第5章 男もすなる稽古事!

 九月ともなると爽やかな秋風が吹くちょっと肌寒いような晩もあり、さくらはついジョーのおでん屋に足を向ける。暖かいものが食べたくなった、というのが言い訳だが、実のところは彼に相談に乗ってもらいたいのだ。


 婚活の大事な参謀なのだから、とさくらはおでん屋のガラス戸を開ける。


「おー」とカウンターの向こうからジョーの元気な声が聴こえ、さくらは自分の家に帰ったような安らぎを憶えるのだ。


「どうしたんだ、シケた顔をしているじゃないか」


 ジョーのからかいにさくらは顔の筋肉をギュッと引き締める。


「別にシケてなんていないわ。でも、もう合コンはやめにする」


 親切にアドヴァイスをしてくれたジョーに一応義理を立ててさくらが理系合コンの経緯を説明すると、ジョーは愉快そうに笑った。


「合コンをやめておく、ってのは正解だな。さくらは人に男を紹介するばかりだから、これ以上貧乏クジを引くのはこの際やめておいた方が無難だ」


 目の前に差し出された熱々の白菜巻きに箸を立てながら、さくらは弁明する。


「別に紹介しようと思って紹介しているわけじゃないわよ。たまたまそういう結果になった、というだけのこと」


 それにしても、とさくらは溜息をつかざるを得ない。


 芦田を俊子に取られたことに始まって、紀香を意図せずしてアスリートの高村に引き合わせ、これなら大丈夫(失礼!)と誘った亜由美に前回の合コンで唯一射程に入れたかった侍顔の徳川を取られたのだ。


「だいたい、なんで徳川さんがあのヒラヒラの亜由美が気に行ったのか、不可解だわ」


「それを言うなら、不愉快、だろう?」


 ジョーはすこぶるご機嫌だ。


「不可解、って言ったのよ」


 どう見たって私の方が美人でセンスがいいし機転も利くのに、とさくらは胸の内で愚痴を吐く。


「さくら、わからないのか?」


 ジョーが謎掛けのような口を利いた。


 わかったようなことを言って、と憤慨してもよいのだが、ジョーも理系の中の理系男であるし、理系の男は解説するのが好きだ、との彼のアドヴァイスを思い起して、さくらは素直に尋ねる。


「どうして?」


「猫の目の前に猫じゃらしをぶらさげて見ろよ、猫じゃらしが揺れる度に飛びつくさ。それと同じで男はひらひらしているものが好きなんだ。風に揺れて髪がひらひら、リボンがひらひら、同じことだ。飛びついて抑え込みたくなる。ま、一種の動物的本能だな」


 さくらはグラスのビールを手にしたまま口をあんぐり開けた。まさか有名大学の理科系を卒業した優秀な(!)男達が猫と同じとは考え難いが、ひょっとしてそういうこともあるのだろうか。


 ふと、小学生の時にジョーがどこからか子猫を拾って来たことを思い出す。蒼い眼をして痩せ細った黒い子猫で、彼は慶子おばさんには内緒で家の裏に積まれた段ボール箱の中に子猫を入れて飼っており、一緒にミルクを与えたりしたものだ。


 或る日ジョーが学校から帰ると与太郎と名付けられたその子猫はいなくなっており、彼を手伝って外が暗くなるまで懸命に近所を捜索したが、ついに与太郎は見つからなかった。ジョーが涙ぐんだのを見たのはあの日が最後だったかもしれない。


