第1章 これぞ地殻変動期!

 夢にまで見た憧れの純白のウェディングドレス。


 ナチュラルにまとめた髪には上品で繊細なチュールのベール、そして勝ちほこったごとく燦然さんぜんと煌めくティアラ。


 英国皇太子の結婚式の話ではなく、わが友人春子が長いこと付き合っていた腐れ縁(?)の彼氏とついに結婚にゴールインしたのだ。


 寺内さくらは披露宴会場の雛壇ひなだんで可憐な微笑をたたえている花嫁に、歓喜と羨望と焦燥が入り混じった眼差まなざしを向け、手にしたグラスのシャンパンをあおった。このオメデタイ華美な祝宴で飲まずにいられようか。


 春子とは女子大の付属校で小学校から高校までずっと同級生だった。一応「お嬢様大学」という看板で、ハイソなレベルではないけれど、中流家庭の子女が集まった学校には意地の悪い子もおらず、思い起してみると居心地の良い学園生活だったものだ。


 しかし十二年間の長きに及ぶ女ばかりの花園での毎日にいささか辟易へきえきとしていたし、男子学生と一緒に勉強したい(遊びたい)ばかりにさくらは共学の大学へ進学し、春子は賢くもそのままエスカレーターで女子大へと進んだ。


 賢くも、と今になって当時の決断を振り返って思うのは、彼女が女子大時代に花婿となる彼氏に巡り逢ったからだ。


 一流とは言えない共学大学でイマイチ冴えない男子学生に囲まれていたさくらを尻目に、「お嬢様系の女子大は有名大学の男子学生からコンパとかよく誘いがかかるの」と春子は嬉しそうだった。そして彼女はその手の飲み会でエリート大学の学生と知り合った。


 さくら達はサーティーサムシング(昔風に言えば三十路みそじ)を目前に控えた二十九歳。春子が彼と付き合い始めたのは八年ぐらい前のはずだ。


 「長過ぎる春なんじゃない?」と優柔不断な彼氏のことを聞かされるたびに、心配するより冷やかしていたものだった。親友として春子の結婚に深く安堵し手放しで喜ぶべきだけれど、いざめでたくゴールインされてしまうと、正直言って複雑な心境だ。


「別に結婚なんかしなくても十分楽しいよね」「そう、そう」、と女子会で盛り上がっていた独身仲間がまた一人減る、ということだし、今年になって既に同級生二人が婚約に漕ぎ着け、何やら地殻変動が起きているようなのだ。


 まさかはるか彼方、英国皇太子の婚約・結婚が日本の大和撫子やまとなでしこを感化したとは考え難いので、ひょっとしてこれは二十代最後のあがきなのかな、と推察してみる。


 いや、春子は以前「ウィリアム皇太子だって大学時代のスイートハートと長いこと付き合って、まだ結婚していないじゃない」、とおそれ多くも英国王室を引き合いに出して彼氏の煮え切らない態度を自分に納得させていた。ロイヤル・ウェディングの影響はなきにしも有らず、かもしれない。


 天井には豪華絢爛ごうかけんらんに煌めくシャンデリア。テーブルには贅沢な白薔薇のブーケ。


 さくらは再びシャンパングラスに手を伸ばす。


 それにしても六本木にあるこの超高級ホテルはさくらが披露宴に使いたいと密かに望んでいたわけで、ここで一緒にお茶をした時に春子にもその夢を打ち明けたはずだ。彼氏がいないこちらには当面結婚の当てなどなく、捕らぬ狸の皮算用だったとしても、このホテルを先に使われてしまったのは面白くなかった。


 雛壇で幸せいっぱいの笑みを浮かべている春子は、公平に見て綺麗だ。披露宴にはメイクアップ・アーチストが付くとのことだったから、メイクのプロのお陰、かもしれないけれど、花嫁はナチュラルな初々しさと華やぎにあふれ、大袈裟でなく女優顔に見える。


「さくらはお化粧しなくても美人だから」なんて昔から春子におだてられ、自分でもちょっとした優越感を持っていたのだが、ウェディングドレスの可憐な春子の姿を見て、実は彼女の方が美形だったのでは、とさくらは内心不安になった。


