第3章 ひたすら女磨き!

 高層ビルの窓の外には美しい東京の夜景が煌めいている。場所は今夜の集まりの幹事を務めた里子のオフィスがある汐溜。七月ともなるとレストランの予約も空いているとのことで高層階に入っている評判の和食店で集合することになった。


「わー、美味しそう。これって芸術的ね」


 美しいガラス器に氷とともに盛られたお造りを見て紀香が手を叩いて喜び、店と料理を選んだ里子が満足そうに微笑した。


「やっぱりこのコースにして正解だったわね。独身者で集まる晩にはこれからは少し豪華版でリッチに行こう。私達が所帯持ちみたいなケチなことを言っていたんじゃ、日本経済の復興はままならないわ」


 今宵の女子会のメンツは独身組、いわば女子会仲間のサブグループともいえ、時おりこうして独身者だけで集まる。さくらを含め三人は高校時代のクラスの仲間で皆親元に住んでいる。


 「パラサイトシングル」と一時ネーミングされたように、食事・洗濯・掃除つきの快適な実家住まいなので家賃や食費の心配をする必要がなく、お給料のほぼ全額を自分の消費に回すことができる「独身貴族」だ。


 いつもの飲み会では仕事の愚痴を語り合ったりしてストレスを発散するわけだが、独身仲間だけで寄り合うとおのずと男の話題が出る。


「で、婚活がどうしたって?」


 里子に促されてさくらは話を続ける。


「それがね、先ずは職場や同窓会で、なんてよく書いてあるじゃない。それでちょっと物色したの。そうしたら、なんと素敵な人はもうみんな刈り取られているんだ」


 冷たい白ワインを飲みながら、さくらはここ数週間の成果、いや、失敗を公表して女友達の裁定を仰いだ。


「みんな、って大袈裟じゃない。同僚の草食系男を同僚の肉食系女子に取られた。同窓のハゲ男が同窓のレーザー女子と婚約した。それだけで天変地異が起きたみたいに慌てる必要って全然ないと思うよ」


 里子はさくらと同じく受験勉強をして共学の大学に進んだ友人で、昔から理路整然、姉御あねご肌なところがある。


 紀香が刺身をつまんでいた箸を止めてさくらの助太刀に廻った。


「私はさくらの気持ち、よくわかるな。春子の結婚式に出て、思わず涙ぐんじゃったもの。やっぱり結婚っていいな、羨ましいな、って。いつか誰かにプロポーズされたい、って思うわ。だからイイ独身男性がどんどん婚約したり結婚したりとなると、真剣に考えなきゃいけない重大問題よ」


 父親が中小企業のオーナーで正真正銘お嬢様育ちの紀香はさすがに「刈り取られる」などというはしたない言葉遣いはしない。


「そんなこと、心配する必要ないって。最近は離婚する人も増えているんだから、セカンドバチェラーでマーケットに戻って来る男だっているわけ。それに、お隣中国は適齢期の男性が女性より四千万人も多いって聞いたわ。四千万人よ! いざとなったら中国のイケメンを探せばいいじゃない」


 里子の台詞せりふに笑ってはみたものの、さくらには中国大陸まで花婿探しに出掛ける覚悟などなく、これはやはり日本だけの統計をベースに心配しなければならない問題だ。


「あのね、何だか私だけ乗り遅れているのかも、って心配なの。美人の俊子に芦田さんを取られてしまったのは仕方ないとして、大学時代にフツーだった美香まで綺麗になっちゃって安西君をしっかりつかまえて。それにせっかく同窓会でバッタリ出逢ったイケメンの先輩にはやっぱり素敵な奥さんがもういるわけ。フリーなイイ男なんてもうあまり残っていないんだとしたら、急がなきゃ、って焦らざるを得ないじゃない」


 さくらの解説に、紀香がテーブルの向こうでうなずきながら付け加えた。


「本当にそうよね。結婚なんてもう少し後で考えよう、とか思っているうちにイイ独身男性がいなくなっちゃうとしたら、ちょっと前倒しして考えないと。鷹揚に構えているヒマはない、っていうことだわ」