 下手な回想をしてしまったのでさくらはちょっと優しい気持ちになった。


「ジョーの言う通りかもね。もう損な役回りばっかりの合コンはやめておく」


「だろう? だいたい婚活なんてくだらないぜ。何の役にも立たないじゃないか」


 せっかく優しい気持ちになっていたところだったのに、ジョーはすぐ図に乗ってこちらの神経を逆撫でするようなことを言う。


 さくらはカチンときて彼に言い返さずにはいられない。


「役に立たない、って言い方はないじゃない。こっちは必死で結婚相手を探そうとしているのに、他人の努力を度外視するそういう言い方はヒドイわ」


 ガールフレンドもいないくせに、との捨て台詞をさくらは呑み込む。ひょっとして、いる、とか言い返されたら、という懸念がちらりと脳裏をよぎったからだ。


 さくらの剣幕に愕いたのか、ジョーは眼を瞬かせた。


「努力もいいけどさ、それだったら習い事をするとか、あるじゃないか」


「例えば?」


「例えば、・・メシぐらい作れるようにする、とか。やっぱ男は料理の美味い女性ってのに惹かれるものだ。何はともあれ食事ってのは毎日のいとなみだからな。コンビニで弁当買って食わされるようなカミさんはご免だろう?」


 ムム、もしかして彼は嫌味いやみを言っているのだろうか。


 というのは大学時代に珍しく彼がうちに夕食を食べに来た折に、たまたま母は親戚の家に日帰りで出かけていて留守で、さくらは料理の手伝いなどしたことがなかったので無論自炊などは考えに及ばす、コンビニで弁当を買って来て彼に振る舞ったのだ。お湯で溶くだけの真空パックのデパート特選味噌汁も添えて大サービスしてあげたはずだ。


「それって、料理がからしき駄目な私は嫁のもらい手がない、っていうこと?」


「そうは言ってないよ。ま、最近は自分で料理する男も増えたし・・」


 さすがに彼も自分の失言(暴言!)に気づいたらしく、少しオロオロとしている。アドヴァンテージを取ったのでここでもう少し彼に反撃してやろう、と思った時に、素晴らしい考えがひらめいたのだった。


 怒っていたはずのさくらが急に沈黙したので、敵も不安になったらしい。


 珍しくもビール瓶からグラスにビールを注いでくれながら、ジョーが弁明した。


「さくら、誰も別に、お前が嫁に行けないなんて言っていないよ。いや、きっといい嫁さんになると思うけれど・・」


 さくらはジョーの言葉を上の空で聞くと、急に晴れやかな顔になった。


「私、決めたわ。料理教室に通う」


 さくらの突然の宣言に、言い出しっぺのジョーが口をあんぐりと開ける番だった。


「何だよ、急に・・」


「読んだのよ、新聞記事にあったのを思い出したの。男もすなる料理。すなわち料理を習う男性が増えていて、若い会社員で定員が満員になっているところもあるらしいの。ほら、共稼ぎが多いご時世だから、料理ぐらいできないとお嫁さんの来てがいないし、女の子にモテないわけ」


 さくらが眼を輝かせて弁舌をふるうと、今度はジョーが水を差した。


「でも、料理ができないと女が来てくれない、なんてきっとロクな男の集まりじゃないんじゃないか?」


 そう言われてみると確かにその可能性はある。しかし記事によると「週末は夫婦で料理」というのがお洒落な人々の間で流行っているそうで、写真に載っていた若い会社員達もそれなりに素敵な男達だったと記憶している。


 第一、言い出しっぺのジョーが今になって料理教室に反対するとはおかしな話だ、とさくらは固い決意を胸に小鼻をツンと上向かせた。



 さくらが入会したのは新宿の有名料理学校が平日の夜に主催している社会人向けの料理教室だ。同じく料理はまったくできない里子を一応誘ってみたのだが、いざとなったらデパ地下で全部買えるのだから料理なんて時間の無駄、と軽く断られてしまった。


 考えてみると、里子のような独身で特定の彼氏がいない女友達を誘うといざ素敵な男性仲間を発見した時にまた奪われてしまう怖れがなきにしも非ずなので、さくらは既に高村と付き合い出した紀香を誘って一緒に通うことにした。