 春子の彼氏とは前に紹介されて以来長いこと逢っていなかったのだけれど、これがまたイイ男になっていて我が眼を疑ったほどだ。


 確か彼らが付き合い始めて間もない頃、一度ダブルデートをした。「カップルプラス女友達の三人で出かけるって数が半端はんぱで不自然じゃない」と春子に眉をしかめられ、「それじゃあ」と単なるクラスメートに過ぎなかった男友達をわざわざ数合わせに調達し、四人で居酒屋へ飲みに行った憶えがある。


 素敵な人に出逢った、とそれまで春子に散々のろけを聞かされていたので興味津々で出向いたところ、大学のロゴが付いたTシャツを着て現われた彼氏は線が細い秀才タイプで、良く言えば物静か、悪く言えば面白くない男だった。


 春子が一人で喋り、彼氏はそんな彼女を嬉しそうに見遣っていた、という印象しかない。チュウ杯の酔いも手伝い、「有名大学の後光を除いたら結構ツマラナイ男じゃない」と胸の中で毒づき、見栄みばえだけはそれなりに悪くなかった連れの男友達に賞賛の微笑を向けたぐらい。


 無論、春子の前でそうはっきりと感想を述べたわけではないけれど、彼氏がそれほど好印象を与えなかったことに彼女も薄々気づいたらしく、結局それ以来疑似ダブルデートには誘われなくなり、彼氏とはすっかりご無沙汰していた。


 タイプじゃない、とタカをくくっていたところ、雛壇で春子と仲良く並んでいる新郎は、どうして悪くない男だ。いや、卒なく自信をのぞかせ鷹揚おうような笑みを浮かべ客席を見廻しているところなど、いかにもエリート会社の若手営業マンという雰囲気で、イケメンにさえ見えてくる。正直言って、この再発見はショックだった。


 どの男も背広を着るとそれなりにキチンとするので、イギリス紳士的なベスト付きの洒落た燕尾服を着ているせいだろうか、と憶測し、学生時代に垣間見た頃より恰幅かっぷくが良くなったからだろうか、と推察してみる。それとも、単にこちらには男を見る眼がなくて、春子にはあった、ということなのだろうか。


 新郎の友人による挨拶が始まりそちらに注目すると、新郎の同僚だという男がこれまたデキそうなタイプのイイ男だった。


「・・新郎の夏彦君と春子さんとは大学以来のお付き合いだそうで友人の僕らも二人が何時ゴールインするのか気をもんでいたところなのですが(笑)、この春、ついにプロポーズしOKしてもらったとの報告を受けました。それも、大震災でオフィスビルが揺らいでいる時に決意を固めすぐプロポーズなさったそうですから、さすが決断力と行動力に秀でている、と我々友人も彼にはんれたいと思っています・・」


 プロポーズの話は春子からも聞かされていた。付き合い始めてから八年間も煮え切らず求婚しなかったのは決断力に秀でているとは言えないと思うが、きっかけが何であれ八年間の付き合いの末についにプロポーズしたという事実は評価されるべきに違いない。結果がすべて、と言うではないか。


 春子によると、彼氏は大震災の折に先ず彼女の身を案じたそうで、その自覚がそれまで優柔不断だった男を結婚に踏み切らせたらしい。


「私がどうしているのか、心配してアパートまで駆けつけてくれたの」


 春子はプロポーズの決定的瞬間を想い出してでもいるのか、うっとりとした目つきで中空を眺めながら語ってくれた。


「素敵なレストランでプロポーズ、とか夢見ていたんだけれど、地震で倒れた棚の片付けを手伝ってくれて、近くのスーパーに懐中電灯やミネラルウォーターを一緒に買い出しに行って、うちで豆乳鍋をしながらのプロポーズ。一緒に暮らそう、って言ってくれたのよ」


「本当に良かったわね!」と彼女の両手を取らんばかりに喜ぶさくら。


 本当は、旧友の突然の婚約に大震災到来以上の大ショックを受けたのだが、そこは長い友情に義理を立て、おどろきを隠して精一杯祝福した。


 友人の結婚をうらやんでいるのだろう、とヘタな誤解をされる怖れがあるので弁明しておくと、そういうことではなく、大事な独身の女友達をついに彼氏に奪われることになるのがショックだったのだ。