 ワインを飲んで思索にふけっていた里子が統括してみせた。


「つまりこういうことかもね。統計的には男と女が半分ずついるとして、ま、珍獣みたいな素敵な独身男はそういう男達を虎視眈々と狙う魅力的な女達にどんどんとらえられて市場から消えて行く。女性は賢いからみんな綺麗になっていて、元々綺麗な女もノンビリ構えているとババをつかむ可能性がある。そういうことだわね」


 そうそう、とさくらと紀香は眼を見合わせて里子にうなずく。自分達を綺麗だとのたまうのはオコガマシイが、少なくともブスではないはずだ。


「じゃあ、コトは簡単。女磨きをすればいいわけでしょ? いいこと、男を振り向かせるのは先ずビジュアルよ。会社の営業と同じ、先ず見てくれに好感を持ってもらってから仕事の話に入る。買ってもらうためにはラッピングが大切ってわけ」


 里子はそれほど結婚願望を持っていないのだが、それなりに勝気なので「負け犬」呼ばわりされるのは不本意らしく、みんなで女磨きとやらに精を出すことに決めたのだった。



 金曜日の夜ともなるといつもは一週間の疲れを引きずりながらおでん屋に向かうのだが、今日のさくらは足取りも軽やかだ。


 というのは、会社の帰りに新宿のサロンへ寄り髪を短く切ってもらったのだ。いつもの駅前の美容室ではなく高層ビルに入居している高級サロンで、流行りの髪型の説明を懇々と訊いてからおまかせでカットしてもらった。


 ふんわりとロールがかかった今時のヘアスタイルは柔らかく女らしい感じで、美容室の鏡で新たな自分を確認して思わず「素敵!」と見惚れたくなったぐらいだ。


 これで夏を乗り切る、いや、夏の間に男をゲットするのだ!


 おでん屋のガラス戸を開けると、頭に手拭を巻いたジョーがいつものようにカウンターの向こうから「おー」と挨拶した。「オー!」という賞賛の声に聴こえないでもない。


 さくらは定番のカウンター席に座り彼の賛辞を待つ。ビール瓶とグラス、それに定番のおでんの盛り合わせは素早く出て来たが、ジョーは俎板の上で甲斐甲斐しく白菜ロールなどを作っており、こちらを振り向かない。こっちのロール髪を見てよ、と言いたくなる。


「ちょっと、何か気づかない?」


 しびれをきかせてさくらはヒントを与えることにする。


「何か、って?」ジョーはさくらを見ると?(はてな)という表情を浮かべた。


 まったく我が弟分でありながら、なんて鈍感な男なのだろう。


「この髪型よ。今日切ってきたんだ」


 さくらはちょっと首をネジ向けて、一万円以上奮発したシャギーを入れた髪のお洒落な後ろ姿を披露する。


「あー、そう言えば少し短くなったな」


「それだけ?」


「涼しそうでいいんじゃない?」


 ジョーはとってつけたようにそう言うとまた俎板の上の白菜を巻きはじめた。まさに猫に小判だった、とさくらは意気消沈する。ジョーのような大学の数学科研究室とおでん屋に埋もれている美意識が欠如した男に最新の髪型が理解できるはずがない、とこちらもわきまえるべきであった。


 節電か何か知らないがおでんを調理する熱のせいもあるらしく、この店は暑過ぎる。さくらは不機嫌な顔でバッグから扇子を取り出すとこれ見よがしに煽ぎはじめた。


 ジョーは相変わらずカウンターの中で白菜ロール作りに熱中している。彼は小さい時から何か凝りだすとそれ以外のことに関心が向かなくなるのだ。こういうのを単細胞と呼ぶに違いない。