 お嬢様な彼女も料理はまったく駄目で、男友達に手料理ぐらい振る舞えた方がいい、とのさくらの勧めに、それもそうだ、と素直に乗り気になってくれたのだ。


 七時の開講に合わせて、さくらは紀香とビルの入り口で待ち合わせた。


「料理なんて、高校の家庭科以来ね」


 二人でさざめきながら、八階にある料理教室へいそいそと向かう。


 ちまたには女性専用の料理教室が多い中、この料理教室は「男性も通える」ところがウリで積極的に男性生徒を募集しており、エプロンも支給してくれるので手ぶらで参加できる。今日は料理の基本を教えるクラスだ。


 はたして教室に入ると、広い部屋は会議室を連想させる落ち着いたインテリアでスクリーン等のハイテク機器とぴかぴかのステンレス調理台が並び、女性に混じって早くも数人の男性がエプロンを着用していた。


 中年の男性もいるが、若い男も四人ほど来ていることを発見してさくらは心の中でVサインを出した。


 係員の女性が生徒を二人ずつ調理台に割り当て、さくらは紀香と一緒になった。お見合いではないので、どうやら女性と男性を組ませるという発想はないようだ。


 講師が登場した。料理教室の先生は女性だろうと想像していたが、一見シェフ風の若い男性、それもイケメンだ。女性生徒の間に軽いどよめきが起こり、さくらの胸の鼓動が期待に高まる。


「講師の勅使河原てしがわらです。今日は料理の基本ということで、野菜の切り方、肉の切り方、卵の焼き方、そして調味料の使い方を勉強し、一緒にオムライスを作りたいと思います。よろしくお願いします」


 彼がお辞儀すると、誰かが拍手した。


「先ずは西洋料理の基本、玉ネギのみじん切りです。玉ネギの種類には・・」


 玉ネギは玉ネギだと思っていたら、様々な種類があるらしい。さくらがふと視線を泳がすと、講師が説明する玉ネギの特徴を気真面目にメモしているのは圧倒的に男子生徒だ。


「さて玉ネギの切り方ですが・・」


 講師の手さばきが前方の大スクリーン、そして各調理台に設えられた小型のスクリーンに映されるので、生徒は薄皮の剥き方、包丁の使い方を詳しくフォローすることができる。


「さあ、やってみましょう」との講師の声に、生徒達は各調理台にあらかじめ用意されている玉ネギの皮を剥き各自の俎板の上で一斉いっせいに刻み始めた。


 えーと、玉ネギを先ず半分に切って、中心を軸に縦に切り込みを入れて、90度回転させてから細かく刻んで、とさくらも滑りやすい玉ネギと必死に格闘する。


「これって涙出ちゃうよね」隣で紀香が泣き笑いしている。


 講師の俎板からは規則正しく早いトントントンと言う音が聴こえていたはずだが、周囲に響くのはト・トトンといった不規則でのろまな響き。


 イケメン講師が横に立って手元を見ているらしい気配にさくらは緊張する。


「左手でこういう風に玉ネギを押さえて下さい」


 講師の手が伸びてきてさくらが格闘していた玉ネギをいかにも簡単に押さえつけた。



「それと、包丁の角度はこんな具合に」

 講師の長い指が手の延長かのように自然に包丁を握り素早く玉ネギを切断する技にさくらはしばし見惚れた。料理なんて、と思っていたのに、なんと芸術的でつやっぽい手の動き。


「はい、やってみます」とさくらは講師を真似る。


「そうです、良くなりましたね」


 しばらく涙しながら玉ネギを切り続けた後、そう言えば講師の手元だけ一心に見つめて彼の顔を拝むのを忘れていたことに気づいたのだった。


「さあ、次は鶏の腿肉の切り方です。鶏の部位というのは・・」


 スクリーンに鶏の解剖図のような写真が提示され、昔から鳥全般が苦手なさくらは顔を背けたくなる。紀香にそう囁くと彼女は「鶏のむしり方から始めなくてすんで良かったじゃない」とコメントした。確かにその通りだ。