 恋人がいるとしても女友達というのは律義りちぎだから、夕食だ、映画だ、と少なくとも週一ぐらいの頻度ひんどで逢っていたわけだ。


 それが結婚ということになると他の友人の場合を例にとっても、「旦那が帰って来る前に夕食を用意しなきゃ」とか「遅くなると心配されるからそろそろ帰らなきゃ」とか、圧倒的に連れ合いのプライオリティーが高まる。子供でも生まれたあかつきには、優先順位が完全に家庭なるものに傾くらしい。


 春子にプロポーズの話を聞かされた際には、突然の婚約で指輪はまだもらっていないとのことだった。八年間もだらだら付き合っていた二人の結婚はまだまだ前途多難かもしれない、といささか自分を慰めたのだが、東京でも余震が続いていたその翌週には彼女からティファニーのダイヤの指輪を見せつけられることになった。


 はたして春子達の場合が特別ということではないらしく、メディアによると地震という非常時を機に家族の大切さに想いを致した(?)恋人達が日本列島随所で結婚に走っているらしい。いわば「きずな結婚」とのこと。


 地震の際に誰にも「大丈夫か?」と心配してもらえず、周囲の男女が携帯電話で伴侶や恋人と緊急連絡を取り合っているのを眼にした恋人ナシ独身女性達が、結婚相談所に殺到(?)しているとの報道もあった。


 独身男性でなく独身女性ばかりがメディアにフォーカスされているというのは、どこかに仕掛け人でもいるのでは、と胡散臭うさんくさい感じもするが、どうやら大災害に見舞われた余波で結婚にシカリと狙いを定めた女性がいることは間違いないらしい。


 縁起でもないが「次の地震の前までには絶対結婚していたい」との決意を表明している人もおり、余震はとりあえず収まったものの、何やら眼に見えないところで地殻変動が継続しているようだ。


「別に不自由していないのだから結婚する必要はない」との独身者の居直り(!)や、「パートナー(意味不明な言葉だ)と敢えて結婚という形を取らない」と戸籍を入れない(入れてもらえない)人々が恰好いいと持てはやされた時代は、よもや昔となったのだろうか。


 日本人というのはラー油や塩麹に始まり、ちまた流行はやっていると聞くとつい自分も試してみたくなるノセられやすい民族なので、一夜明けて結婚が「トレンディー」ということにでもなれば、皆が一斉いっせいに結婚というゴールに向けて走り出しそうな気がする。


 クリスタルグラスに入った箸休めのシャンパングラニテ(かき氷)がうやうやしく銀のトレイにのせられて運ばれて来た。添えられた華奢きゃしゃな金のスプーンでそれをすくい口に入れたとたんに、あまりの冷たさに頭がキーンと強烈にしびれた。


 この前の大震災にはびくりともしなかったさくらは、その時急にアラームを聴いたのだ。


 それは「このままではいけない」という警鐘で、思えばあれが婚活狂騒曲の序章だった。



 白木のカウンターの向こうから湯気が上がり、美味しそうなおでんの匂いがただよって来る。五つほどのテーブル席とカウンターしかないこじんまりとしたおでん屋は、私鉄駅の北口、ラーメン屋やパチンコ屋、それにカラオケ屋などが並ぶ表通りを一本入った横町に昔からひっそりと暖簾のれんを構えている。


「さくらちゃん、私はこれで失礼するけれど、ゆっくりしていってね」


 店を取り仕切っているのは慶子おばさん。おばさんは駅から歩いて十五分ほどのところにある住宅街、正確に言えばさくらの家の二軒隣に住んでいる。安藤のおじさん、すなわち慶子おばさんの旦那さんはさくらが小学校二年の時に交通事故で亡くなり、母によるとおばさんはその際に受け取った保険金を元手にこのおでん屋を駅前に開いたそうだ。


「ゆっくりするなら、ちゃんと食べて金払っていけよ」


 割烹着を畳んで店を出る準備をしている慶子おばさんの隣で悪態あくたいをついたのはジョー、安藤丈でおばさんの一人息子だ。ジョーはさくらと同い年で有体ありていに言えば幼馴染おさななじみ、実のところは義兄弟に近い。


 というのは、お節介せっかい面倒見めんどうみの良い母は、おばさんが店に働きに出る間ジョーをうちで預かることを申し出て、そのお陰で二人はいつも一緒だったからだ。


 いや、こちらは私鉄でお嬢様学校へ通学し、あっちは近くの公立校へ歩いて通っていたから、いつも、という言葉にはニュアンスがある。


 さくらが学校から戻ると一足先に帰ったジョーが早くも母からおやつをもらっていたりして、面白くない面も多々あった。一人娘で、蝶よ花よ、とそれまで両親の愛を一心に受けていたところに、突然近所のガキがやって来てうちの子のような顔をし始めたのだから。


