた春子にそうはっきりと言ったのでは角が立つので、さくらはやんわりと断ることにする。


「でも、ちょっと大人し過ぎない?」


「そこがさくらとピッタリだと思ったのよ。さくらがお喋りするのをウンウンって優しく聴いてくれそうなタイプじゃない」


「話を聴いてくれる男性に越したことはないけれど、のれんに腕押しみたいなタイプはどうも・・」


 さくらは説明を試みるが、春子は説得らしきものを続ける。


「世の中には自分のことばかりまくし立てる男も多いんだから、緒方さんは掘り出し物よ」


「そうは言ってもねえ・・」


 タイプじゃない、とさくらははっきり言いたくなるのだが、それでは春子に失礼かも知れず言葉をにごす。


「夏彦によると、緒方さんは何かあったら一肌脱いでくれる信頼できる友達なんだって。だから私としてもさくらに彼を紹介したいと思ったわけ。そこ、考えてよね」


 わかっているわよ、と答えてはみたものの、さくらは「これだよ、これ」と胸の中で溜息をつく。


 婚活のハウツー本には確かに「友人の紹介」が有望な伴侶探しの方策であると強調されているが、一肌脱いで(?)紹介してくれた友人は自分が見立てて見合いさせた二人が上手くいくことを望んでいるわけで、「タイプでない」と簡単に切り捨てるわけにはいかなくなる。友人に対する心遣いとも言えるし、しがらみであるわけだ。


 ここは春子の顔を立てるために、何とか緒方の素敵な面を見出すべく努力しなければいけないのだろうか。


 テーブルの中央には簡易コンロが設えられ、真新しいルク(フランスのル・クルーゼ社製)の赤い琺瑯鍋が置かれた。春子お得意の豆乳鍋で、カツオ昆布ダシに豆乳を入れたスープに薄切り豚バラ肉、えのきやシイタケといったキノコ類、そして白菜やニラを入れて食べる。


 暖かい鍋をワサワサと遠慮せずに食べワインもしっかり飲みながら、多少酔いが廻ってきた頭で、さくらは緒方をじっくり観察する。ひょっとして自分の心を駆り立てさえすれば彼を好きになれるのでは、と己に問い掛け説得を試みる。


 だってそうじゃない。客観的に見て見栄えはそれほど悪くないし、性格も温厚そう。怖い顔をして怒ったり、言い返したりすることはなさそうなタイプだ。


 きっと良い夫になるに違いなく、春子の旦那の親友ということであれば友達のダブルカップル誕生で末永く友達付き合いするのにも都合がいい。三十路を目前に控えた自分は贅沢を言わずにここら辺で手を打つのが正解なのかもしれず、そういう運命なのだろうか。


 緒方に豆乳鍋が美味しいと褒められて、春子が満更でもなさそうに微笑した。


「鍋料理って家庭的でいいでしょう? 次回はさくらが好きなおでんにしようかしら。ね、さくら」


 唐突に話を向けられて、さくらは我に返る。


「僕はおでんも好きだな」と緒方がフォローした。


 鍋に手を伸ばしたところ手首で銀のチャームが揺れ、さくらはふと、この緒方をジョーのおでん屋に誘い彼がどういう判断を下すかを尋ねたい思いにとらわれる。確かこの前、花婿候補(?)の首っ引きをしてくれると言ってくれたはずだ。


 そう思いつくと、急にジョーの顔が見たくなった。この金曜日に訪ねた時もイマイチ浮かない顔をしていたけれど、ヘラヘラ笑ってくれずムッツリしていても、彼の顔を見ると何となく安心するのだ。こと結婚という人生の大事に当たっては、唯一の男兄弟(義兄弟!)の意見を尋ねてみるのが正解ではないだろうか。


「さくらさん、お酒がけっこういける口なんですね」


 緒方のコメントにさくらは親しみを込めた口調で答えた。


「えー、酒乱とまではいきませんけれど、手酌でバンバン飲めちゃうんです」


 さくらの発言に、緒方という男はその晩初めて微かに眉をひそめた。




 カウンターの上には熱いチュウ杯、今夜はこれで二杯目だ。


「ねえ、私みたいな大酒飲み、誰もお嫁にもらってくれないかもよ」


 さくらは冗談を吐きながら、カウンターの中で俎板を前に忙しそうに立ち働いているジョーの横顔を眺める。


「だろうな」


 心ここにあらずということらしく、素っ気ない合槌のみが帰ってくる。ジョーはいつものように手ぬぐいを頭に巻き、何やら真剣な眼差しで手許を見つめ、俎板からはトントントンと洒脱で軽妙なリズムが響いていた。