 諦めて、さくらは先ほど駅中の書店で購入したファッション誌をバッグから取り出し、カウンターのおでん皿の横に置いてページをめくりはじめた。フムフム。


「何を一生懸命読んでいるんだ?」


 頭上でジョーの声。彼は昔からこちらが何かに熱中していると詮索しに来るアマノジャクなやつだ。


「結婚できる服、の特集よ」


 さくらは雑誌の特集記事から眼を離さずに冷たく答えた。


 そうか、やっぱり「男受けする服」というものがあるらしい。


「彼氏もいないんだから、先ずは、彼氏ができる服、だろう?」


 笑いをにじませたジョーの声音にさくらは顔を上げた。


「彼氏ができたって、結婚できないんじゃ仕方ないじゃない」


「でもな、物事には筋道っていうものがあるんだ。結婚ってのはできあがった物を店で買うのとはわけが違うんだから、先ずは好きな男と付き合って、それからの話だろう?」


 ビールのグラスを傾けながら、彼の言う通りではある、とさくらは納得する。しかし、結婚どころかガールフレンドもいなくて女性の髪型の変化を言われるまで気づかない鈍感男だ。何を偉そうに、とさくらは言い返す。


「あのね、里子達と女磨きに精を出すことに決めたんだ。流行りの髪型と男達をうならせるような素敵なファッションで決めて、こっちを振り向かせるの。もう七月なんだから年末の婚約(目標)まで残された時間は少ないわ。デートに行く服よりプロポーズしたくなる服こそが大事なわけ」


 自分でもさすがに飛躍だとは思われたが、さくらは言い切った。


「じゃ、教えてやるけれど、普通の男ってのはね、ファッションを追いかけているような女は苦手なんだ」


「どうして? 男の子ってアイドルとかモデルとか、ビジュアル系が好きじゃない」


「何か誤解していない? アイドルの水着姿のポスター貼るのと、自分の彼女の話は別だろう? 流行りか何か知らないけれど、よく電車に下着みたいな恰好やすげえ短いパンツで太股出して乗っている女の子がいるけどさあ、仮にそういうのが眼の保養になるとしても、男としては自分の彼女には人前で絶対ああいう恰好はされたくないぜ」


 ジョーでさえひょっとして部屋に女性の水着姿の写真を貼ってでもいるのかと思うと不快だったが、彼の洞察には一理あるような気もする。しかし、ここで素直に納得したのでは姉貴分としての沽券にかかわるので、さくらは小鼻をツンと上に向けた。


「だから、結婚できる服、なわけ。単なる遊び相手ではなく、奥さんにしたいようなイメージ作りが大切なの。そういうビジュアルと第一印象こそがプロポーズに繋がるわけ」


「だったら何もしなくて普通がいいんじゃない? 今日はキメて来ました、みたいな恰好されたら、怖ろしくなって男は逃げるよ」


「どういうこと?」


「だってそうだろう。やっぱ男は、自由を謳歌していたい、みたいなところがあるからさ、この子と付き合ったあかつきには求婚しなきゃいけないだろうな、みたいなタイプって、ちょっと引くよね」


 さくらはビールを飲みながらジョーの言葉を反芻する。要は、結婚相手を探している男には「結婚できる服」がアピールするとして、残っている独身男の中には結婚を逃げ廻っているようなタイプも多いに相違なく(だから残っているわけだ)、そういうやからには「彼氏ができる服」で自然にアプローチ、という方が賢いのかもしれない。


「難しい問題だわ」


 さくらは再びビールのグラスに唇をつける。


「お前が故意に問題を難しくしているだけだよ。要は、好きになった子がどういう恰好していようと、よほど奇抜な恰好でなきゃ気にならないものさ。女の子を見かけても、男ってのは、ピンク色を着た子、とか、胸が大きい子、とか、その程度の印象しかないわけ」


 ジョーの言葉にさくらは愕然がくぜんとする。ということは、男をなびかせるべく一万円以上投資した髪型は無駄だったということだろうか。「さあ、新しい髪型に新しいワードローブを揃えて勇んで男狩り(失礼!)に行こう」とはやっていた気分が、風船にピンを刺されたかのごとくしぼんでいく。


 グラスにビールを継ぎ足して、さくらはジョーに絡んだ。


「ということは何をしても無駄、っていうわけ? せっかく女磨きをしようと張り切っている私の努力と戦意に水を差すわけね」


 さくらのキツイ声音に気づいて、ジョーは当惑した顔で振り向いた。


「別に磨かなくてもいいじゃないか。ありのままのさくらが好きだ、って男を見つければいいだけだろう?」


「そんな男がいたら、とっくの昔に結婚しているわよ。もういいわよ。そういう冷たいことを言うなら、相談してあげないわ」


 さくらはグラスのビールを一気に飲み干すと、呆気に取られた顔をしているジョーに黙って勘定を支払い、怒って店を出た。この際ジョーが愕くような美人になってみせる、とさくらは固く胸の内で誓った。