 おじさんが亡くなった頃のジョーはチビで泣き虫でよく慰めてあげたのに、あれよあれよと言う間に背が伸びて大きくなり、小学校五年生の頃には背丈を追い越されてしまった。生意気なジョーを見るたびにさくらは「フン!」と軽く鼻を鳴らす。こっちが二カ月お姉さんだということを肝に銘じて忘れないでいてもらいたいものだ。


「で、さくらはまた友達に先を越されたんだって?」


 そんな余計なことを安藤家の人達にお喋りしたのは母に違いない。


 カウンター席に座ったさくらは面白くなくて、素焼きの皿に形良く盛られた大根のおでんに箸を突き差す。


「また、とか、知ったようなこと、言わないでよね」


「だって、この前も友達がプロポーズされたとかで落ち込んでいたじゃないか」


 落ち込んでいた、というのは言いがかりだが、そういえば春子の婚約を聞きつけた日に、ショックのあまりここで日本酒を飲みながらつい彼にこぼした記憶がある。


「昔の(三か月前の)話じゃない。それに同じ友達の話なんだから、また、とか話に変な尾ヒレ、付けないでちょうだい。そういうのってダブル・カウンティング」


 ご馳走様、という声と共に最後の客が店を出たらしく、背後でガラス戸がきしむ音がした。


「ほら、メゲているやつに、これサービスしてやるよ」


 カウンターの向こうからジョーが出してくれたのはさくらの好物の昆布だ。厚い日高昆布を結んでじっくり煮てあり、小さい時からジョーに莫迦ばかにされているふわふわした柔らかい髪の毛も、これを食べ続けたならば艶々とした緑の黒髪になるのでは、と淡い期待を抱いて食している。


「ね、これって、ちょっとオカシイと思わない? 私は別に結婚したいなんて全然焦っていないんだけれど、春子まで結婚しちゃって、その相手っていうのが見ないうちにちょっとイイ男になっていたりして・・、正直言って、気になるのよね」


 サービスの昆布に気を良くして、手酌で飲んでいるビールの酔いも手伝い、さくらは彼にちらりと本心を垣間見せてあげる。


「一生独身でいたいってわけじゃないんだろう? それだったら急いだ方がいいぜ」


「なんで急ぐ必要なんてあるのよ。まだ華の二十代なんだし、最近は三十代の半分以上が独身だっていうじゃない。まだまだ平均以上だわ」


「でもいいのが最初に刈り取られるに決まっているだろう?」


 ジョーの断定的な口調に内心びくりとして、さくらはビールのグラスに口をつけながら、彼が言わんとするところを理解しようと試みる。


 イイ男とイイ女が最初に結婚して、それほどでもない男とそれほどでもない女が残る、とでも示唆しているのだろうか。


 ずいぶん失礼なヤツだ、と憤りながらグラスのビールを飲み干す。


「それは当たっていないわ。私の廻りだって美人はみんなまだ独身生活を謳歌していて、ソーソーの女達が結婚に走っているだけよ」


 頭の中で独身仲間の顔を想い浮かべながらそう言い切ったものの、春子の華麗な花嫁姿をちらりと思い起こしていささか自信がなかった。


「美男美女がいい、なんて誰が決めた? 男は経済力、そして包容力。女は明るくて優しい子がいいに決まっているだろう?」


 一応客であるさくらを前にカウンターの向こうでジョーは水道の蛇口をひねって水をジャージャーうるさく流し、皿を洗いながらうそぶいている。さくらは胸の内で「フン!」と言う。ガールフレンドもいないくせに、偉そうな口をく。


 男が経済力、というのならジョーなんて失格ではないだろうか。頭だけは良くて最高峰の(?)国立大の数学科を「優秀な成績で」(?)卒業したが、大学院に残りまだ助手か何かの身分で、理系の博士浪人が多い昨今、行く末も不安定で薄給らしい。