 一日坊主に終わった料理教室の唯一の成果は「料理する男性はセクシーに見える」という新発見をしたことだろうか。


 生温い酔いに判断力が麻痺(?)しているらしく、ジョーがなにやらハンサムに見えてくる。美人の慶子おばさんの息子だけあって元々顔の骨格が整っているし、こうしてじっくり眺めてみると、頬を引き締めちょっと眼を伏せた横顔がいかにもサマになっているではないか。


 そう軽口を叩く代わりにさくらはジョーに報告する。


「あのね、春子が紹介してくれた彼、やっぱり連絡してこなかった」


「それはお気の毒」


 ジョーは俎板から顔を上げず、相変わらず素っ気ない口調だ。今に始まったことではなく、どうも最近ジョーはノリが悪い。


 いや、元々さくらの婚活に彼がもろ手を上げて賛成してくれたわけではなく、こちらから無理に巻き込んだのだった。しかし、それにしてももうちょっと関心を持ってもらいたいものだ、とさくらはじれったくなる。


「間違ってもらっちゃ困るんだけれど、断られたってことじゃないの。ちっともタイプじゃなかったんだもの。でも、一応お見合いだから仲介してくれた春子の顔を立てなきゃいけないでしょう? だからこちらからは断らなかったってわけ」


「で、向こうが断ってきたってわけだろう?」


 ジョーの声が心なしか弾んでいる。さくらは「モテる女」の看板(?)をおとしめないために事実をはっきりさせる必要に迫られた。


「断られたわけじゃないわ。連絡してこなかったっていうだけ」


「同じことじゃないか」


 ずいぶんはっきりとモノを言ってくれるので、反駁はんばくしてもいいのだが、さくらはふと思い当たる。


 これが正式なお見合いだとしたら「どうだった?」と出逢った二人の反応を探る仲人役がいるので「自然消滅」みたいな曖昧なパス(やり過ごし)は許されず、付き合うのか付き合わないのか、を明確にしなければいけないはず。そうだとすれば、連絡ナシは確かにお断りという意味に解釈せざるをえない。


 しかし、とさくらは考える。


 しかし、あの程度のフツーの男に「断られる」のもシャクではある。ここは春子を通じて彼に「こちらからお断り」との意向をはっきり伝えておくべきだろうか。


 いやいや、この際「連絡なし」を前向きにとらえて、「いざ」という時のために彼をキープしておく方が賢いかもしれない。


 いざという時、って?


 さくらは頭の中で今年も残り少なくなったカレンダーを日めくる。


「ねえ、私、なんだか年末までに婚約できそうもない気がしてきた。ジョーはきっと無理だとか思っていたでしょうけれど、私としてはこれでも精一杯探したのよ。男は条件だけじゃないってことはよくわかったんだけれど、じゃ、フツーでイイ人に逢ってみたら、それでも合わないの。これって、ひょっとして私は結婚できない運命なのかしら」


 言いながら、さくらは手にした梅チュウ杯のグラスを揺らして中の梅干がクルクル廻る様子をじっと見つめる。婚期を占う(?)ご託宣が浮かび上がってくるのを待っているのだが、なんだか眼が廻ってくるばかり。


 包丁のトントンという音が止み、ジョーがやっと口を開いた。


「イイ人、ってどこがいいんだ?」


「どこって・・」


 ちょっと背が低めだけれど爽やかな感じだし、声が少し小さいけれど穏やかな物言いとも解釈できるし、多少ノリが悪そうだけれど真面目なタイプだし、とさくらは胸の内で列挙する。要するに欠点らしい欠点がない「普通な人」なのだ。


「こういうこともあるんじゃないか」


 ジョーが彼にしては珍しく思慮深げな声を出したのでさくらは顔を上げて彼を見た。


「例えば、例えばだけれどさ、さくらは自分でも気づいていないかもしれないけれど本当は或る男のことが好きで、それでついいつも他の男性を無意識にその男と比べてしまう。それでどの男に逢っても、ああでもない、こうでもない、って御託を並べるわけだ」


