第2章 先ずは同窓と同僚をマーク!

 会社のカフェテリアは高層オフィスビルの二十二階にある。窓の向こうに見える六月の梅雨つゆ時の空は今にも雨が降り出しそうな重たい鈍色で、眼下に広がる不格好なペンシルビルが猥雑わいざつに立ち並ぶ新宿の街も不機嫌な色に霞んでいた。


 天丼をお盆にのせて、さくらは同僚の俊子の後に続き窓際の席に腰を下ろした。


「で、何で急に婚活になんて興味出したわけ?」


 俊子はかけ蕎麦をすすりながらさくらに問いただした。常にダイエットを心掛けている、と自慢している俊子はスタイルも抜群で、いわゆる、恋人ナシ独身美人、の一人だ。


「どうしてって、ちょっとしたはずみ、かな。親友がダラダラ付き合っていた彼氏と結婚したり・・。ほら、婚活しなきゃイイ男がいなくなっちゃう、みたいな恐怖心をあおるニュースを読んだりして、やっぱりそろそろ考えなきゃ、って思ったわけ」


 海老天を箸でつまみながらさくらは答える。会社の食堂の天丼は豪華とは言えず、海老の天ぷらはささやかに一本だけで、後はナスや玉ネギ、ニンジンやかぼちゃの野菜天ぷらだ。どれか一つだけ食べていいと言われたら、誰でも海老を選ぶと思われる。


「婚活なんて時間の無駄よ。イイ男はもう結婚しているか結婚に向いていないかで、結婚したいと考えるような律義な独身男はツマラナイ人ばっかり」


 さくらは入社した当初、俊子が一時合コンやら異業種交流会とやらに精力的に顔を出していたことを思い出す。誘われて何回か一緒に出席したのだが、男達の関心は美型の俊子に向かうばかりなので、アホらしくて会に付き合うのはやめたものだ。


 結局俊子のお眼鏡にかなったのは既婚者の男で、数年前までその男性と付き合っていたらしいが、最近は彼女の口から彼の噂を聴かない。「私は別に結婚相手を探しているわけじゃないの」、と俊子は不倫を正当化していた。


「ツマラナイ人ねえ・・」


 さくらはカフェテリアにつどう同僚の男達を眺め廻す。


「やっぱり、この大震災のお陰でうちの会社、相当やられたんじゃないかしら。気のせいかみんなシケた顔しているもの」


 さくら達が勤務しているのは損保会社で、社員の一番の関心事であり懸念はこの夏のボーナスがちゃんと出るかどうかということだ。


「ま、さくら、本気で結婚したいんだったら外を探すより先ずは中で探してみたら? 企業がつぶれるこの不景気な時代には、うちみたいな地味な金融機関は安定した職場には違いないわ。地味な男達しかいないけれど、安定した稼ぎ手ではあるでしょ?」


 俊子の助言に、さくらは再び周囲のテーブルに座っている男性社員達の顔を盗み見る。


 中年の男達が目立つ昼のカフェテリアには若い男性がいないというわけではないけれど、そういう男達に限ってさくら達と同じく制服を着た内勤の女性社員と一緒に座っていたりする。ひょっとして自分が知らない間に皆もうカップルになっているのだろうか。


 心配になってさくらがそう述べると、蕎麦を食べ終えた俊子が笑った。


「できている二人が堂々とオフィスの食堂で一緒に座っているはずがないじゃない。女子社員と一緒に座っているような男こそマークすべきよ。少なくとも会社の女の子に声をかけるぐらいソツがないわけだし。ま、もう所帯持ちだったり恋人がいたり、って場合が多いでしょうけれど」


「そういうのって、それこそ時間の無駄じゃない」


「いいこと? 本気で年末までに婚約したいんだったら、女性と話すすべも知らない未熟な男を相手にしているヒマなんてないわよ。この際、恋人が一人や二人いる男性を奪おう、というぐらいのガッツでマークしなくちゃ」


 俊子の過激な言葉にさくらは食べていた天丼を喉につかえさせるところだった。美人の俊子だったらそれぐらい積極的に出てもサマになりそうだが、こちらには到底そんな自信もガッツもない。