 紀香と一緒にさくらが通うことにしたのは新宿駅西口近くにあるアスレチック・クラブだ。ロケーションが大事なの、と色々調べて来た紀香は言う。若くて有望な男性社員が多く勤めていそうな企業が集積しており、且つオフィスか自宅に近くて三日坊主にならないですむ場所、というのが理想らしい。


 里子が勤める汐溜界隈も候補に挙がったが、遠回りになるロケーションでは長続きしそうもないということで却下された。


 商業ビルの二階に入居しているクラブは受付がホテルのような落ち着いた雰囲気だが、入会金が高いわけではない。お嬢様な紀香は自宅近くの高級アスレチック・クラブに家族と入会しているのだが、そういう超プレミアム路線のクラブに通ってくるのは有閑マダムや金持ちの老人やヤクザ風の男、そしてその愛人らしき若い女達、というところらしい。


「普通、がいいのよ」と、何だか紀香までジョーのような口を利く。


 このクラブは女性ロッカールームがそれほど大きくないところもポイントが高いそうだ。なぜならそれは男性会員が多いという証左だからとのこと。


「ゴルフ場と同じ。男性プレーヤーが多いから男性用ロッカールームは(見たことがないけれど)大きくて、女性用ロッカールームはとってつけたみたいに小さいわけ。」


 紀香の解説にさくらは、なるほど、とうなずいた。


 ロッカールームで買って来たばかりのアスレチックウェア、すなわちテロテロのTシャツ風トップとランニングショーツに着替えながら、いざ出陣、とさくらは胸の内でカツを入れる。


 アスレチックルームには器械がたくさん並び、新会員の紀香とさくらは先ずインストラクターからそれぞれの器械の使い方を教わった。インストラクターは髪をポニーテールにまとめた大学生そこそこの年齢に見える若い女性だ。


 あたりを見回すと女性会員ばかりが眼につき、若い男性は見当たらない。ひょっとして筋肉がムキムキした素敵な男性インストラクターがいて手取り足取りコーチしてくれるのでは、と内心期待していたさくらは失望を隠せない。


「インストラクターが女性、って失敗だったんじゃない?」


 さくらの溜息に、隣でバストを大きくする器械と格闘中の紀香が振り向かずに答えた。


「その逆よ。女性インストラクターがいるクラブには男の子達が集まるものよ。まだ時間が早いから女の子の会員が多いみたいだけれど、きっとそのうちに男達がやって来るわ。それまでにせいぜいバストを大きくしておかなくちゃ(!?)」


 紀香の言葉に、さくらも同じく両腕を閉じたり開いたりして重い器械を操作する。時おり点検にやって来て腕の動かし方や呼吸法を指導してくれるインストラクターの女の子は服の上からでもそれとわかるほどバストが豊かだ。


 城は一日にして成らず、でこうして踏ん張ったところで小さな胸が急に成長するとは思えず、男だったらピチピチのポロを着たインストラクターの胸に先ず視線が行くと思われる。


 器械を幾つか試しているうちに、はたして徐々に男性が集まりはじめた。確かに若い男が多く、常連らしくそれぞれお気に入りの器械に取り組み始める。


 額に汗を流し腕や腿の筋肉を隆々とさせ黙々と器械と格闘している男の姿はどれもサマになる図だ。


 さくらは腹筋を鍛える器械を操作しながら男達を盗み見て、「アスレチック・クラブにこそ男らしい男がいるのだ!」と感動に近い想いに浸った。


 やはり男は強さとたくましさ。女が危機に陥っている時に颯爽と現われて彼女を窮地から救う。このスーパーマン的逞しさを備えた男性こそを狙わなくてはいけないはず。


 しかし男達はどうやら純粋に身体を鍛えに来ているらしく、視線を泳がせてみてもどの男の視線にも遭遇しない。


 固い身体を無理にストレッチして二つ折りにしながら、さくらは自分に言い聞かせた。


 アスレチック・クラブに来たのは女磨きのためで、男を見つけるのは二義的な目標に過ぎず、先ずは「男性を惹きつけてやまない魅惑的なボディー」をこそ手に入れる計画だ。急がば廻れ、とさくらは教えられたように腹筋で押し出すようにして深く息を吐いた。