「あっ、それは全然ない」


 さくらは笑いながらジョーに答える。好きになった男性といえば、小学校で算数を教えてくれた大学卒業したてのシャイな新米先生、それからちょっと、というか、ものすごく飛んで、大学時代に憧れていた雄々しきラグビー部のキャプテン、それにアメリカのティーン・エイジャー向けドラマに登場する鼻筋が通った美形の俳優、それぐらいなものだ。


 さくらの笑い声に気分を害したのかジョーが不機嫌さをにじませた声で尋ねた。


「お前、よく考えてみろよ」


 よく考えろと言われたって、ない袖は振れない。


 ふと思いついてさくらが訊く。


「もしかしてそれって心理学で習ったエディプス・コンプレックスとかの話? 父親の面影に似た人を追い求めるとかいう。それだったら全然、的ハズレ。私、正直言ってお父さんみたいな、男は黙って、みたいな昔気質なタイプは苦手。まったく趣味じゃない」


 ジョーは諦めに似た苦笑を口許にたたえると、言った。


「父親の面影とは言っていないよ。でもさ、真面目な話、結婚に何を望んでいるのか、じっくり考えてみろよ。年末までに婚約、なんてカタチを追いかけたって仕方がないだろう?」


 カタチを追いかける、とは失礼な言い草だ。カタチから入る、っていうのが何事でも大切ではないか。先ずは婚約に漕ぎ着けたい、という乙女の切なる(切羽詰った!)望みをこの男はわかっていないのだろうか。


「ジョーは私の婚活が無意味だって言いたいんでしょう? どうせ私なんて売れ残るって内心思っているんだ」


 最近婚活疲れ(?)のためかひがみっぽくなっていることに気づいてはいるが、ジョーの前だとつい愚痴をこぼしたくなる。


「あのさ、さくら」


 ジョーが珍しく優しい声を出したので、さくらは彼の顔を仰ぎ見た。


「売れ残る、なんて言っていないよ」


「そりゃ、そうでしょ」


 言われたくないわ、とさくらは「フン!」と小鼻を上に向けた。


「努力が無駄だとも言っていない。少なくともさくらは婚活のおかげで、あれでもない、これでもない、ってわかったじゃないか。でも、どういう相手を求めているのか、自分でもわからないんだろう? だったら或る日突然誰かが眼の前に現われてプロポーズするかも、ってのは飛躍だよ。誰のプロポーズだったらいいのか、当人がわからないんじゃな」


 そんなこと百も承知だ、とさくらは深い溜息をついた。


「時間をかければいいじゃないか。じっくりあたりを見廻してさ」


「ちょっと」とさくらは酔った勢いで口を尖らせる。


「ジョーが脅かしたんじゃないの。急いだ方がいい、とか」


 さくらの台詞にジョーが苦笑した。


「俺のせいにするなよ。結婚したいって盛り上がっていたのはさくらなんだから。だったら、って後押ししてやろうと思ったんだ。この際、そろそろ考えてもいいんじゃないかと思ってね」


 カウンターの向こうからこちらを見つめているジョーの眼差しに、こちらを包み込むような大人びた優しさが見えるような気がする。彼の瞳って黒だと思っていたのにひょっとして茶褐色だったのだろうか。ふと、彼が見知らぬ男のように感じられて胸が騒いだ。


 いや、あの眼差しも生意気そうな唇も少年の頃と変わりなく、彼は間違いなく昔のままだ。見馴れた面影がちょっと大人びただけだ。

奇妙な居心地の良さと睡魔に襲われて、さくらはカウンターの上にうつ伏せた。



 居間のテーブルの上にそれらしき紙封筒が置かれている。


「さくら、写真だけでも見てご覧なさい。とても素敵な方よ」


 コーヒーテーブルを挟んで、さくらは珍しくも父母と向き合って座っていた。


 というのは、荻窪の伯母、父の姉の綾子伯母さんがお見合い話を持ち込んで来たのだ。堅苦しく考えずに取り合えず逢ってみたら、と伯母は言って来たそうで、母はご丁寧にも伯母の家へ出向いて写真を預かって来たそうだ。


「別に無理して逢う必要はないぞ」と父。


「お父さん、何をおっしゃっているんです。さくらももう三十になるんですよ。お義姉さんがせっかく紹介して下さったんですから、是非お逢いしてみるべきよ」


 中西という人は伯母の女子大時代のクラスメイトの息子さんだとのことで、一流大学を出て銀行に勤める三十三歳のスポーツマン、と履歴はピカピカだそうだ。さくらは好奇心も手伝って封筒に手を伸ばした。


