第21話
彼女はまっすぐに顔を上げた。黒い瞳が輝いて頬がほんのりと上気している。わたしに顔を向けているけれど、わたしの姿はその目には映っていないようだ。ユラユラと白いものが不気味に揺れ動いている
「それは特別な鍵なんでしょう?」
とくべつ。彼女はずっとその言葉を口にしている。
「どうかしら」
「確かに、少し思い出してきたかもしれない」
ゆっくりと彼女の瞳を覗き込む。先ほどまでよりもだいぶくつろいでいる彼女は笑顔で私の顔を見返した。ゆっくりとわたし方にのりだし、わたしの手を握る。じんわりと彼女の手に力がこもる。少し痛い。手を引こうとしたけれど彼女の力の方が強かった。黒い瞳に映る白い幽鬼のようなものがゆっくりと彼女の瞳の中で像を結び出す。
「わたしが全部やったのよね」
そっか、わたしは探偵じゃなくて犯人だったのね、とつぶやく彼女は楽しげにも見えた。
「つまり、あなたは私の逃亡に手を貸してくれるっていうことでしょ?」
彼女の中の時が動き出した。ここではないどこかへ出ていくことを考えようとしている。森の向こうに向かって。
「そうとも言えるわね。でも、少し待って」
わたしは彼女の身につけているショールにつけられたレースに目をやった。レース編みの少女ががレースを編んでいる姿が好きだった。あの娘は本当に人をよく見ていた。
「もう少しだけあなたに伝える話があるの。方羽根の天使は何になるか知っている?」
「片羽根?」
「そうよ」
「どこにも行けない天使ね」
「そう。もう空に戻ることはできない。つまり堕天使」
うなづいてから彼女は自分の意匠に目をやる。彼女のものは2枚の羽に手を伸ばそうとしいる少女の姿がかたち取られている。
「じゃあ、わたしのは?両羽根を失った天使は何になると思う?悪魔?」
わたしは首を振る。
「あなたの意匠は羽根を奪われたわけじゃないわ」
「じゃあ、授かっているところ?」
彼女は愛おしそうにそっとレースを撫でる。レースの中で一人の少女が一生懸命に手を伸ばしている。
「羽根に憧れている少女の姿よ」
彼女が顔をあげる。黒い瞳の中に青白い炎のようなものが揺らめいた。
「ただの人間よ」
彼女の瞳は驚いたように広がっていたけれど、「そう」と奇妙な音色でつぶやいた口元には笑みが浮かんでいた。
「そんなこと言っても、あなたのだって同じでしょ。堕天使は人間だもんね。それよりも、さあ、私を外に連れて行ってくれるんでしょ」
その瞳の中には不気味な白い顔でこちらを見返す私自身が浮かんでいた。黒い水晶の中に閉じ込められたわたしは彼女の瞬き一つで消えてしまうのだろう。
「わたしが話したことも嘘よ」
「嘘?」
彼女の口から吐き出された白い息がわたしを取り囲む。
「そう。あなたの家族を殺した青年はいなかった。これがほんとうの秘密よ」
「じゃあ、誰がやったっていうのよ」
彼女の声が高くなる。彼女は自身が吐き出した言葉から顔を背けるように椅子の背にもたれかかって眉をしかめた。
「誰も」
そんな事件は起きていない。
学園長に見せられた彼女に関する資料には客観的な過去と彼女自身の記憶の奇妙な推移が記されていた。
彼女の家族は本当に単純な事故で亡くなった。どちらが悪いということもない、ありきたりの交通事故だったようだ。そしてその車に同乗していた彼女だけは、相手側の運転手だった青年に助けられて死を免れた。
彼女は青年に家族を殺されたと病院でも警察でも主張した。わたしにも話してくれたあの話だ。家族の死によるショックがあったのだろう。青年側は彼女をもっと邪険に扱ったってよかった。殺人鬼だと言われたのだから。でも、彼らは心底彼女を哀れみ、彼女の静養に役立つようこの学園の費用を負担した。
彼女は悲劇に襲われたけど、過酷というほどの運命ではない。時間をかければいくらでも立ち直って歩き出すことができる。
彼女には秘密は何もない。
わたしたち少女が必死で守ろうとする秘密を彼女は微塵も持っていない。
「あなたの人生は平凡よ。羨ましい」