「丈君はできる子なんだからどこか安定した企業か銀行にでもお勤めして慶子さんを安心させてあげればいいのにねえ」と慶子おばさんに代って母がボヤいていた。


 包容力? そりゃあジョーみたいに唯我独尊ゆいがどくそん、言いたい放題のタイプではなく、こちらの話をにこにこ聞いてくれる人はありがたいけれど、でも仏様みたいな男に魅力は感じないものだ。


 やっぱり見た目もうるわしいそれなりのイケメンでなくちゃ、と決断を下し、頭の片隅で春子の結婚式に参列していた花婿の同僚や友人達をリストアップする。範を垂れたい、なんて祝辞で述べていたから彼らはまだ独身に違いない。


「イケメンが残っているうちは、全然心配しないわ」


 太い昆布を思い切り歯で噛み切ろうと格闘していると、ジョーは引き出しからナイフを出して手渡してくれた。


 包容力には欠如している男だけれど、小さい時からよく気はつく。ご飯の後などちゃんと「ご馳走様ちそうさま」が言え、食べ終えた皿と茶碗とお椀をきちんと重ねてキッチンに運び母にめられていた。


 居候いそうろう息子の彼に率先してそんなことをされると食べっ放しにしていたお嬢様のさくらとしては居心地が悪く、迷惑なパフォーマンスだったものだ。


「何をもってイケメンと考えるか、だろうな。見てくれだけ良くて稼ぎの悪いヤツが残る。女たらしで浮気性かもしれないし、綺麗な男はひょっとしてゲイかもしれないぞ」


 ジョーは人を脅かすようなことばかり並べ立てる。


 さくらが眉をしかめると、彼はますます得意になって続けた。


「あのな、統計によると未婚女性の40%が年収六百万円以上稼ぐ男性と結婚したいと思っているそうだ。で、未婚男性二十五歳から三十四歳のうち年収六百万以上の男が何%いると思う?」


 お得意の数字が登場した。理系の男はすぐ統計を振りかざすから厄介やっかいだ。


「20%しかいない、とかおどかしたいんでしょう?」


 さくらがジョーをにらんで答えると、彼はいかにも満足気に笑った。


「大きく的外れ。3.5%が正解だ」


「3.5%?」


「いいのが先に刈り取られる、ってさっき言っただろう? 女性が求める年収六百万以上稼ぐ男なんてとっくに結婚しちまっている、ってわけだ。」


 さくらはしばし黙り込む。暗算は苦手だが、仮に男女の数が同数とすると稼ぎの良い男を求める女性だけをとっても十人以上で一人の男を争う計算で、いや、男は稼ぎが良いに越したことはないから独身女性すべてをライバルと考えると・・


「ねえ、100割る3.5って幾つ?」


「29倍の競争だ」とそろばん教室に通っていたので暗算が得意なジョーが答えた。


 ビールをグラスに継ぎ足しながらさくらは暗い気分におちいらざるを得ない。


 その独身で残っている3.5%の年収六百万円以上の男達の中に、イケメンはどれくらいいるものだろうか。大マケして、平均以上、で線を引くとしても、ほぼ60倍の競争ということになるわけだ。周囲を見渡すと独身女性には美型が多いから、争いは更にシビアにならざるを得ない。


「な、現実は思ったよりキビシイだろう?」


 並べられた統計にショックを受けているさくらにジョーは更に畳みかけた。こういうところが女にモテない理由に違いない、とさくらは彼を見返す。


 傷つき手負った相手に更に攻撃を仕掛けるのはフェアでないし、第一、義兄弟としてこれまであれこれ面倒を見てあげたこちらに対して、多少は気をつかってくれてもいいはずだ。


「わかったわ、じゃ、そのキビシイ現実に挑戦してやろうじゃないの。私、年末までに絶対婚約してみせる!」


 生意気な口を訊くジョーにけしかけられ、ビールの酔いの勢いでさくらは宣言した。


 宣言したとたん、それが可能なことに思えてくるから不思議だ。「このさくらに出来ないはずがない」というまったく根拠のない確信で、前にも似たようなことがあった。


 高校時代に、このままエスカレーターで女子大に進むか、それとも敢えて受験勉強をして他の大学を受けるか、共学の学生生活に漠然ばくぜんと憧れていたので迷っていたところ、公立校で受験馴れしているジョーに「さくらには無理だ」とかオチョクられ、それで憤然ふんぜんとして受験勉強に取り組んだのだ。