 それだけの釣書の男性が残っているからにはどこかに難点があるに違いなく、よほど体裁がいただけないのだろうか。


 封筒から釣書と共に取り出したスナップ写真には、しかしハンサムと呼べる青年が映っていた。家で寛いでいるらしい写真の彼は最近テレビドラマによく出てくる俳優にちょっと似ている。庭で映したらしい全身写真によると背もそれなりに高そうだし、ビーグル犬だろうか、可愛い犬までついている。


 何か欠陥があるはずだ、とさくらは二枚の写真を端から端までじっと点検してみたが、ハゲているとか小指が欠けているということでもなさそうだ。


「素敵な方でしょう? 綾子義姉さんによるととてもできたお坊ちゃまなんですって。一人息子さんらしいわ」


 なるほど、とさくらは思う。写真では好感が持てる男性だけれど、もしかしたらわがままな一人息子、或いはマザコンかもしれない。そうでなければ辻褄が合わない、と疑ってから、いささか反省した。


 もう十一月も後二週間を残すのみの今日、こんなウマい話が転がり込んできたのは、幸運と呼べるのではないだろうか。これこそひょっとして、良縁、というやつかもしれない。


「私、お逢いしてみるわ」


 さくらは微笑を浮かべて両親に宣言し、母は安堵の喜びを隠せず、父は怪訝な顔をした。


「さくら、お前、本当にいいのか?」


「お父さん、綾子伯母さんのオススメということだったら、私、一応お逢いしてみる。別に逢ったから結婚しなきゃ、ってことでもないでしょう?」


「しかしな、先方は結婚相手を探しているんだぞ。お前にまだその覚悟がないんだったら断っておいた方が無難だとは思うが」


 娘の婚活に気づいていないらしい父の懸念はもっともである。


「私、・・素敵な人がいたらそろそろ結婚を考えてもいいかな、と思っているの」


 さくらの言葉に母は手放しで喜び、父は口を真一文字に結んで淋しさを匂わせる複雑な笑みを浮かべた。さくらは父が垣間見せた表情がジョーの反応に良く似ていることにふと気づく。


 しかし、今はそんなことを深く考えている暇はなく、再びスナップ写真を見つめながら、自分のどの写真を相手方に渡そうか熟慮した。写真を見ただけで向こうから断られた、なんて恥さらしな目にだけは遭いたくない。



 父方の綾子伯母さんのところには子供がおらず、折に触れてさくらも食事を奢ってもらったり家へ遊びに行ったりしている。


 近頃の若い人は形式張るのも嫌いでしょうから、と日比谷にあるホテルのロビーでお茶を飲みながらお見合いということになった。伯母さんから、紹介だけしたら私は失礼するから後は二人で適当にやってちょうだい、と電話で言い渡されている。


 指定されたホテルの豪壮な玄関に向かいながら、さくらは自分の鼓動が高まりつつあることに気づいた。どうも不思議だ。


 これまでの婚活の失敗を冷静に踏まえて頭ではそれほど期待していないはずなのに、どうやら胸だけ勝手にときめいている。ひょっとしてこれは嬉しい虫の知らせだろうか、と自問したくなる。


 カウントダウンできるぐらい年末も近づいた今日、もしかして自分は未来の夫に逢いに行く運命なのだろうか。


 しかし、期待感と内腹に、心の片隅に説明しがたい躊躇のようなシコリがあった。素晴らしい出逢いを手放しで期待していない複雑な自分がひそんでいるように思えてならない。失望させられたくない、という警戒心だけだろうか。