「ガールフレンドがいるような人をマークするなんて、そんな無謀なことできないわ」


「あのね、うちの会社はただでさえ独身女性が独身の男達の数よりはるかに多いの。その上経費節減とやらで派遣の子も働いている。永久就職を狙って来ている子だってたくさんいるんだから。激戦区だと心得てしっかりアプローチしなくちゃ結果は出ないわよ」


 行動力にひいでた俊子の解説には説得力がある。


 婚活とは素敵な人に出逢う機会を求める活動だと思っていたのだけれど、どうやら黙って可愛らしく座っているだけでは駄目で、積極的なアプローチなるものを仕掛けないと男性は振り向いてくれない時代らしい。


「アプローチって言ってもねえ・・」


 さくらはぼんやりとあたりを見廻しながら溜息をつく。


 飛び込み営業ではあるまいし、まさか見知らぬ人に向かって、デートして下さい、と切り出すわけにはいかないではないか。そんな度胸どきょう欠片かけらもない。


 すると、カフェテリアの入り口近くで券売機の傍に立っている背の高い男性に気づいた。さくらと同室の営業マンで、この四月に大阪支店から本店に戻って来た芦田だ。同じ課にいる数少ない独身男の中では平均点をクリアしている顔立ちで、課長のお眼鏡にもかなっている働き振り。


 しかし、彼はなぜかこちらと顔を合わす度に気難しい表情を浮かべ頬を強張こわばらせる。金縁眼鏡の奥の瞳がなかなかさわやかな印象の男で、あれで少しにこやかな顔でもしてくれたらイケメンの部類に入るかもしれない。


「さくら、何ぼんやりしているの?」


 さぐりを入れるような俊子の声に、さくらは我に返った。


「えっ? もしかして誰か素敵な人でもいないかな、と思って」


 俊子はテーブルの向こうで肩をすくめてみせた。


「ま、あんまり期待していないけれど、頑張ってちょうだい。」


 さくらは再び視線を泳がせ、中華コーナーに向かうらしい芦田の後ろ姿を追った。


 アプローチねえ、と胸の内で呟いては見るものの、いったいどうやってそのアプローチをしたら良いものか、皆目見当がつかない。



 雨は降り止んだが蒸し暑い夜だ。


 駅の階段を降りはじめたさくらは右へ行こうか左へ行こうか、一瞬迷う。右側は駅の表口へ向かう自宅の方向で、左側は駅の北口、ジョー、いや、慶子おばさんの店がある方角。


 最近どうも金曜日になると自然と足が左へ向いてしまうのだった。


 ジョーは一応大学に勤務しているので、慶子おばさんの店を手伝っているのは客足が多い金曜日と土曜日の晩だ。


 さくらの職場は残業がないということでもなく(?)、母はさくらが外で食事をして来ると想定しているので、帰るコールでもしない限り夕食を作って待ってくれているわけではない。オフィス近くのラーメン屋やカフェでイマイチの外食を済ませる日々も多く、それだったら、とおでん屋に足を向けることになる。


 ガラス戸をがらがらと軋ませながら開けると、奥のカウンターの向こうから、「おー」とジョーが声をかけてきた。


「いらっしゃい、ぐらい言ったら?」


 憎まれ口を利きながらさくらがカウンターの端、定番の席に陣取ると、注文もしないのにビール瓶と冷やしたグラスが出て来た。


「ちょっと、ビール飲むなんてまだ言っていないけれど」


「どうせ飲むんだろうから、常連客に気を利かせてやったんじゃないか」


 カウンターの向こうでジョーが微笑し、それもそうだ、とさくらも曖昧模糊あいまいもことしたムカつきの矛先ほこさきを胸の内に収めることにする。


 どうも今日は朝から気分が晴れない。集計していたデータをパソコンのミス操作で全部失い再度やり直すハメになったし、会議に出席していた課長から、資料が一頁抜けていた、と後で怒られた。