 考えてみれば、ジョーの挑発の犠牲でこちらは今も独身で春子はエリートと結婚したとも言える。


 まあ、そこまで彼に責任を押し付けるのはよろしくないけれど、因果応報いんがおうほう、あの時女子大に留まっていればエリート大学の学生を恋人にして、今頃は稼ぎの良い(或いは稼ぎがよろしくなりそうな)男性を夫にできていたかもしれない。


 ビールの苦さに舌がしびれる。


「年末までねえ。あんまり無理しない方がいいぜ」


 ジョーは皿をきながらこちらにウィンクしてみせた。


 これで口の訊き方さえ心得ていれば、いや、黙ってさえいれば、わが弟(?)だって見栄えはそれほど悪くないのだ。それにしても頭に巻いた手拭てぬぐいの下から覗いているぼさぼさ髪は何とかして欲しい。もう学生じゃないんだから、ちゃんと髪にリンスぐらいして短く切り揃えるべきだ。


 ふと、前にテレビで観たメイクオーバーとかいう番組を思い起こす。イマイチ冴えない男の子にスタイリストが今風のウェアを選び、髪の毛もきちんとさせて(鼻毛も切って)、お洒落な男の子(?)に変身させるという番組だったと記憶している。


 春子の彼氏も学生時代にはまったくあか抜けなかったのに、結婚式では立派な花婿に変身していたではないか。


「あのさあ、春子の彼氏、とっても久し振りに見たら素敵になっていたんだけれど、それってイマイチの男でも歳を取ると良くなるってことかしら」


「誰だって磨けば光るさ」


 ジョーは布巾で皿をキュッキュッと音を立てて拭いた。


「そうかなあ」


 半信半疑のさくらに、彼が続けた。


「それと、誰と一緒にいるか、が問題だろうな。男を育てる女、っていうのがいるだろう?ま、こいつの為に頑張ろう、とか思えば、どの男だって光ってくるよ」


 そうだとすると、春子があの彼氏を見違えるほどの男に育てあげたということになるのだろうか。披露宴での彼女の満悦の微笑を思い起こして、それも有り得る、と考えざるを得ない。


 小学校で一緒にウサギ当番をしていた頃、こちらはウサギと遊んでばかりいたけれど、春子はキャベツの葉を手に「お手!」とか命令してウサギに芸当を教え込もうとしていた。「犬じゃないんだから」とさくらが笑うと、「ウサギにだって耳があるんだから(当たり前?)教えればわかるようになる」と彼女は言い張った。


 可哀想かわいそうなウサギは長い耳を寄せてピクリと鼻を動かしていたけれど、案外春子の言葉を理解していたのかもしれない。


 要するに聴く耳を持つ人を探せばいいわけね、とさくらは胸の内で納得する。たまに母に付き合って行く駅前のカラオケでオバサンたちがよく歌っている「あなた好みの女になりたい・・」というナツメロのメロディーが耳で響く。


 その逆で「あなた好みの男になりたい」と考えてくれるような柔軟な男性をゲットすればいいわけだ。歳を取るにつれ人間頭が固くなるそうだから、若い男性を探すに越したことはない。


 しっかり出来上がったイイ男はもうマーケットに数パーセントしか残っていないのだとしたら、一歩譲ってイイ男になりそうな人もターゲットに加えよう。そうすれば可能性のある男性のパイは広がり、非情な統計にチャレンジできるはずだ。


「おい、さくら、何考えているんだ? 一人笑いなんかして、薄気味悪いな」


 ジョーの声に我に返り、さくらはカウンターの中にいるジョーに戦略を説明した。


「・・だからね、ジョーもしっかり応援してよね。これって私の人生を左右する大計画なんだから」


彼はカウンターから身を乗り出すと、ちょっと怖い顔をした。


「あのさ、お前の計画、何か大事なものが抜けていると思わないか?」


 こちらのことを、お前、なんて呼びつけるのは彼が不機嫌な証拠だ。せっかく腰を低くして応援を頼んだというのに何を怒っているのだろう。


 さくらはビールのグラスを持ち上げながら彼にいどむ。


「何が抜けているっていうわけ?」


「愛だよ、愛!」


 飲んでいたビールを笑いで吹きこぼしそうになった。だって、まさか彼の口からそんな言葉が出て来るとは想像していなかったからだ。


「モチ、愛があって、というのが結婚の前提に決まっているじゃない。ただねえ、先ず婚活しないことには愛すべき人に巡り逢えないでしょう? 自宅と会社の往復みたいな生活をしていたんじゃ、イイ人に逢う機会はまったくゼロなんだから」