 玄関を入って豪華なシャンデリアの下をロビーへと向かうと奥のテーブルに綾子伯母さんが座っているのが見えたが、相手の男性はまだのようだった。


「さくらちゃん、中西さん、ちょっと遅れるって今車の中からお電話いただいたの。なんでも事故があったらしくて道が渋滞しているんですって」


 どうやらお茶の後はドライブでも、という算段になっているらしい。


 二人で紅茶を注文して彼を待つことになった。


「で、伯母さんはこの中西さんっていう方、昔からご存知なのね」


「そうなの。学生時代の仲良しの息子さんだから、赤ちゃんの時から知っているわ。なかなかのイケメンでしょう? 子供の時から、とってもハンサムな男の子だったのよ」


 嬉しそうに解説する伯母さんに、どこか難アリでは、と問い質すわけにもいかない。


「一人息子、っていうことになると、きっと伯母さんのお友達も色々と期待しているんでしょうね。ほら、どういうお嫁さんに来て欲しい、とか」


 さくらの言葉に、伯母さんはちょっと肩をすくめた。


「そりゃ親御さんとしてはあるでしょうけれど、奈津子はお姑さんに苦労したから自分はうるさい姑になりたくないって言っているの。息子さんはちょうど仙台への転勤から戻って来てお仕事も忙しいらしくて、会社の独身寮に入っていらっしゃるそうだけれど、そろそろお嫁さんを見つけて落ち着いて仕事に励んで欲しいんですって。誰かいいお嬢さんを、って言われたからさくらちゃんのことを思いついたのよ」


「じゃ、本人がって言うより、親が息子を結婚させたいわけね」


「当人だってそろそろ結婚したいと思っているそうよ。ほら、今婚活とか、流行っているそうじゃない」


 伯母に指摘されてさくらは苦笑した。


 洒落たポットで運ばれて来た紅茶をお揃いの柄のカップに銀の茶漉しをのせて静かに注ぐと琥珀色のお茶からアールグレイの香りが匂い立ち、華奢な持ち手にお嬢様然と軽く手を添えカップを持ち上げた時、淡い湯気の向こうにこちらへ歩いて来る男性の姿が見えた。


 ジャケットを着て薄いブルーのシャツの胸元にアスコットタイを覗かせた男はいかにもこの高級ホテルのロビーにしっくりと似合っており、さくらは「見栄みばえ良し」と胸の中で唱えて思わず微笑んだ。


「中西さん、お先に始めさせていただきました」


 綾子伯母さんが一応紹介役を務めたが、さくらは伯母の言葉をちゃんと聴いていなかった。緊張し過ぎていたというより、中西という男の身のこなしに半ば見惚れていたのだ。


 彼はこちらのテーブルに近づくと軽く会釈してから微笑を浮かべてさくらを見つめた。それは居心地が悪くなるほど長過ぎたわけではなく、そうかと言って無関心に感じられるほど素っ気なくもなく、お逢いできて嬉しいですという無言のメッセージにぴったりの長さだった。


 ウェイターが持って来たメニューを見ながら、顔を上げて伯母の顔を眺めて何か答え、こちらを見ていかにも親密そうに目許で微笑する。


 初対面だというのに昔からの知り合いであったかのように思え、さくらはすっかりリラックスしてきた。一応お見合いではあるので、綾子伯母さんが中西の趣味を尋ねたりしている。彼の釣書には趣味は山登りと読書と書いてあったはずだ。


「大学時代に山岳部に所属していたので、日本中の山々を踏破しました。最近は山に登る時間がないのでもっぱら山歩きというところですけれど」


 ティーカップを持つ彼の日に灼けた逞しい手を見るともなしに見ながらさくらはふと男を感じた。これはピンと来たということだろうか、と自分の胸に尋ねる。イケメンだからといえ誰にでも異性を感じるとは限らず、このリアクションは貴重だ。


「山にはお友達と一緒に登るんですか?」


 尋ねながら、ザイルを頼りに一列になって雪山を登山する果敢な男達の集団の姿を頭で思い描く。思わず足を滑らして谷底に墜ちかけた友を手足を踏ん張って救う逞しい男達。


「えー、山っていうのは十二分に準備して登っても天候が急変する危険は常にある。女心と山の空、って言うでしょう? だから必ずパーティーを組んで登ります。さくらさんは山はお好きですか?」


 昔父に連れられて登った(ハイキングした)高尾山ぐらいしか思い浮かばず、さくらは苦笑した。


「山は眺めるのは好きですけれど、登るのはまったく苦手なんです」


「じゃあ、今度ドライブして山が綺麗に見えるところにお連れしましょう。高みから見下ろす雲海と蒼い山並み、神々しいぐらいに素晴らしい光景です」


 中西の、今度、との台詞にさくらは思わず口許を緩める。お茶は始まったばかりだけれど、敵は(彼は)早くも暗黙に次回の誘いをしているらしいではないか。


「さくらはお料理が得意なんです。最近お料理教室にも通ったんだったわね」


 綾子伯母さんが自信がなさそうな声でさくらの「趣味」を紹介した。一回しか参加しなかったので料理教室に通ったというのは多少ハッタリであるが、完全な嘘でもない。


「得意というほどでもないんですけれど・・」


 さくらは中西の表情を盗み見た。もしかすかにでも失望の色が読み取れるならば方針を転換しようと考えたのだが、彼が相変わらず柔和な微笑を浮かべているのでバレる前に真実を白状することにする。