 それより何より、エレベーターでたまたま同乗した芦田がわざとそっぽを向いたのだ。マークするはずだった敵のない態度に、気落ちせざるを得ないではないか。


 グラスに注いだビールを飲みながら、さくらは狭い店内を見渡す。おでん屋はやはり夏場ともなると客足が遠のくようで、テーブル席に四人ほどの客がいるばかり。


「ねえ、このお店、大丈夫なの?」


 さくらが小声で尋ねると、俎板まないたで何か刻んでいたらしいジョーはキョトンとした顔を上げた。


今何時なんじだと思っているんだよ。こういう郊外の店ってのはな、昼間の主婦族とかヒマで大食いの学生、外食するしかない独り者の老人、外回りの営業マン、それに定時に会社を出たけれどすぐ家には帰りたくないフラリーマンたるサラリーマンでもっているんだ。そろそろ店仕舞いしようか、って頃に顔を出されちゃ店の盛況ぶりがわからないだろう?」


 勇んだ声を出したけれど、どこかわざとらしい感じがしないでもない。だいたい彼がこちらを真っ直ぐに見つめ返さず視線を逸らす時には何か隠している。長い付き合いだから、それぐらいわからないはずがない。


 さくらは急に優しい気持ちになり、姉のようにいたわりの声をかけた。


「ほら、例えば夏場だけでも、冷やし中華あります、とかやってみたら? かき氷あります、とかもいいかもよ。あのかき氷の旗ってレトロで好きだな」


「なんでおでん屋が冷やし中華なんだ?」


 ジョーがこちらを向いたのでさくらは言い返した。


「なんでおでん屋が冷やし中華やっちゃいけないわけ? ここは入り口が奥まっているんだから見つけにくいの。冷やし中華の看板を表に掲げるだけで通りを歩いている人の関心を集められるじゃない。要は、客寄せよ」


 ジョーはしばらく思案しているようだったが、「考えておくよ」と言うと、これまた注文しないのに大根と昆布とイカ団子を皿に盛ってこちらに差し出した。このところこればかり注文していたので、どうやら常連の定番料理になってしまったらしい。


「で、婚活は上手うまくいっているのか?」


 俎板を片づけながら、いかにも「どうせ上手くいっていないんだろう」という口調でジョーが言い捨てた。まったく参謀になってくれるはずの男がこれでは頼りない。


「上手くいっているわよ。俊子に言われたみたいに先ずは社内で見つくろうことにしたの。うちの会社、素敵な人もいっぱいいるのよ」


「でもそいつら、もう結婚しているか彼女がいるんだろう?」


 先週、俊子にけしかけられた「他人の恋人を奪う作戦」をジョーに打ち明けたところ、「そういうのって感心しないな」と言い渡されたものだ。


 さくらは参謀の関心を買うために前向きな説明を試みる。


「彼女とかそういうしがらみがない、仕事一筋の素敵な人だっているわよ(いるはず)」


「じゃ、そのアタックとやらを仕掛けたらいいじゃないか」


 今夜もジョーはやけに素っ気ない。


 店の特製イカ団子はイカを包丁で細かく刻んで丸めたもので、おでんの汁の味が沁み渡ったプリッとしたイカの食感が最高に美味しい。夏にだって食べたくなる一品ではある。


「あのね、実はターゲットにしている同僚がいるんだけれど、どうしてだか私に冷たいのよ。仕事でミスった憶えもないし、第一、この四月にうちの課に配属されたばかりで嫌われるようなことをしたはずはないんだけれど」