 最後に一走りしてから帰ろうかとトレッドミルに向かう。先ほどインストラクターから操作法を聞いたはずなのだが、どうにも設定の仕方がわからず器械を眺めて困っていると、男性の声がした。


「お手伝いしましょうか?」


 声に振り向くと、なんとランニングの君、ランニングを着たイケメンだ。


 いや、並の男かもしれないけれど、日灼けした体躯に白いランニングが眩しく、正月には必ずテレビで応援することにしている駅伝の選手を彷彿ほうふつとさせる。


「すみません、初めてなものですから」


 さくらが恐縮して頭を下げると、その男性は簡単な説明を付け加えながら器械をセットしてくれた。感謝を述べてさくらはトレッドミルで走り出したが、実は頭の中は隣で走っている男のことでいっぱいだ。


 まさか横を見て走るわけにはいかないので前面の窓を向き、暗くなりはじめた新宿の街を見下ろしているのだが、心の眼では隣の男ばかりが気になっている。


 もしかして相手もこちらを時おり盗み見ているかもしれないと想像すると、自ずと身体の各部の神経が張り詰め、なるべく素敵なボディーに見せようと胸を押し出しお腹を引っ込めて走った。


 相当走ったような気がするが、隣の男は一向に走りやめる気配がない。


 じゃあ、もう少し、とさくらも走り続ける。馴れないジョギングで疲労したせいか、意識が朦朧としはじめ、ふと、隣の男と一緒に同じ目標に向けて走っているような妄想にとらわれた。


 彼はもはや見知らぬ男などではなく「人生を共に歩む(走る!)パートナー」なのだ。不思議な快感にとらわれて、さくらは何かにとりつかれたかに足を進めた。


「さくら、もう帰ろうか」


 背後から聴こえた紀香の声に、さくらは我に返った。


 トレッドミルを止めて降り立つと、はたして隣の男はまだ走っていたが、その耳にはイヤホンが挟まれており、無言で盛んに口を動かしているところからすると、どうやら語学のテープでも聞いて学んでいるらしかった。


 つまり彼はさくらの動向には全く無関心だったというのが事実であるらしく、こちらは彼と共に人生を歩むつもりだったのに、と悲嘆に暮れざるを得ない。


 紀香と一緒にアスレチックルームを退出しながらさくらは窓際のトレッドミルを振り返ってみたが、男はまだ走り続けていた。


 「まあ、有望株ではあるじゃない」


 階下にあるコーヒーショップでパスタを食べながら、紀香が慰めてくれた。せっかく運動して体重を落としたのだから、とアイスコーヒーだけを注文したさくらは失望(空腹)のあまり元気が出ず紀香の言葉にうなずく。


「それはそうね。でも出逢わないことには仕方がない。どうもアスレチック・クラブに集う男達ってナルシスト的じゃない? 身体を鍛えていざという時にヒメを救おうというより、自分を鍛えること自体に意義を見出しているみたい」


 紀香が食べているミートソースパスタが美味しそうに見え、空腹にお腹が鳴った。


「さくら、そうかもしれないけれど、そこがいいんじゃない。昔の侍と同じ。別に女性にモテようなんて浮ついた考えで修行に励んでいるわけじゃなくて、いざという時に主君のために戦い、そして家を守るために剣術や武術を研鑽するわけ」


 人気テレビドラマのお陰で最近「にわか歴女」になり、侍こそが理想の日本男児! と語っている紀香はうっとりとした眼差しで断言する。


 確かに、不甲斐ないヤワな男性が多く見受けられる昨今、自分の身体に鞭打ち筋力、そして精神力を鍛える男達は称賛に値するに違いない。しかし、主君や国のために戦うべき諍いもない平和な日本、男達は鍛えた体躯を女性を守り救うためにこそ使うべきではないか。