 さくらは親指でぜろマークを形作り、そのゼロの輪の中からジョーを覗き見た。


 彼は珍しく落ち込んだ顔をしていた。


「なんか、忘れているんじゃないか?」


「ちっとも。とにかく、応援するの、しないの? 応援してくれないならもう相談しないわよ」


「そりゃ、さくらの頼みとあれば、参謀を引き受けてやってもいいけれどね」


 指で作ったゼロの向こうで彼は不機嫌ふきげんに口をへの字に曲げながらも協力を約束した。


 そりゃそうよね、とさくらは彼の答えに満足して優しく微笑ほほえむ。こっちだってこうして律儀に彼の、いや、慶子おばさんの店に頻繁ひんぱんに顔を出しているんだから、お互い助け合わなくちゃ。それが義兄弟の相互扶助というものだ。



 話の勢いで無謀むぼうな(!)宣言をしてしまったものの、さて婚活、結婚活動なるものをどう始めたらいいのか、今まで真面目に考えてみたことがなかったので皆目かいもく見当がつかない。


 先ずは情報を集めなければとばかり、オフィス帰りのマンモス乗り換え駅でとりあえず駅地下の本屋に立ち寄ってみた。通勤客の多い駅だから、その手の本があるに違いない。


 狭い本屋の入り口、一番客の目に付きやすい場所に横積みされているのは、いかにして成功するかを伝授するハウツー本。「仕事がデキると言われる為に」とか「失敗しないダイエット」とか。しかし、こうしたら美人になれる、みたいなハウツー本はあるのに、こうしたら結婚できる、との本は見当たらない。


 美人になっても恋人ができず結婚できないのでは努力する意味がないではないか。日本中の独身女性が結婚に向けてスタートラインに並び、「用意、ドン!」で狂騒、いや、競走の火蓋ひぶたを切ったと思っていたのは、考え過ぎだったのだろうか。


 OLらしき女性が雨傘から水をしたたらせながらそばを通り過ぎ、店の奥へ進んで行った。会社を出る際に梅雨空は既に鈍色の雲におおわれていたが、雨が降り出したらしい。


 さらりとした長い黒髪が印象的なまさに「水も滴る美人」だったので、さくらもつい彼女の後を追って奥へと足を進める。前に誰かに聞いたのだけれど、美人になりたいのだったら綺麗な人と仲良くするのが一番手っ取り早いそうだ。


 どうやら美人には美人菌(バイ菌ではない!)というのがあるらしく、美しい人の廻りにいると自ずとそうでない人も菌に感染して(?)磨かれるとのこと。多少胡散臭い話ではあるけれど、前を歩いている楚々とした彼女がどんな本を手に取るのか興味はあった。


 はたして彼女が立ち止まった奥の本棚には占いの本が並んでいた。古いところでは血液型占いから動物占い、手相に姓名判断、ホロスコープ、星座占い、タロット占いの本。そして美人の彼女がデコラな(クリスタル付き!)ネイルの指を伸ばしてつかんだのは、ずばり恋占いの本だった。


 やっぱり、と黒髪に半ば隠れた女性の整った横顔を盗み見ながらさくらは納得する。


 まさしく日本中の美しく賢い女性(!)が恋を求めて奔走を始めたのだ、と勝手に解釈し、いち早くその事実に気づいて始動(の計画を開始)したのだから波に乗り遅れてはいないことに安堵した。


 彼女を真似てさくらも同じ棚から恋占いの本を手に取る。店の本棚にはよくこれだけ集めたと感心するぐらい恋占い関連本が並んでいるのだ。


 それらしくピンク色の地に赤いハートのイラストが付いたカバーの本を捲ると、相手の気持ち占い、告白時期占い、結婚年齢占い、というような章が目次に並んでいる。


「ちょっと待って」とさくらは内心焦る。先ずは相手を探してからでないと、愛している、愛していない・・、とデイジーの花びらで占いを始めるわけにはいかないのだ。


 隣で立ち読みしていた黒髪の君は本をパタンと閉じると棚に戻し、微笑を浮かべて立ち去った。さくらは彼女の後ろ姿を見送りながら、やはり出遅れているらしいことを悟る。美人の彼女にはきっともう彼氏がいて、何時プロポーズしてくれるのか占いに来ただけのように思えた。