 周囲を見ると、またもや男性生徒は生真面目に一生懸命にメモを取っている。


 さくらも支給されたメモと鉛筆で、可愛い(!)鶏のイラストを描いてみたが、何をメモるべきか忘れてしまっていた。


 講師が鶏の切り方を実演した後、再び実習の時間。


 フライパンにバターを入れて、玉ネギを炒めて、それから鶏肉を加えて、軽く塩で下味をつけて、ケチャップを入れて、とさくらは手順を思い出すのに必死だ。講師はいとも簡単にフライパンをあやつっていたのだが、手際が悪いのかフライ返しが思うように動いてくれない。


 具を一度皿に取り出してから、次にフライパンにバターを入れてご飯を炒め、ご飯にバターが絡まったら具を戻して混ぜ合わせて、と。


 オムライスに必須の薄焼き卵の焼き方が、これまた難しかった。たかが卵焼き、されど卵焼きだ。


 実習を終え、各自自分が作ったオムライスを皿に載せて横にある長いテーブルに座り、いよいよ試食の時間となる。紀香のオムライスは一応オムレツ色で、さくらは焦げた自分の卵焼きが気まり悪い。


 すると、テーブルの向かい側に皿を置いた生徒のオムライスも同じく焦げているのを発見し、さくらは安堵の微笑を浮かべてその生徒の顔を見た。


 すごいイケメン!


 さらりとした髪といい、柔和な目鼻立ちといい、完全にタイプだ。


 さくらの心臓がどきりと音を立て、もしかして料理する男は皆イケメンなのだろうか、と金鉱を掘り当てた炭鉱夫のごとく興奮した。


 おっと、茫然自失している余裕はない。


「卵焼き、って難しいですね」とさくらはちょっと頭を傾げてその生徒に微笑する。美人の俊子がよくやる男性キラー(?)の表情を借りたわけだ。


「これ、難しいですよね。味に変わりナシだといいけれど」


 そのイケメン生徒は目尻を下げるような爽やかな微笑で折り返し、さくらの心臓が更に高鳴った。


 あー、苦節三年、じゃなかった、三カ月で素晴らしい伴侶候補に出逢えたのだ。思わず神に感謝したくなり、早くもウェディング・べルの音が軽やかに耳許で響きはじめる。


 えー、お二人の出逢いはなんと料理教室だそうです。当時は習い立てのオムライスを焦がす花嫁のさくらさんでしたが、花婿は初々しいエプロン姿のさくらさんに一目惚れなさったそうで・・と妄想していると、「さあ、試食してみましょう」との講師の声にさくらは我に返った。


「う、ショッパイ」


 鶏肉がまだ生のうちに塩で下味をつけ、ライスに具を混ぜ合わせて更に塩コショウするのだが、分量を間違えたのだろうか。


 さくらが嘆くと、「ちょっと参考のために味見させて」と向かいの彼は気さくに自分のフォークをこちらのオムライスにつき立てた。なんと親密さを匂わせる仕草ではないか。好感度◎(二重丸)。


 さくらは隣に座っている紀香の存在を忘れて彼とお喋りに夢中になった。


「お料理って奥が深そうですね」


 基本コース一日目をやっとのことで終えたに過ぎないが、さくらにはこの教室がイケメンの君と共に歩むことになる第一歩に違いないと思えてくる。料理をマスターして二人で友人を招いてホームパーティーを開き手料理を振る舞うのだ。


 料理が出来る旦那様、なんて探してもそういないだろうから、みんなに羨ましがられるに違いない。未来のそんなシーンを思い描くだけで胸の内に幸せな気分がフツフツと湧き上がる。