「いざという時に本領発揮ということだと、それこそ大災害でもないと出番がないわね」


 さくらが軽口を叩いた時に、先ほど隣のトラッドミルで走っていた男性がカフェの入り口に顔を出してカウンターに並んだ。背広を着ているのでいささか大人しげな印象だが、間違いない。


 さくらは「やっぱり私もパスタを食べることにする」と紀香に言い残すと、彼女の返事を待たずにカウンターに近づいた。ここでランニングの君を、「人生のパートナー」を逃すわけにはいかない、との決意が勇気を奮い立たせ口をすべらかにした。


「先ほどはトレッドミルの使い方を教えて下さって、どうもありがとうございました」


 男は一瞬困惑を垣間見せると、こちらの顔に気づいたのか柔和な笑みを浮かべた。軽く食べてから帰るつもりだとの彼の言葉に、さくらは同じパスタを注文する。


 さて、紀香を一人残しておくわけにもいかないし、きっと二人連れの方が彼も安心するに違いないと踏んで、さくらは一緒に食べようと提案した。ランニングの君はいささか戸惑いを見せたが、お邪魔でなければ、と盆を持って素直について来るではないか。胸の内で「ヤッター!」と歓声を上げずにはいられない。


 彼を誘ってテーブルに座ると、パスタをあらかた平らげていた紀香は眼を丸くした。三人でテーブルを囲んで、とそこまではよかったのだが、さくらは大失敗を犯した。


「紀香は侍ドラマとか、好きなんですよ」


 言うことに事欠いて口を滑らしたとたん、なんと男も歴史好きらしく、歴史談義が始まってしまったのだ。


 にわか歴女とはいえ、少なくとも大河ドラマを見てドラマ本を買うぐらいの勉強(?)をしている紀香は男の話にうなずき活発に会話に参加しているが、歴史が苦手なさくらは高校の教科書で習った武将の名前も想い出せないレベルで、とても二人の話についていけない。


 結局その晩はパスタを食べ終えた後彼に熱いコーヒーまで奢ってもらったのだけれど、盛り上がっていたのは歴男(高村さんという名だと後で紀香に教えられた)とにわか歴女の紀香で、さくらは完全に蚊帳の外だった。



 金曜日の晩に再びおでん屋へ顔を出す。本当は月水金とアスレチック・クラブへ行くつもりだったが、入会早々に意志がぐらついてきているのだ。


「これって悲劇だと思わない?」


 チュウ杯を飲みながら、さくらは愚痴る。


「何が?」とカウンターの向こうでジョーは素知らぬ顔をした。


「紀香のことよ。紀香にせっかく見つけた彼を取られたことが、よ」


 カウンターから身を乗り出すと、ジョーは嬉しそうにコメントした。


「そういうのを取られたとは言わないぞ。三人でカフェに行ったら二人がくっついた、なんて学生時代からよくある話じゃないか」


 確かに大学時代にも似たようなことが何回もあったような憶えがある。クラスの仲間で、或いはクラブの仲間で飲みに行って、帰りには隣り合って座った二人のカップルができ上っていたものだ。


「でも、彼を発見したのはこの私なのよ」


 見知らぬ男にトレッドミルの上で抱いた「二人で共に人生を歩む」妄想をさすがにジョーに打ち明けるわけにはいかないが、さくらはチュウ杯のグラスを揺すって中に入っている梅干しがクルクル廻るのを見つめる。


 まったく見つける端から貴重な独身男を友人に取られて、この自分はアホか、と自嘲じちょうしたくなる。


「前にも言っただろう? 男を友達に紹介するさくらがアホなんだよ」


 わかっていることを他人に言われるのは面白くないし、第一、弟分のジョーにアホ呼ばわりされたくはないものだ。さくらを彼をキッと見上げた。


「紹介したわけじゃないわよ。たまたま紀香がそこにいたの」


「じゃ、仕方ないじゃないか。敵はさくらの友達が気に入った。それだけのことさ」


 それだけ、には違いないが、納得できないものがある。決して安くはない入会金を支払ってアスレチック・クラブに入ったのだ。ただでさえ運動は苦手なのに、あの晩は翌日筋肉痛を起こしたほどワークアウトに励み、頭が朦朧もうろうとするまで一生懸命走ったのだ。