 イカ団子の味をみ締めながら、さくらはふとジョーにボヤいていた。


「さくら、お前、相手に事欠いて入社早々の若い男に手を出そうっていうわけ? いい歳して、そういう見苦しいことはやめておいた方がいいぜ」


 ムム、華の二十代の乙女をつかまえて、いい歳、とは暴言もはなはだしい。


 ジョーの憎まれ口にムッとして、さくらは抗弁する。


「誰も新人だなんて言っていないじゃない。入社年次は私より三年上、歳恰好がちょうど釣り合うし仕事もできるイイ男だわ」


 そう他人に宣言してみると、突然芦田こそが最適の結婚相手であるかのように思えて来たから不思議なものだ。


「でも嫌われているんじゃ、仕方ないな」


「嫌われているとは言ってないわ。冷たいような気がする、って言ったのよ」


「どう冷たいんだ」


「なんか、こう、よそよそしいのよね。頬を強張らせたり、わざと視線を逸らしたり」


 ジョーはカウンターの向こうで顎に手を当てると、中空を眺めてしばらく思案しているようだったが、それからこちらを見た。


「その男、本当にいいやつなのか?」


 彼の問いの意味がわからずに、さくらは熱を込めて繰り返す。


「とても素敵な人なの。彼の存在が気になって、仕事中もつい盗み見ちゃう」


 ハッタリではあるが、口に出してみると芦田の存在がますます胸の内でふくらんできた。


「じゃ、教えてやるよ。そいつはきっとさくらのことが好きなんだ。で、どうやって意思表示をしたものかわかりかねて、ついツッケンドンになるわけだ」


「えっ?!?」


 さくらが愕く番だった。まさか。でも、もしかして、そういうことも有り得るのだろうか。カウンターの向こうからジョーが諦めたみたいな微笑を送って寄越した。


「あのさ、こう言っちゃなんだけれど、さくらはロクに男と付き合ったことがないから、男心がわかっていないんじゃないか? シャイな男ってのはね、好きな女の前に出るとだらしない薄ら笑いを見せるわけにもいかないから、緊張で顔面神経が引きつっちゃうんだ」


 うっ、とさくらは食べかけていたイカ団子を呑みこむ。


「それって、アリかしら?」


「ありうると思うよ。なんだったらうちに連れて来いよ。俺がそいつをじっくり首実検してやる。本当にさくらを幸せにできる男かどうかをね」


 ジョーは俎板に眼を伏せると本気とも冗談とも思われる声音で言った。姉のことを気にかける実の弟みたいで優しいところもある、とさくらは柔和な気持ちになる。


 しかし、芦田とは仕事の件以外ではロクに口を利いたことがないのだから、もちろんジョーのおでん屋に連れて来るどころではない。


 もし芦田がこちらに関心を持ってくれているのだったら、とさくらは想像(妄想?)の羽根を伸ばした。そうだとしたら、これこそアプローチが必要な相手に違いない。



 芦田は営業担当なので日中は外回りで席を外していることが多い。さくらはつい課の部屋の入り口を見張って芦田の挙動に注意を払う癖がついた。


 アプローチ、ねえ。


 まさか同僚の前で声をかけるわけにはいかないから、偶然を装って廊下でバッタリとか、カフェテリアで遭遇するとか。あれこれ考えてはみるのだが、まさかトイレに立つ彼を追い掛けるのも躊躇ためらわれて、何も実行に移せないでいた。


 金曜日になり、俊子とランチを食べる約束だったのでカフェテリアの入り口でぶらぶらしていると、なんと敵が、いや芦田が廊下の向こうからこちらに向かって歩いて来るではないか。彼はさくらの姿に気づくと、とっさに困ったような表情を浮かべた。


 この前のジョーの助言(?)に勇気づけられてさくらは彼に向い一歩進み出る。アプローチあるのみだ。進軍マーチが耳に響く。


「芦田さん、午前中は部屋を外していらっしゃいましたけれど、外回りですか?」


「やあ、・・ちょうど客先から戻って来たところで、その、メシは会社で食ってからまた出ようかと」


 ぎこちない声ではあるが、芦田は少なくともこちらの顔を見て喋っている。これは進展に違いなく、さくらは思い切りの微笑を浮かべて彼の瞳を見つめた。


「外、暑くて大変でしたでしょう?」


「そうなんだ、すごい暑さで。歩いているだけで汗タラタラ・・」


 苦笑を浮かべた芦田の額に汗がにじみ、ワイシャツの脇下には汗で沁みができていた。


 さくらが言葉を継ごうとした時に、エレベーターホールから俊子がやって来た。


「あら、芦田さん、ずいぶんお久しぶりです!」


 なんと芦田は大阪に転勤する前に俊子がいる課に配属されていたらしい。二人が近況報告めいた立ち話をするのをかたわらで眺めながら、さくらは新参者のごとくいささか居心地が悪くなる。それにしても俊子は妖艶な微笑までたたえて、いやに愛想が良い。