わたしが彼女にそう言うと彼女は真っ白な顔のまま一瞬歩き出そうとしたがそのまま椅子の背もたれにまた崩れるように座り込んだ。
そして静寂が訪れた。
風の音が止んで窓からさす月の光だけが静かに揺らめいていた。
彼女の瞳を覗き込みたくなくて顔を窓の外に向ける。的皪とした月が空に浮かんでいた。冴えたその光を浴びて彼女は白く輝いているようにも見えた。少ししてから、彼女がごめんと小さく呟いた。
「私が彼と仲良くなかったから妬いているのね?」
何を言われいるのかわからなかった。彼女は挑むような目でわたしを見ている。
「彼?」
「あの男の子。今日もあなたを待っているみたいだった」
わたしはもう一度ため息をついた。
「わたしはあなたのことを本当に羨ましいと思っているわ」
あの夏の始まりの日にこの学園に降り立った彼女は孤独なんて恐れていなかった。自分自身を騙すことができる強さを持っていた。この学園を囲む森を乗り越えるにはそれくらいの強さを持っていないと到底かなわない。自身の秘密を抱えたままでは風にさらわれ影にとらわれ決してそこから出ることはできない。
彼女が身を乗り出してわたしの手を力いっぱい握りしめる。
「彼のことを好きだから私を騙そうとしたのね」と、もう一度念を押すようにわたしを見つめると、「よかった」と言って彼女は破顔した。彼女の瞳の中にいる白い影は呆然とわたしを見ている。彼女に握り締められたわたしの手に彼女の爪が食い込む。
「やめてっ」
力いっぱい彼女の手を振り払う。
「ごめんなさい。私、でもせめて彼だけは守りたくて・・・。きっと今でも私のことをあの茂みで待ってるんだ。寒いだろうな」
急に心がざわついた。彼女とあの少年の間に特別な絆が生まれたように彼女が振舞うことが無性に腹立たしかった。 わたしが小道に立ち寄ると寒そうに頬を赤くしながら彼は嬉しそうにうなずいて、待っているから心配するなと言ってくれた。彼は今夜もわたしを待っているのだろうか。それとも彼女を?もう直ぐ明けようとする長い季節風の夜をただひたすらに。
「やめて。あなたは何もしていない。なんにもね」
「何も?」
彼女はわたしの言葉を反芻して、何がほんとうでほんとうでないのかを確かめようとしているようだった。もうこれ以上待てない。彼女がどんな結論を出すのかもう興味がなかった。好きな結論を勝手に導き出してほしい。ここは寒くてもうそんなに長い間いられない。ショールをきつく巻き直しても、寒さを防ぐことができない。鍵をおいてわたしは去ろう。あとは彼女が自分で決めることだ。
わたしがほとんど席を立とうとしたとき、
「一つだけ、嘘ついていないって約束して」
探偵の少女が大きな謎を解くのに必要な事実をはっきりさせるように言って顔をあげた。黒い綺麗な瞳にわたしが映る。怯えたような白い顔は本当にわたしのものだろうか。
「この銀の鍵は特別なものなんでしょう?」
どうして彼女はこんなにこだわるのだろう。そこにないものを信じ込める強さがそ彼女の魅力でもあるけれど、彼女の中だけで完結してもらいたい。もうこれ以上彼女の言葉を聞いていたくなかった。
「違うわ。ただの鍵よ。森を抜けて夜遊びするのに困らない程度のただのモノよ」
次の瞬間、めまいを感じるくらい塔が揺れ、窓の蝶番が外れた。恐ろしい勢いで突風が吹き込んでくる。風だけではなく濃密な森の気配も一緒になだれ込んできた。バタバタと風に弄ばれる窓は今にも壊れそうだ。
「今夜最後の風ね。悪いけど、あなたは特に何かが特別なわけじゃない」
長い夜が終わっていく。窓の向こうの森の影の中に、あの少年が立ちすくんでいるように見えた。なぜ急に彼女にこんな言い方をしたのかわたし自身ではわからなかった。彼女の性格を考えて、わたしはただ「特別」であると囁いてあげればよかったのに。でも、今だけは彼女が「特別」であると認めたくなかった。微笑む彼女の隣に快活に笑う少年の姿が見えた。それだけは何故か受け入れ難かった。
そう。