「お料理が上手な男性っていかにもデキる男という感じで素敵」


 さくらは向かい側に座った彼に憧憬の眼差しを向けた。今は料理初心者に過ぎないが、この彼こそが料理上手な夫になる人なのだ。


「美味しい物を作って喜ばせたいですよね」


 イケメンの君は好感度120パーセントの照れ臭そうな微笑を浮かべた。



「で、どうして三日坊主になったんだ? いや、三日どころか一日坊主じゃないか」


 おでん屋のカウンターでチュウ杯を飲みしょんぼりしているさくらに、ジョーが問い質した。


「もうお料理の基本はマスターしたから、これで十分だわ」


「マスターした、って、玉ネギの切り方を教わっただけなんだろう? 玉ネギだって百個ぐらい切らないことには包丁さばきも身につかないぞ」


 普段だったら、エラそうなこと言って、と反発してやるところだけれど、今夜はその元気も出ない。


「ん? どっか具合でも悪いのか?」


 こちらが反撃しないのでジョーも不思議に思ったらしい。


「ここ」とさくらはうつむいたまま指で自分の胸を指し示す。


 カウンターの中のジョーの表情は見えないが、しばらくしてから彼が尋ねた。


「それって、お前、失恋でもしたのか? まさかだよな。だって料理教室へ行ったのは昨日だろう?」


 さくらは、ジョーのような鈍感な男にはどうせわかりっこないだろう、と思いつつも、一応説明を試みる。


「逢っちゃったのよ、将来夫に成るべき人に」


「ナニ?」


「そうしたら、その人には既に奥さんがいたの。奥さんに美味しい手料理を食べさせたいから習いに来た、っていうの。それも、さんざん話した後で、よ。彼と一緒に家庭を築いてホームパーティーを開いて、って夢を描いていたのに、ヒドイわ」


 喋りながら、さくらは思わず涙ぐむ。


「お前、まさか、その男にだまされて・・」


 ジョーが緊迫した声を出したので、半ば酔っていたさくらもさすがに愕いて顔を上げた。


 眉根を寄せて悲壮な顔をしたジョー。彼のこんな真剣な表情は見たことがない。

どうやら意図せずして何やら誤解を招いたらしく、さくらは慌てて弁解する。


「ちょっと、変な想像しないでよ。料理教室で出逢ったイケメンには奥さんがいた、それだけのこと」


「それだけのこと、って、本当は何かあったんじゃないのか?」


「何もないって。心配してくれなくてもいいわよ」


 さくらが苦笑すると、ジョーはやっと安堵の表情を浮かべた。


 これぐらいのことで心配してくれるのだから、もし万が一他の男に乱暴されたり騙されたりしたら、ジョーはその男のことを殴り倒してくれるだろうか、とふと考える。


 小学生の頃、家の近くで大きな野良犬につきまとわれていたら、ジョーが野球のバットで追い払ってくれたことがある。


 でも彼が取っ組み合いの喧嘩をしているところなど見たことがないし、ヒマがあるといつも本を読んでいるかボケっと瞑想に耽っていたから、彼にどれだけ喧嘩能力があるかは定かでない。


 ただ何かが起こったら、きっとこちらを守るべく身体を張ってくれるに違いない、との安心は、ある。


「余計な心配、させないでくれよ。よその男に奥さんがいたぐらいのことで嘆くこと、ないじゃないか」


 どうやらこちらの心境をまったく理解できていないらしいジョーに、さくらは溜息を洩らす。


「あるわよ。せっかく出逢った料理が出来るイケメンが妻帯者だったのよ。もう絶望のどん底だわ」


「料理ができるイケメンなんて、他にもいるぜ」


「いないわよ。私の婚活はすべて失敗。男はすべてテイクン(取られている)」


 酔った勢いでさくらがボヤくと、ジョーはふっと軽く笑った。それからカウンターの中で何やらごそごとやっていて、さくらの眼の前にドンと皿と箸が置かれた。


「これ、何?」


「新発売、鶏つくね、ネギと生姜と蓮根入り」


 失恋(失望?)で食欲が出る場面ではないはずなのだが、湯気の上がっている団子が美味しそうなのでさくらは箸で一つつまんで食べてみる。おでんの出汁が滲みて生姜の味が利いたつくね団子は蓮根のサクサクした食感と相まってすごく美味だ。


「うん、とっても美味しい」


 つくね団子三つをペロっとすべて食べ終えると、不思議と力が湧いて来た。失恋が、というより、昨日のショッパイ手作りオムライスがお腹にもたれて今日はランチを抜いたのがエネルギー低下の原因だったらしい。