「芦田さん、貫禄がつかれましたね。見違えちゃった。あっ、このタオルハンカチ、お貸しします。私もう一枚持っていますから」


 俊子は素早くバッグから白いタオルハンカチを取り出すと押しつけるように芦田の手に握らせた。彼は一瞬困ったような表情を浮かべたが、大人しく受け取るとハンカチで額と首の後ろの汗を拭い、使ったハンカチをどうしたものかとしばしヒラヒラさせた後、諦めたかにズボンのポケットに入れた。


 一緒に食べようとの俊子の提案で芦田とランチする機会には恵まれたのだが、俊子が一緒だった。いや、これはどう考えても俊子と芦田のランチに自分がおまけでついているという感じだ。


「それにしても、寺内さんと神田さんが知り合いだとは知らなかったな」


「私達、同期なんです。ね、さくら」


 ご機嫌にそう言うと、俊子は隣に座っているさくらに軽く頭を傾げて目配めくばせした。同性が見ても魅力的な俊子の「大人可愛い」得意技わざだ。


 どうやら顔見知りの俊子の存在で緊張を解きほぐしたらしい芦田はさくらに快活に微笑した。


 さくらは無言で笑みを返しながらも、大阪支社の話やあちらでの生活振りを芦田から巧みに聞き出す俊子の話術に舌を巻くばかりで口もはさめない。芦田が今流行りの大人しい草食系男だとしたら、俊子こそまさに獲物に狙いを定めた「肉食獣・イン・アクション」ではないだろうか、とあらぬ心配を抱きたくなる。


 ランチが終わり、これで俊子を厄介払いして課の部屋までは芦田と一緒に戻れるかもしれない、とさくらがナイーブに期待していると、俊子が今気づいたというような賑やかな声を出した。


「そうだ芦田さん、せっかくですからうちの課へお寄りになって。芦田さんが東京に戻っていることを知らない人もいると思いますので。ヨッちゃんとか、みんなきっと喜ぶわ」


 そのヨッちゃんっていったい誰なの? とさくらが案じている間に、芦田は俊子にさらわれたのだった。




「それで?」


 カウンターの向こうでジョーが嬉しそうな顔をしたので、さくらは彼をにらみつける。


「それでも何も、ないわよ。俊子によると、彼にハンカチを返してもらうために逢った、っていうことだけれど、それで話していたら波長が合ったんですって」


「要するに、友達に彼氏を取られた、ってことだろう?」


 ジョーの端的な要約に気分を害されて、さくらはプイと横を向く。


 しかし否定したくとも、要するに俊子に芦田を取られたということは事実なのだ。


「さくらも甘かったな。そんな美人の友達に彼を紹介したりしてさ」


「誰も紹介なんかしていないわよ。彼は元々俊子の課にいたとかで、二人は前から知り合いだったの。私の出る幕なんてなかったんだから」


「だけどさ、お前達女って、そんなに簡単に友達の彼氏を奪い合ったりするのか? それはどう考えたってヒドイ仕打ちだぜ」


 同情を示してくれているらしいジョーの声音に、さくらはいささか慰められる。


 そうなのだ。こちらが標的第一号に考えていた社内に残された唯一有望な独身者をかすめ取るとは、どう考えたってヒドイ話ではないか。それも、こともあろうに婚活の相談に先ず乗ってもらった友人に奪われたとは、いきどおりを超えて情けなくなってくる。


「本当にヒドイよね・・」


 空きっ腹にストレートで飲んだ日本酒の酔いのせいか、さくらは小振りの切り子のグラスを握り締めて、思わず涙を浮かべた。


 私は友人に恋人を奪われた可哀想かわいそうな薄幸の女なのだ、と悲劇の主人公を演じてみたくなる。芦田は別に彼氏でも何でもないのだが、この際そんな事実は棚に上げて、俊子の冷たい裏切りに怒り、ウーンと大袈裟に嘆いてみたい。


「さくら、ひょっとして泣いているのか?」


 ジョーは困惑した声でそう言うと、カウンターの向こうからクリネックスの箱をぬっと差し出した。


「泣けちゃうわよ。せっかく見つけた彼なのに」


 クリネックスで鼻をチンとかみながら、さくらは頭の片隅で少し後ろめたくはある。何しろ芦田とまだ知り逢ってもいなかったわけだから、「彼」とはいささか誇張表現ではある。


