第19話

「あなたは嘘をついたのよ」

 そう続けても、彼女は何を言われたのかわからなかったようだ。教えを請うように小首を傾げた。うっすらと月の光が窓から差し込んで彼女を包むように照らし出し、さらりと揺れた長い髪が艶やかに煌めく。この世界の最後の呼気のように苦しげな風が最後の力を振り絞ってすべての雲を南へと連れ去ろうとしている。もう少しで季節が変わる。

「どうしたのよ。はなしたじゃない」

 困ったように彼女が首をかしげる。

「本当の話を聞きたいの」

 彼女の目を覗き込みながらわたしは繰り返す。

 ほんとうの、とわたしの言葉を繰り返すように彼女は言ってわたしの目をぼんやりと見返している。黒い瞳の中でゆらゆらと花が咲くように光が揺れ動く。

「ごめん。何のことだかわからない」

「そう」

 わたしがそう呟くと彼女は安心したように微笑んだ。

 彼女の言葉で聞きたかったけどそれは諦めることにした。

 彼女が話さないのならわたしが代わりに「ほんとうのこと」を話してあげよう。銀の鍵と引き換えにわたしが手に入れたかった物語だ。

「グレースのことを覚えている?」

「もちろん。素敵な先生だったな。短い時間しか教われなかったのが残念」

 彼女はすっかりとくつろいでゆっくりとお茶を啜る。彼女の「残念」というコトバの残響がすっかりと消えてからわたしは続けた。

「どうして彼女はここをさる必要があったのかしら?」

「どうしてって・・・彼女の旦那様が、」

 彼女は言い淀む。

「本当にあった出来事なのかしら?」

「え?」

 彼女が大きく目を開く。何を言っているのだと、わたしの記憶を笑うように微笑んだ。

「あなただって良く知っているじゃない。私たちが捕まえたようなものよ」

「あの日、あなたは何をしたの?探偵さん」

 探偵さん。そう呼びかけるとわたしの耳元からふわりと甘い香りが漂うような気がした。「彼女」の言葉を借りてわたしはしゃべることにした。

「ねぇ、やっぱりおかしいわよ。どうし」

「あの日、男の人が柵を乗り越えて学園に入るのを見たわ」

 パリン、と硬い音がした。風とともに飛んできた何かが窓にあたったようだ。砕け散ったのはどちらの方だろうか。彼女は何かを探すようにほんの少し窓の外を見てから困ったように眉をひそめた。

「犯人をみていたのなら教えて欲しかったな」

「あなたが一緒だった」

 轟々と風が唸りを高めていく。塔を囲む樹々がばさばさと枝葉を揺らし塔を森に押し流そうとする。彼女が何かを言おうとして口を開いたが、あまりに小さなその声は風に飲み込まれていった。

「わたしがあの小道にいたのは別に偶然ではないわ。あなたとあそこに行ってからは毎夜訪ねていたから」

 わたしはずっと彼女のことを待っていた。森を恐れる気配がない彼女はここを出て行こうとするのではないかとわたしは期待していた。少年もずっと彼女が来るのを待っていたに違いない。青い闇に沈んだ中にポツンと少年の白い顔が樹々の間から覗いでいた。わたしの姿を見ると、彼はいつも躊躇いがちに仕方なさそうに話しかけてきた。一言二言。そして徐々に長い話をするようになっていった。

 あの夜、わたしは彼女が楽しそうにグレースの旦那さんを学園に招き入れるのを見ていた。わたしと少年のすぐ脇を探偵の少女は朗らかに駆け抜けていった。こちらに気づくことがなかった彼女を黙って見送った少年の白い横顔が闇の中に透けていくように思えた。

「あなたが何をしようと思っていたのかはわからない。でも、きっかけを作ったのはあなたでしょ」

「違う!わたしはただ、グレースのために。部屋を間違えたのはあの人よ」

 思った以上にはっきりと強い口調で彼女が反論した。

 まっすぐな黒い美しい瞳はガラス細工のようにきらきらと輝いていた。

「そう。ならいいわ」

 わたしはただ彼女と話を続けたいだけだ。事実にはそれほど興味はないし、真実は人の数だけ秘められているのだから追いかけても無駄なことだ。ただ、彼女の口から彼女の「本当の話」を聞きたいだけだ。