 さくらは電車に揺られながら窓ガラスを激しく打ちつける雨を見るともなしに見る。


「それって彼氏、優柔不断を優しさと勘違いしているんじゃないの?」


 前にさくらが春子に吐いたセリフだ。


 当時彼女は煮え切らない彼氏と別れようかと真剣な顔つきで語っており、さくらとしてはその後押しをしてあげようというぐらいの気持ちだった。


 春子自身が昔からノンビリ屋でそれこそ優柔不断を絵に描いたような性格なので、お似合いな二人ではないかと思っていたのだけれど、同じ話を聞かされるこちらとしてはもどかしくもあったのだ。


「でも占いによると、彼こそが私の結婚相手だ、って出ているの」


 春子は自分でも自信がないらしく小さな声で弁明した。


「それだったら春子からプロポーズすればいいじゃない」


「そういうわけにはいかないわよ。これってやっぱり男の役割でしょ?」


「男とか女とか、そういうのって古いと思うけれど」


「私はさくらと違うの。さくらみたいに、男なんて、って言い切れないわけ。プロポーズって大事なんだから、やっぱり彼に主導権を取って欲しいのよ。それに子供ができた時に、実はママがパパにプロポーズしたのよ、なんて白状したくないじゃない。そういうのって子供の手前、恰好悪いし」


 別れる、別れない、と愚痴っていた春子がまだ生まれてもいない子供を引き合いに出して抗弁したことに感心したものだ。あの時、春子はきっと結婚するんだろうな、と漠然と確信してはいた。


 どの恋占いが春子の心のバックボーンになっているのか訊きそこねてしまったけれど、彼女には曲がりくねった道の向こうに結婚という明るい到達点が薄々ながらも見えていたらしかった。


 雨降って地固まる。さくらは電車の窓ガラスに向かって胸の内でつぶやく。


 駅の改札口を出ると、雨はまだ大降りだった。携帯傘はバッグに忍ばせてあるが、先月のお給料で大枚をはたいて買ったヌーディーな革サンダルを濡らすのが惜しく、しばらく雨宿りをして行こうかと思いを巡らす。


 どうやらこの梅雨の時期に傘を持っていない人もいるらしく、駅の軒下にはビジネスマンらしき背広姿の男達が並び、黙々と携帯を見たりスポーツ紙を読んだりしている。若い男達もいるが、どの男も覇気はきがなく今一つ冴えない顔立ちだ。


 そりゃそうでしょう、とさくらは胸の中で独り言つ。


 デキる男だったら、一、朝方天気予報ぐらい見て賢く傘を持って出勤したはず。二、まだ会社で忙しく残業している時間だ。三、彼女と夕食デートの真っ最中で帰宅の途になど付いていない。四、男だったらこれぐらいの雨の中、濡れることなど躊躇ちゅうちょせずダッシュしているはず。


 雨宿り中の通勤客から眼をらして、さくらは雨に煙る駅前のロータリーをぼんやりと見つめた。狭い駅前中央広場には街路樹が植えられ、木のベンチが二つほど置かれている。


 あの街路樹がまだ苗木で添え木に支えられていた頃、この街にはいかにも新興住宅地らしい初々しい明るさがあふれていたような気がする。駅前のビルは真っ白くて一階には洒落た花屋が入っていた。


 それが今では白い壁は雨風に打たれて薄墨色に汚れており、ファーストフードチェーンの派手な看板ばかりが眼につく。


 ふと、知らぬ間に自分もこの街と一緒に歳老いたような不安に襲われた。


 この街に新居を構えた昔の若夫婦は今では両親と同じような歳になっているはずで、通学途上毎日見上げていた青い空に映えるモダンな白亜の建物は、ありきたりの薄汚れた街ビルになってしまった。


 そしてランドセルを背負っていた可愛い(!)チビだった自分は、あれよあれよという間に時を経てもう二十九歳、来年は三十路だ。


 この街に留まっていてはいけない、という思いが強くなる。生まれ育った街にこのままいたら素敵な誰かになど巡り逢うはずはなく、気づいたら誰も振り向いてくれない中年の独身女になっていた、という事態に陥りかねない。


 さくらは深い溜息をつくと雨の中へと勢い良くダッシュした。


(第二章に続く)


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