 こちらの内なる声は聴こえなかったようで、ジョーはいつもより柔らかい声を出した。


「あのさ、その俊子って友達は、この前さくらに、恋人がいる男をマークして奪え、って教えた女なんだろう? だとしたらさくらの脇が甘かったんだよ。世の中には彼女みたいな厚かましい女がたくさんいるってこと、わかっただろう? いい勉強になったと思えよ」


 慰めようと試みてくれているらしいことはわかるが、さくらの胸の内は収まらない。


「そう簡単に言わないでよ。芦田さんはとても素敵な人だったの。もう二度と再び彼みたいに揃った結婚相手に巡り逢うことなんて、きっとないの。うちの会社には彼みたいに素敵な独身男はもう残っていないし、たぶん他の会社だってそうだわ。自分の会社の男さえ捕まえられなかったのだから、きっと私はこのまま一生結婚できないんだ」


 自分でも少し大袈裟だとは思ったが、言葉というのはいったん口に出すと真実味を帯びてくる。ジョーを相手に演説をぶっているうちに、取り逃がした魚は大きかった、というかなしみが切々と胸を締めつけ、その甘酸っぱい哀しみに酔いしれたくなる。


「おい、先ずこれを食えよ」


 さくらの目の前に差し出されたのは冷やし中華らしき皿料理だった。トッピングされているのはしかし定番のハムやトマト、キュウリではなくて、裂いた牛のスジ肉や千切りにした昆布、大根などおでんでお馴染なじみの素材だ。


「何、これ?」とジョーの顔を見上げてさくらが尋ねると、「特性冷やし中華」と彼が自慢げに答えた。


 正直なところ無性にお腹が空いていたので箸で麺をつかんで食べはじめたところ、これがイケる。美味いだろう? と尋ねるジョーの声を無視してさくらは無言で食べ続け、空腹感が多少満たされてから皿から顔を上げて彼に応じた。


「うん、美味しい!」


「だろう?」


 さくらの賞賛に、ジョーは嬉しそうな表情を浮かべ、少し照れ臭そうに付け加えた。


「さくらが冷やし中華をやれって言うから、これでも研究したんだぜ。おでん屋が冷やし中華を出すとしたら、どういう味つけでどんな具をのせたら、おでんと一緒に食べてもらえるだろうか、ってね」


 さくらは自分の助言を取り入れたらしいジョーの案外素直な態度に満足する。


「だからさ、お前も研究しろよ。本気で婚活するんだったら、失敗から学べよ」


「この悲喜劇から、何を学べっていうわけ?」


 さくらが挑戦的に言い返すと、ジョーは待っていましたとばかりにうんちくを垂れた。


「一、行動あるのみ。狙いを定めたらすぐ確保しないと他の女に先を越される。二、友達を含め、全ての独身女性はライバルと心得る。三、夏の暑い日にはハンカチぐらいの小道具は常時携帯する」


「ちょっと待って。ハンカチぐらい持っていたわよ」


「じゃどうしてその俊子って子に先を越されたんだ? いいか、目当ての男にまた逢う口実を作るにはどうしたらいいか、逢う前にちゃんと考えておくのが戦略ってものだ」


 ジョーが言うことにも一理ある、とそれなりに納得しながら、さくらは皿に残っていた特製冷やし中華麺を一本も残さず食べ終えたのだった。



 月末に母校の大学の創立記念パーティーが赤坂にあるホテルの大宴会場で催された。お年寄りの先輩卒業生の挨拶が延々と続くその手の退屈な会合には以前だったらまったく関心がなかったのだが、さくらはいつもよりお洒落をして新しいハイヒールをはき、会社帰りにパーティーに出席することにした。


 それというのも買い集めたハウツー本に「婚活は先ず身近なところ、すなわち職場や同窓会で」と書いてあったからだ。職場や母校という共通の話題・経験が二人を近付かせる、とのことなので、同僚の芦田を俊子に取られてしまった今となっては、早急に母校人脈で誰か探したいところだ。