 天の恵みのごとくアスリートな逞しい男と知り合ったというのに、なんでその彼がこの自分でなく紀香に関心を持ったのか、面白くない、を越えて悲劇なのだ。


「なんで私でなくて、紀香なわけ?」


 チュウ杯を飲み干してさくらは嘆く。


「さくら、お前、自分でわかってないのか?」


 明日のおでんの材料を用意しているらしいジョーがこちらに尋ね、さくらは彼を見る。


「何がわかってない、っていうわけ? こういう不条理なことに理由なんてないじゃない。それとも紀香の方が私より綺麗だとでも言いたいわけ? 逢ったこともないくせに」


「そんなこと言ってないだろう。いいか、敵は歴史が好きでお前の友達も歴史好きで、お前は昔から歴史は苦手だった。だから、必然の結果だ」


 言い返してやりたいところだけれど、受験する際に日本史の試験がない大学を選んだのは事実で、歴史好きだとはうそぶけない。高校の期末試験のために日本史の年代の覚え方をジョーに教わった記憶もあり、この件に関しては嘘をついたところでバレてしまう。


 さくらがうつむいていると、ジョーが追い打ちをかけてきた。


「女磨きとかいうんだったらさ、先ず内容を磨けよ。男はアスリートで筋肉隆々なんて逞しい女は苦手なんだから、身体鍛えるより頭鍛える方がいいんじゃないか?」


 まったくいつも言いたい放題の男だ。


「失礼ね、こっちが頭悪いみたいなこと言って。これでも学校では紀香より勉強はできたのよ。紀香はミーハーだから、イケメン俳優が出るからって突如歴史に関心を持っただけなのに」


「ま、これもさくらの向学のために教えておいてやるけどさ、男っていうのは歴史が好きなやつが多いわけだ。リーダーになりたい、なんて野心を抱いているやつは特にね。鉄道やメカも好きだし、スポーツ観戦も好きだ。婚活とかに本気で励むつもりだったら、どんなタイプに逢っても彼らの趣味を多少理解してやるぐらいの見識を持っておけよ」


 ジョーの言うことには一理ある。いや、一理も二理もありそうで、真面目に考えはじめるとこれは就職試験や大学受験より厄介ではないか。


 世の中には多彩な趣味の男がいるわけで、いざ素敵な男性に出逢ってから彼の趣味に合わせるべく努めるならばともかく、誰に逢っても大丈夫なように知識で武装し彼らの気を惹くとなると、これは婚活勉強なるものを始めなければいけない。


 婚活塾、というようなものができるかもしれない。歴史好きな男性を惹きつけるための初級コース、一緒に史跡を訪ねる旅に出られる程度の中級コース、歴史トークで盛り上げてプロポーズを目指す上級コース。


「どうした、急に黙っちゃって」


 さくらが婚活塾の話をすると、ジョーは大声で笑いはじめた。


「さくら、お前って可愛いとこあるよな」


 二か月年上の姉貴分に向かって、可愛いとこある、はないだろう、とさくらはジョーを軽くにらむが、可愛いと言われてムカつく女はいない。


「いいか、これって常識の世界だぜ。一通りの教養を持っていれば、上手く人の話に耳を傾け、合槌を打つことができる。客商売と同じだな」


 そうか、それで航空会社のキャビン・アテンダントとか客商売の女性達が男達にちやほやされるのか、とさくらは納得する。


「どう、しばらくうちで俺と一緒に働いてみる? さくらの勉強になるかもしれないし、塾料は払わないですむどころか、バイト代をはずむよ」


 大根の皮を丁寧ていねいにむきながら、冗談とも本気ともとれる口調でジョーが提案した。


「遠慮しておくわ」


 さくらはジョーににっこり微笑してみせた。



 ところがジョーの店を手伝うハメになったのだ。というのは慶子おばさんが急性盲腸で入院して手術し、おばさんが回復するまで、幸い大学は夏休みなのでジョーはフルタイムで店を預かることになり、さくらは母に言われて店の手伝いをすることになった。