「ま、そんなことでメゲているようじゃ、婚活なんて無理だろうな。もうやめておいたら?」


 ジョーの声に、さくらは彼を挑戦的な表情でにらんだ。


 そういう言い方をされると、ここで引くわけにはいかない。大学受験の時と同じだけれど、ムリ、なんて弟分の彼に言われると、ナニクソ(失礼!)、という闘志が条件反射的に湧いて来てしまうのだ。これはもう昔からの習性のようなもの。


「無理ってこと、ないわよ。わかったわ、こうなったら徹底的に地の果てまで婿探しに行っちゃう」


 さくらの宣言に、ジョーは諦めたように肩を竦めた。



 料理学校は三日坊主、ではなく、一日坊主でギブアップしたさくらがオフィスで帰り仕度をしていると、里子から食事の誘いの電話がかかった。


 今夜もいつもと同じくヒマなので、喜んで応じることにする。


 最近は節電のためになるべく早く帰ることが奨励されている。というより、六時になるとフロアの蛍光灯を消灯されてしまうので、強制されている、と言うべきかもしれない。お陰で、どう観察しても仕事の手際が良いとは思えない課長のダラダラ残業に付き合わされないですむのは嬉しいことだ。


 アフターファイブ(実際は皆で一時間ほど形だけダラダラ残業の名残りをして会社への忠誠を装うのでアフターシックス)をどう過ごすか、二十代を終えようとする恋人ナシ独身者はカレンダーを埋めるのが難しくなってくる。


 入社した頃はそれこそ合コンだ同期会だと学生時代の延長で遊びに忙しくしていたものが、恋人ができたり結婚したり、「責任ある仕事」を負わされたり、と脱落者が出始めるからだ。


 そこで、女子会で飲んでウサを晴らすという定番コース以外には、女磨きとお勉強ということになるわけだが、「気分がアガる」ショッピングを除けば、アスレチック・クラブも料理教室も脱落(?)したさくらはやや(相当)時間を持て余している。


 残り少なくなった独身仲間の里子は幸いにも仕事の要領が良いデキるタイプで、浅はかな男を真似て浅はかな女がやる「残業していかにも大事な仕事をしているかに振る舞う」パフォーマンスをしないので、遊び相手としては最高だ。


 今宵は里子が見つけた新大久保にある韓国料理屋へ行くことになった。


 新大久保は初めて訪れたのだが、なにしろ駅を出て少し歩くとコリアンタウン。ハングル文字や焼き肉屋の看板が目につき、前に里子と一緒にショッピングとアカ擦りのツアーで訪ねたソウルの街角に良く似ている。


 指定の焼き肉屋に到着すると、先に来ていた里子が無煙ロースターを設えたテーブルから手を振って寄越した。


「これって、まるで日本の中の韓国みたい」


 店内を見渡してさくらが感想を述べると、里子がメニューを眺めながら訂正した。


「日本語が通じるから、こっちの方がベターよ」


 生ビールを頼み、二人の好物、パジュンと呼ばれる海鮮ネギ焼き(チヂミ)をアペタイザーに注文し、牛肉カルビと牛タンの塩焼きを食べて、石焼きビビンバで〆る(しめる)ことにする。


 ネギ焼きはいわば韓国風お好み焼きといった感じで、たっぷりのネギに海老、イカ、アサリ、牡蠣などを加えて小麦粉と卵をくぐらせて丸く焼いたものだ。


「ビールと熱々のパジュンがあれば、他にはもう何も要らないぐらい幸せ」


 さくらがパジュンを頬張りながらそう言うと、里子が生ビールのジョッキを傾けながら同意した。


「でもさ、うら若き私達がこうしてオジサンやっているのはどうかと思うの。でね、一緒に中国語を習わない?」


 さくらはネギを喉に詰まらせながら、韓国焼き肉の店でなぜ中国語の話が出るのかと訝った。


「なぜ中国語を習うのか、って? それは今や中国が日本の最大の貿易相手国で、中国語が出来るといずれ仕事や転職の上でも有利に違いないからだわ」


 国際語である英語の方がつぶしが利く(利用価値が高い)と思われるのだが、里子によると、こと婚活の見地からすると、英語を習いに来るのはアメリカに語学留学でもして何らかの転機を図りたいと考える(夢見る)独身女性が多く、仕事の必要で、との男性を上回るに違いないとのこと。