「そうね。わたしはそんなあなたがずっと羨ましかった」
彼女は動く気配がなかったので仕方なくわたしは立ち上がって窓を閉めようとした。外側に目一杯開かれた窓枠をなかなか捕まえることができず、はしたないとは思ったけれど窓の桟に足をかけて、右手で窓枠の上部を掴みながら左手を思いっきり外に伸ばした。窓を捕まえることに成功して、引き寄せた時に、もう一度大風が舞い込んできた。塔の中に舞い込んできた風はそのまま躍り狂うように外に駆け出す。捕まえた窓枠がふわりと風に絡め取られ、わたしは体が宙に浮きそうになるのを感じた。
多分、わたしはその風だけでも十分に空に吸い込まれただろう。
でも、同時に肩に柔らかくて暖かい彼女の手のひらが触れるのを感じた。小さな子供の頭を恐る恐る撫でるようにやさしく彼女の手がわたしの方をそっと押した。
外に体がふわりと浮かんだ瞬間。
片羽根では空を飛ぶことはできないなとまず思った。
そしてそのままゆっくりと自分の体が塔に沿って落ちていくのを感じた。窓から離れる時には彼女の呆然とした表情も見えた。わたしが空に吸い込まれると同時に彼女が何かを叫びながら窓から身を乗り出して手を伸ばしたのも見えた。月明かりに照らされた彼女はとても綺麗だった。
似たような光景をどこかで見たことがあると思った。
一年前のあの時。
彼女が車から降り立って、あの時はわたしがバルコニーから彼女のことを眺めていた。あの時の彼女にわたしは嫉妬した。森を乗り越えて平然としていた彼女の姿に。何かわからないけれど大きなものを乗り越え軽々と歩き出しているように見えた。それと同時に瞳の奥に刺さったままの小さな壊れかけた心のかけらがあるのもわかった。
わたしはただ羨ましかった。
壊れながらも自分の世界を作り出していく彼女が。壊れることも何かを守ることも腐り切ることもできずわたしはただ毎日を過ごしているだけだったから。わたしは何も持っていなかった。古びた塔の銀色の鍵だけがわたしが信じる唯一のものだった。 だから、勝手に夢想した。彼女がこの学園の森を軽々と乗り越えて外に歩いて出ていくことを。
窓から彼女が落ちそうなくらい身を乗り出しているのが見えた。まっすぐに手を伸ばしている。あの手はわたしに向かって差し出されているのだろうか。つかんでもいいのだろうか。
わたしは少年に今考えたのと同じようなことを婉曲に話したことがあることを思い出した。少女たちが羨ましいと言ったわたしに彼は、
「それって憧れってやつだよ」と教えてくれた。身近に憧れの存在がいるなんてすごい贅沢だ、と言ってわたしに笑いかけた。照れたような彼の笑いはなんだか見ていると心が落ち着いた。なんで彼のことを今思い出すのか不思議だ。むかし、グレースが「カエルの王子様」といって笑ったことを思い出した。少年はどうしてずっとわたしに会い続けてくれたのだろう。わたしはなぜ彼女を外に、彼の元に行かせたくなかったんだろうか。彼がこれからもずっとわたしを待っていたらどうしようと心配になった。会いに行くと約束したのに。彼はこんな恐ろしい夜に一人でずっと待ってくれているのだろうか。わたしは一つだけ神様にお願いすることにした。人生の最初で最後の祈りくらい聞き届けてくれるのではないだろうか。
「彼が今夜はわたしのことを待っていませんように」
祈りが通じたのかどうかわたしにはもうわからなかった。
季節風がやみ、冬の始まりの澄んだ朝が訪れた。
塔の下で見つかったその少女はとても美しかった。積もった木の葉に包まれて眠るおとぎ話の主人公のようだった。ほんのりと口元に浮かべられた笑みは何か崇高な願いが受け入れられた後のように安らかだった。
彼女が死んですぐに学園は閉ざされた。
美しい彼女は学園とともに永遠に少女のままだ。
たくさんの秘密とともに。
廃墟の森の少女たち ふじの @saikei17253
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