 中学や高校の同窓会でかつて憧れていた人に久し振りに出逢って、というメロドラマ的展開は、高校まで女子高だったとの確定的なハンディーを背負っている身には有り得ないが、大学を卒業してからでさえ既に七年が経っているので、昔冴えなかった同級生達が見違えるほどの男前になったということがひょっとしてあるかもしれない。


 さくらは春子の旦那の学生時代(Before)と披露宴(After)での顔を想い起こし、親しかったクラスメート達の面影を次々に瞼に想い浮かべ、淡い期待(白昼の妄想)に浸る。


 と、うかつにも馴れないピンヒールを引っ掛けてつんのめりかけた。その時、「大丈夫ですか?」という声と共に背後から誰かが腕をしっかり掴んで支えてくれたのだ。


「すみません」と感謝しながら振り向いたさくらの眼の前に、その男がいた。


 目許が涼しげで中肉中背、さくらと同年代ぐらいの歳恰好のイケメンだ。


 行動あるのみ、とさとしてくれたジョーの声が鼓膜で響き、さくらは慌てて微笑を浮かべると彼に尋ねた。


「実は大学の創立記念パーティーの会場を探しているんですけれど、このホテルって広いから迷っちゃったみたいで」


 すると男は自分も同窓生で記念パーティーへ向かうところだと言う。思わず「ラッキー!」と胸の内で歓声を上げてさくらは彼の後に続いた。


 年次を尋ねたところ、彼はさくらより二年先輩だった。竹内という名のその先輩はテニスの同好会に所属していたそうで、日焼けした顔に愛嬌ある健康的な笑みをたたえた。


「キャンパスのどこかでお目にかかっていたかもしれませんね」


 さくらは並んで歩いている彼に微笑を返しながら舞い上がりたいような心境だ。同窓会のパーティー会場に足を踏み入れる以前に、なんと早くも素敵な先輩に出逢ってしまったのだから、これを「縁」と呼ばずに何と呼ぼう。


 一流ではないにせよ一応有名な私学である母校はマンモス校で、創立記念パーティーは芸能人の結婚披露宴にでも使えそうな巨大な宴会場で開かれていた。既に大勢の同窓生達が集っており、人声が高い天井に残響し会場は華やかなどよめきに包まれている。


 顔を近づけないと話声が聞き取れないような賑やかさで、「何か飲もう」と竹内に親密に耳許で囁かれ、さくらは胸をときめかせながら彼の後に続いて人々の間をかいくぐり、飲み物があるコーナーへと向かった。他人の眼には自分達はお似合いの同窓生カップルに見えるに違いない、と確信し、意味もなく誇らしい気持ちに襲われる。


 赤ワインのグラスを受け取り、さてこれからどこか静かな一角で竹内と二人切りで話でもしたいと思っていたところ、会場にマイクのキーンという機械音が響いた。


 音のする方向を見ると、どうやら中央の壇上で胸に白い花をつけた学長らしき人のスピーチが始まるらしい。人々はそちらへと移動し始めており、気づくと人混みの中で竹内の姿を見失っていたのだった。平日の晩なので男達は似たような背広を着ており、後ろ姿だけでは誰が誰だか全く分別できない。


 肩に手が置かれたのでびくりとして振り返ると、そこにいたのは必修科目の英語のクラスで一緒だった安西だった。


「寺内さん、久し振りだな」


 落ち着いた声は昔のまま、しかし雰囲気が違うのは彼の頭が薄くなっていたからだ。まだ三十前の今から薄くなりはじめたら、きっと中年になる頃には禿げ上がっているに違いない。


 どことなく柔らかい物腰の安西はそれなりにダンディーでクラスの女の子達の間では人気があったと記憶している。これまでクラスの同期会というものはサボり続けだったので、安西に逢うのは卒業以来だった。