「その点、中国語を習う人なんて会社の命令で来ているに決まっているじゃない」


「それはそうかもしれないけれど」


 突然の勧誘にさくらが逡巡しゅんじゅんしていると、里子が畳みかけた。


「それにほら、中国では四千万人もバチェラーが余るっていうんだから、いざ金持ちでイケメンの中国人に出逢った時に挨拶ぐらいできた方がいいしね」


 里子によると最近は経済の飛躍的発展で世界の大富豪に名を連ねている中国人の企業家が多いとのこと。しかし中国人のイケメンと言われても中国の映画を観ていないのでピンと来ないさくらだ。


「イケメン探しだったら、韓国語でもいいんじゃない」


 韓国ドラマに出演している韓国人男優の端正な顔を思い浮かべてさくらが意見すると、「ノー」と里子が即答した。


 要するに今日本で韓国語を習っているのは韓国人の俳優に熱を上げている女の子からオバサンで、巷の韓国語クラスは99パーセント女性生徒だそうだ。


「先ずは教室に通って日本人の独身男をゲットする計画なわけだから、女の子同士で勉強するんじゃ、意味がないじゃない」


 なるほど。「地の果てまで(!)婿探しに行く」決意を固めてジョーにそう宣言した手前、さくらはこうなったらニーハオぐらい勉強しておきいざという事態(中国大陸へ!)に備えるに越したことはない、と中国語なるものを習うことにしたのだった。



 中国語学院は四谷にある。学院ビルはモダンな総ガラス張りで、節電ブームは何処へやら、電灯が煌々と輝き夜空にそびえ立っていた。最近お金持ちになった中国の権威の象徴のようだ。


 立派な水墨画が飾られたロビーで里子と待ち合わせ、さくらは初級レベルのクラスに向かった。学生のようなジーンズ姿の若者も多いが、確かに会社帰りと思われる背広を着たビジネスマンがうようよいるではないか。


「これ、大当たりじゃない?」


 嬉しくなってさくらが里子に耳打ちすると、彼女はにんまりとした。


 クラスが行われるのは正面に大きな黒板がある大学の講義室のような部屋で、考えてみると大学卒業以来、勉強らしい勉強をしたことがなかった。


 さくらは学生時代のように里子と共に後ろの方の席に陣取り、クラスに続々と入って来る出席者を見定める。


 あっ、あの人、ハンサム。おっ、こっちも素敵。


「やっぱり最近は何処もデキる社員を中国マーケットに送り込んでいるんじゃないかしら。これ、けっこうレベル高いよね」


 婚活なんて、という素振りをする里子でさえ、いやに熱心に男達の品定めをしている。


 容姿はさておき、デキる男は一目見ただけでわかる、というのが里子の持論だ。自分の殻と能力に満足している余裕ある表情、借りモノでなく板についたスキのない身だしなみ、背筋が伸びセコセコしない敏捷な動作。爽やかで真摯な印象を与える笑顔。


「笑顔?」とさくらが小声で尋ねると、里子がやはり囁くようにして答えた。


「そう、笑顔がビジネスには肝要なの。始終ヘラヘラしているのはいただけないけれど、ここぞと言う時にこちらの自信と実直なイメージを相手に伝達するのは笑顔よ」


 さくらはなぜかふとジョーの顔を瞼に思い浮かべ、よく気難しい顔をする彼が時おり振り向ける笑顔を解析しようと試みる。うん、あいつは過剰と言えるほど自信屋だから、余裕の笑顔には違いない。