「家族のために美味しいお料理が作れる奥さんになりたいと思いますので、お料理教室で基本だけ習ってみたんです。玉ネギを切りながら涙しちゃいました」


 さくらの台詞に伯母さんは不安な表情を垣間見せたが、これはウケたようで中西は爽やかな笑顔を見せて笑った。


「じゃ、今度ご馳走になるかな。どういう料理がお得意なんですか?」


 まさかオムライスと言うのも芸がないように思えてさくらは思案し、ふと、昔お湯だけ注ぐ特選お味噌汁に感激していたジョーの顔を思い出した。


 お袋の味噌汁より美味しいとか彼は言ったはずで、味噌汁こそ代表的な家庭の味に違いないし簡単に習得できそうだ。


「料理と呼ぶのもおこがましいんですけれど、具がたくさん入ったお味噌汁とか」


 さくらがそう言うと、中西は真面目な顔でうなずいた。


「それはいいな。僕も山登りを終えて山頂で飲む味噌汁とか、大好きなんです。キノコとか豚肉とかを担いで登って簡単に作るんですけれど、あの味噌汁とご飯があれば十分だな」


 今度はさくらが感激する番だった。この豪華ホテルにしっくり似合っているアスコットタイのダンディーなイケメンが、実は高級フランス料理ではなくてご飯と味噌汁党の男であったという発見に胸が躍る。地に足が着いた男。それも逞しい山男だ。


 味噌汁談義で盛り上がった後、どうやら見合いが成功したらしいことに安堵した伯母が腰を上げた。


「じゃ、さくらちゃん、伯母さんはここで失礼するから、後はお二人で。中西さん、宜しければもう少しごゆっくりしていって下さいね」


「ご自宅までさくらさんをお送りしますのでご心配なく」


 というわけで伯母さんが帰った後もしばらくお喋りをして、彼と夕食も一緒に食べることになった。第一次予選通過、というところだ。


 やっぱり和食かな、と中西が提案し、やっぱり和食ですよね、とさくらが応じ、彼がよく行くという神楽坂の小料理屋に車で向かった。


 ペンシルビルの谷間に埋もれているような店はそこだけ新しい造りの小奇麗な料理屋で、店のガラス戸を開けるとカウンター席にテーブルが五つほど、ジョーのおでん屋ぐらいの大きさの店だ。


 カウンターの向こうで挨拶したのは和服を着たさくらと同年輩の美人。店の奥、キッチンらしきところから出て来て挨拶をしたのも和服の美人で、中西によると二人は姉妹でこの小料理屋を経営しているそうで、お姉さんが板前だとのこと。


「この店に女性を連れて来たことなどないので、愕かれているんです」


 テーブルの向こうで微笑を浮かべながらこちらに耳打ちした中西は非の打ちどころがないほど好ましく見える。この男にどこか欠点のようなものがあるものだろうか。


 カウンター席に座っている男性客の話に愛想良く耳を傾けている美人の仲居さんを見ながら、ひょっとして女癖が悪いとか、とさくらは胸の内で詮索せんさくした。


「中西さんは常連でいらっしゃるんですか?」


「常連というほどでもないな。前にこの店を同僚に教わって、それ以来姉妹のサポーターも兼ねて時おり食べに来るんです。女性客も多い店だから、さくらさんも使ってあげて下さい」


 店を使ってくれというぐらいだからあの美人姉妹とは何でもないのだろう、とさくらはほっと安堵して微笑んだ。これは自分がジョーの店に顔を出すようなものに違いない。


 大吟醸を飲みながら眼にも鮮やかな美味しい料理を食べて話が弾んだ。今日逢ったとは思えないほど寛いでさくらはつい本音を出したが、そんなこちらを中西は優しく見守ってくれそうな気がする。彼のハンサムな顔を眺めているだけで幸せな気分だ。


 夢見心地のさくらは、その晩中西に家まで車で送ってもらったのだった。


(最終章に続く)



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