「本当に久し振り。安西君、最近どうしてた?」


 メーカーに勤めた彼は福岡赴任を終えて昨年東京へ戻って来たという。安西の近況報告に耳を傾けながら、薄い頭のせいか五歳以上は老けて見える彼の顔を眺める。


 ハゲ、だとしてもイイ男ではないだろうか、とさくらは胸に問う。チビでデブ、ということではない。9センチのハイヒールをはいた自分と同じぐらいの背丈だし、ワイシャツのお腹のあたりが多少膨らみはじめているにせよまだ中年腹というほどではない。


「それにしても、寺内さんは変わっていないね。学生時代そのままだ」


 二十代を終えようとする、若さをうしないつつあることを怖れる女にとって、昔の同級生の賞賛ほど心強いものはない。思わず顔がほころび、びるような笑みが浮かんだ。


「ほら、憶えている?」


 さくらが思い出話に花を咲かせようとした矢先に、しかし二人の間に割り込んできた女性がいた。


「さくら!」


 その見知らぬ(?)女性の顔をしばし眺めてから、それが英語のクラスでやはり同窓だった斉藤美香であることに気づいたのだった。黒縁の眼鏡がトレードマークだった彼女の顔にはもうその眼鏡はない。


「レーザーよ。レーザーで近視を矯正したの」


 美香はそう言うと、いかにも親しげに安西の背広の袖をつかんだ。綺麗にネイルされたその左手の薬指には、なんとダイヤが煌めいているではないか。


「実は私達、婚約したの!」


 美香の言葉に安西は嬉しそうに目許を緩め、さくらは内心度肝どぎもを抜かれたが、狼狽ろうばいをひたすら隠して慌てて微笑をこしらえた。


「知らなかったわ。おめでとう! で、いつ婚約したの?」


 さくらの問いに二人が代わる代わる答えたところによると、どうやら安西と美香は昨年秋の同窓会で卒業以来久し振りに出逢って付き合い始め、この三月、大震災の直後に婚約を決めたらしい。


「ちょっと早過ぎるかな、とも思ったんだけれど、またいつ大きな地震が来るかわからないでしょう? だから、家族でいよう、って決めたの」


「それって地震がなかったら婚約しなかったみたいに聴こえるぜ」


 安西が軽口を叩き、二人はツガイの小鳥のように幸せそうに見つめ合っている。

家族でいよう、ってコマーシャルソングじゃあるまいし、とさくらは心の中で大きな溜息を洩らす。やはり、あの大震災のせいで地殻変動が起きているのだ。


 去年の秋に付き合い始めたということは半年で結婚を決めたということで、春子達のように八年間付き合ったカップルも、出逢って日が浅いカップルも、皆結婚に流れている!


 さくらは再び二人を祝福してからその場を離れ、先ほど見かけた竹内という先輩の姿を必死で広い会場に追い求めた。今この時に動かないと、リーチしておかないと、きっと彼も誰かに即刻取られてしまう、という強迫観念に襲われる。


 パーティー会場の天井から優美なシャンデリアがぶら下がり、グラスを手に歓談に興じている背広姿の男達の中に竹内の顔を探しながら、さくらは焦燥感にとらわれた。会に集っている同年代の女性同窓生達が気のせいか皆それなりに美しく見えるのだ。


 美香にしても英語の教科書と首っ引きの、それほど目立たない印象の薄い女子学生だったはずだ。それが、今風の女優髪ですごく綺麗になっていた。


 こちらに好感を持っていたはず(?)のハゲの安西まで刈り取られてしまったとなると、いったい独身の男達は残っているものだろうか。


 会場をほぼ横切ったあたりで、さくらはやっと竹内の姿を見つけた。年配の男性と話しているらしい彼にどう近づこうか思案していると、白いスーツを着た清楚な感じの女性がどこからか現われて親しそうに竹内の隣に並び立ち、共に初老の男性に会釈しているではないか。


 どうやら教授らしきその人物が立ち去ったので、さくらは意を決して竹内と、もしかしたらそのクラスメートらしき女性に近寄る。尻尾しっぽを巻いて退散してしまえば、安西と美香のように会で出逢った同窓の二人が意気投合して即刻婚約してしまう怖れさえあるのだから、ここで勇気を出さなくては。


 さくらが近づくと、竹内はあの魅惑的な笑みを浮かべた。


「そうだ、紹介しておきます。家内です」


(第3章に続く)





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