 するとそれまで話声でざわめいていた教室が静かになり、講師が現われたようだった。


「ずいぶん綺麗な人ね」と里子がこちらに囁く。


「女優さんみたい」


 三十半ばと思われる女優顔の先生は少しクセのある日本語で挨拶し、黒板に自分の名前を書いた。中国人のちん先生だ。


「今日から一緒に中国語の勉強をしましょう。日本人の皆さんは漢字が読めるので、つい日本式に字を発音したくなると思います。でも現代中国語の発音は日本語の読み方とはずいぶん違いますので、新しい言語を習うつもりで耳から勉強して下さい」


 陳先生は中国語の四声(高低アクセント)について解説し、先生の後に続いて皆で基本的な単語の発音練習をする。


 「日本人」はリューベンレンと発音するそうだが、この「リュー」という音は日本語にも英語にもないそり舌音で発音が難しい。北京は冬寒いので口を余り動かさずにリューと発音するのだ、と先生は説明をした。


 それにしても美型の先生だ。前に雑誌で、対外イメージに配慮する中国は外務省の役人も背の高さで採用する、と読んだことがあるので、中国政府が後押ししている在外の中国語学校も講師を顔で採用しているのだろうか、とあらぬ想像を逞しくする。


 そうでないとすると、ああいう美型がたくさんいる国で向こうのイケメンを狙うのは至難の業ではないだろうか。中国にはなにしろ十億人もいることを思い出して、さくらは溜息をついた。美女の絶対数が日本の総人口ぐらいだとしても、おかしくはないからだ。


 やはり日本人男性で行こう、とさくらはクラスを眺め廻す。


 すると、いた、いた。右斜め前にさくらと同じような歳恰好で背広を着た見め麗しい男性がいる。睫毛の長さなんて女の子のツケ睫毛以上だ。さくらはテキストに眼を注ぎ先生の後について発音を繰り返しながら、彼を盗み見る。


 彼は上海への転勤でも控えているのだろうか。そうだとしたら彼と結婚すれば華の上海の生活ができるわけだ、とさくらは想像する。


 中国へ行ったことなどないのだけれど、上海は香港と同じく商業中心地だと聞いているし、レトロな租界のホテルや上海マダム御用達の高級クラブを特集した記事を見たことがあり、写真が素敵だったので印象に残っているのだ。


 身体にフィットしたセクシーなチャイナドレスを作って、と夢想しながらさくらが再び斜め前の彼を見遣ると、なんとテキストを押さえている左手にはしっかり結婚指輪が嵌められているではないか。


 軽い溜息をついてさくらは視線を泳がす。


 あっ、通路を挟んだ右横に座っている男性も端正な横顔で素敵だ。


 しかし、とさくらは不安になる。もしかしたら、彼も妻帯者?


 そのことばかりが気になって勉強に身が入らないので、一計を案じて机の上に載せていたペンを手が滑ったと見せかけて床に落とした。まるで大学生の頃にやった男子学生の気を惹く小手先作戦のようではあるが、この際仕方あるまい。


 予想していた通り、隣の彼は親切にペンを拾って手渡してくれた。


謝謝シェイシェイ(ありがとう)」


 気取って習い立ての中国語で感謝を述べたさくらは、彼の指に煌めく結婚指輪を発見して微笑を強張らせた。やはり。


 ひょっとして、このクラスに通って来ているイケメンは全て既婚者だろうか、とさくらは胸の内で仮説を立てる。


 眼が利く(?)里子によるとデキる男が集まっているらしいとのこと。上海やら北京やらに駐在を予定しているかもしれぬ人材だ。日本の会社も手強い中国と交渉するのにまさかバカな社員を送るわけにはいかないだろうから、社内の逸材を送り込むに違いない。


 そういう男達が女子社員の眼に止まらないはずはないし、いや、きっと学生時代に既にリーチされている可能性だってあるわけだ。


 さくらはふと後ろを振り返り、背後に座っている男性の指にもしっかり金のバンドが煌めいているのを目撃して落胆の吐息を洩らした。


(第6章に続く)

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