「あなた達は兄弟みたいにして育ったんだから、丈君が困っている時ぐらい助けてあげなさいよ。どうせお友達と夜遊びばかりしているんでしょう?」


 さくらは母には婚活の話は内緒にしている。結婚のケの字でも出そうものなら、「一人娘がやっと結婚する気になってくれた」と喜んで両親がシャシャリ出て来ることなど、眼に見えているからだ。


 オフィスの帰りに毎晩手伝いに行く、とさくらがジョーに通告(?)すると、ジョーは一応「気持ちだけで十分だ」とか何とか言ったが、エプロンを持参してせ参じたさくらを追い返すことはしなかった。


「それ、結構良く似合っているじゃん」とジョー。


 当り前でしょう? とさくらは胸を張る。おでん屋の手伝いとあって、わざわざデザイナーブランドの和風柄エプロンに投資したのだ。白い地に花火のパターンがプリントされたエプロンは超可愛いデザインで他人に見せびらかしたくなる。


「いらっしゃいませ!」


 カウンターの中に並び立ち、さくらは客が入って来るたびに元気良く挨拶した。客がテーブルに座るのを見計らって冷たいお絞りを出し、「お飲み物は何になさいますか」とにこやかに微笑する。何しろ飲食店にとっては料理の手間がかからないアルコールこそが大きな収益源なので、客に出来るだけ酒を飲んでもらいたいのだ。


「おっ、お姉ちゃん、新しい人だね。丈君のガールフレンド?」


 唐突なコメントに面食らったが、大事な婚活中に誤解が生じてはいけないので、さくらはサラリーマン風の客達に営業スマイルを浮かべ毅然きぜんと応対する。


「いえ、単なる幼馴染です。慶子おば様にはいつもお世話になっていますので」


 客のテーブルに足繁く皿やグラスを運び、純米大吟醸のような高い酒を飲んでくれる客のテーブルでは問われるままに世間話に合槌を打つ。飲食店でのバイトなどこれまで未経験のさくらだったが、ひょっとして客商売が向いているのでは、と自分でも思いはじめた。


 こんなことだったら損保などに勤めず航空会社にでも入社していれば、今ごろは「世界を飛び回る商社マン」の妻の座にでも収まっていたかもしれない、と残念だ。


「いやー、良く気がつくお嬢さんだねえ。うちの息子の嫁に欲しいところだ」


 半ば酔っている客の台詞に喜び、ひょっとしてご縁でも、と勇んでジョーに報告する。


「そりゃ、やめておいた方がいいな」


 てきぱきと客の注文を皿に盛りつけながらジョーが素っ気なく吐いた。


「あっ、もしかしていている?」


 さくらが茶化すと、ジョーはおでんを盛った皿をさくらに手渡しながらくすりと笑った。


「あの客の息子はまだ中学生だぞ」


 おでんをテーブルに運びながら、さくらは面白くない。しかし、大学生ぐらいだったらまだ何とかなるにしても、中学生が育つのを待つわけにはいかない、と溜息をついた。


 会社帰りの客達が一通り帰ったので店は静かになり、さくらは積み上がった皿やグラスを丹念に洗った。自宅では母の食後の片づけを手伝おうという気も起きないのに、こうして他人の家(店)ではエプロンを掛けて健気に働いている自分が誇らしくなる。


 洗い物を終えて、カウンターの中にあるキッチンで明日の仕込みをしているジョーの傍に立ち、さくらは何か手伝うことはないかと尋ねた。


「もういいよ。とても助かった」


 ジョーは珍しく素直だ。それにどことなく物想いに耽っている表情。


「私達って兄弟みたいなものなんだから、困った時には助け合わなくちゃ」


 彼を元気づけようとさくらが快活に言うと、ジョーは出汁を作っている鍋から顔を上げ、首に巻いたタオルで額の汗を拭ってさくらの顔を見つめた。


 そして、ぎこちない笑顔で答えた。


「そりゃそうだな」


(第4章に続く)


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