「本当よ。私は本当に何も知らなかった」

「えぇ、わかっているわ。安心して、誰にも言わない」

「秘密にしてくれるの」

 わたしがうなづくと、探偵の少女は拍子抜けしたように肩の力を抜いた。

「なんだか何の話をしていたのかわからなくなってきたね」

 そして大きく背伸びをすると、

「あー、でもあの柵は登ろうと思えば簡単に越えられるのよね。今頃、あの娘は家族と浜辺でも歩いているのかしら」

 と、壁に貼られたポストカードに目をやる。砂糖菓子の少女がいなくなった翌日にここにおかれていたものだ。

「この風の中で目を閉じてみたら・・・海辺にいるような気分になれなくもないわね」彼女がそう言いながら目を閉じる。

「海はこんなにすごい音がするの?」

「そうよ。場所によってはもっと凄いかもしれない。それが間断なく聞こえてくるんだから。いつか彼女のところに遊びにいきたいよね」

 目をつむったまま探偵の少女は微笑んだ。普段よりもすこしあどけなくみえた。

 生死の意味をまだ知らない小さな子供のようにみえた。

「いつかは行けるのかもしれないわね」

「きっと今頃は少し日に焼けたかな」

「えぇ。きっと」

 あの夜から、砂糖菓子の少女のいる森はほんの少しだけ近しいものになった。砂糖菓子の少女を懐かしそうに思い出す探偵の少女は結局何も知らないままだ。

「アップルパイなんかを今も毎日食べているのかな」

「彼女は食べないわよ」

「甘いものがあんなに好きだったのに?」

 わたしはまじまじと彼女を見つめた。長い黒髪を揺らして、「どうしたの?」と彼女がわたしに問いかける。何も知らない彼女が、彼女の想像の及ぶ範囲で思いをはせることは構わない。でも、無責任でいることは許されない。

 あの夜。

 砂糖菓子の少女は、探偵の少女が言った「外のやり方」があることに気づいて、ここを出て行った。みっちりと濃い暗闇の中で砂糖菓子の少女はわたしを振り向いて微笑んだ。わたしは何も言わずに銀の鍵を差し出し、彼女はそれを使って扉を開けた。キィ、とかすかな軋みとともに扉は開き、一歩踏み出した彼女の足元から強い土の匂いが漂ってきた。砂糖菓子の少女は銀の鍵をわたしに返すと、ポケットから取り出したチョコレートを1つわたしに放り投げた。そして微笑んでから歩き出した。サクサクと、静かな足音が夜が明ける直前のもっとも暗い森の中に吸い込まれて行った。サクサクと、小さな音が止まり、トスんと何かが倒れるような音が聞こえてからわたしはゆっくりと扉を閉じた。 

 

 森から鳴き声のような風の音が響いてきた。探偵の少女は肩にかけているショールを少し強めに巻き直して、不安そうに窓の外を見た。

「少し怖いくらいね」

「あの娘が泣いているのかもしれないわね」

「え?」

 砂糖菓子の少女だけではない。ここにいたたくさんの少女たちは魔女となって森に向かった。きっと、わたしの母も含まれているのだろう。いつかわたしも森に吸い込まれていくだろう。森はわたしたちの秘密を全て覆い隠す。静かで安らぐことができる魅惑的な森は手を広げていつだってわたしたちを待っている。だからこそわたしたちは森を恐れなくてはならない。

 いつかその時が来るまでは恐れ続けなくてはならない。母も砂糖菓子の少女も、魔女となった多くの少女たちも森の誘惑に勝てなかった。

 森を恐れる少女たちはひそひそと秘密を語り続ける。秘密がなくなってしまったら、もう少女ではいられなくなってしまう。少女でなくなることを恐れる少女たちはこの学園に永遠にとどまることを願う。秘密をなくすことを恐れたレース編みの少女のように。

「ショールにつけているのね。そのレースの飾り」

 わたしが探偵の少女が身につけているショールの留め金をさすと、彼女は嬉しそうに目を細めた。

「そうよ。ここにきてすぐにあの娘がくれたものよ」

 彼女は何も知らない。

 でも、本当の話をするためにはやはり無知のままではいられないのかもしれない。

「ねぇ、あの娘がどうして泉に行ったのか知っている?」

 彼女は微笑んだ顔をわずかにこわばらせてこたえた。

「知らないわ」

「あなたのせいよ」

 高い風の音が夜空に長く響いて消えていった。

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