第17話

「生まれたって・・・。この学園で?」

探偵の少女が目を大きく開く。

「いいえ」

わたしの声にかぶるように森から強い風が吹いて塔の窓を揺らす。微かに塔が揺れる。目を閉じると生きものの体内にいるような不安定な気分になる。

「ここよ」そう言ってわたしは天井部のステンドグラスを中心にゆっくりと視線を動かした。時が積もって古びた壁がわたしたちを囲んでいる。

 わたしの視線を追って彼女も周囲を見渡す。

「ここ?」

信じられないように彼女がもう一度問いかける。わたしは大きくうなづくと、

「ええ、ここよ。この塔の、そうね、ちょうどその辺りだと思う。わたしが生まれたのは」

 わたしが指し示した塔の隅をじっと見つめると彼女は「そう」と呟いて、少し肌寒そうに肩をさすった。窓の外は世界を全て作り変えようとしているかのような風がますます強くなってきていた。

「わたしはここで母と暮らしていたの」

 薄青い闇の奥に母の白い顔をがぼんやりと浮かんだ気がした。

 わたしが5つか6つ、それくらいの頃まではここで「母」と呼ぶ人と一緒に暮らしていた。ここでわたしが生まれたということはその母から聞いた。毎日毎日、彼女はわたしが生まれた時のことをなんども繰り返し教えてくれた。美しい人だった。と、思うがよくは覚えていない。母は気ままにわたしが生まれた日のことを語り、気ままに窓の外を眺め、そうして1日が終わっていった。叱られたり褒められたりした記憶は一つもない。彼女の孤独を紛らわす人形のようなものだったのだろう。ただ、不幸であったのかというとそうでもなかった。わたしたちの小さな世界はぎりぎり調和を保っていた。

「訪ねてくる人はいなかったの?」探偵の少女が恐る恐る口を挟む。

 泉のほとりで別れを告げた彼の後ろ姿をぼんやりと思い出す。あの人はわたしが母以外に言葉を交わした初めての人だった。

 母のための世話係として、1日1回女性が食事や母に頼まれたものを塔に運んできた。しかし、彼女はわたしをそこにいてはならないものとして扱った。そう。食堂や管理棟の職員たちがわたしたちを見るのと同じ。人形のような母を遠巻きに見つめ、常に一人分の食事を用意し、一言も言葉を漏らすことなく立ち去った。そして、訪ねてこなくなった。彼女が自分から言い出したのかただ配置が変わったのかはわからないけれど。代わりに訪れるようになったのが彼だった。 

 変わった人だった。

 初めて会ったとき彼がひどく困惑した顔をしていたのを覚えている。当然だろう。わたしは髪をとかすことも知らない小さな子供で、満足に口を聞くこともできなかったのだから。発育が遅れているというよりも何かしら知能に問題があると思ったのだろう。「おはようございます」と笑って彼が塔に現れるとき、母はふわりと微笑んでうなづいた。彼はまっすぐにわたしを見て、常にわたしにも話かけた。空の青さ、空気の冷たさ、森の木々の様子。様々なことを毎日少しづつ教えてくれた。

 春を初めて見せてくれたのも彼だった。

「ほら、もう春が来たよ」

「はる?」

「そう。いろんなものが起き出す特別な季節だよ」

 そう言って、彼は塔の入り口を大きく開いて見せた。開かれた扉の向こうから様々な色彩が飛び込んできた。鼻腔をくすぐる空気の甘さにも驚いた。あまりことにうまく呼吸ができないと思った。慌てて母の元に逃げたわたしを彼が笑って見ていた。

 わたしは彼が訪ねてくる音が聞こえると階段の中ほどまで駆け下りて待つようになっていた。彼が扉を開けて外の光がうっすらと差し込む瞬間がとても好きだった。彼がいない時にたった一度だけ扉を開けてみようとしたことがある。びくりとも動かなかった。外に出ようとしたわけではなかったが、彼がいないとわたしだけでは光を見ることができないのは悲しかった。

 ある日、なぜ彼にだけ扉を開けることができるのかたずねてみた。彼は明らかに困った顔をした。母とわたしは塔に閉じ込められていたようなものだったのだから。それでも、彼はわたしに教えてくれた。

  秘密だよ、と言って彼が銀の鍵を取り出した時、その鍵のあまりの美しさに目を奪われた。ゆっくりと壊れゆくような塔と鍵はこの世界で一番美しいものに違いないと思った。

 わたしがそんな風に彼に馴染んでいくのにしたがって、母も彼に微笑み返す時間が長くなっていった。だんだんと声をあげて軽やかな笑い声を立てるようになっていった。彼も少しずつ塔にいる時間が長くなっていった。ある日彼女は彼に手紙を渡した。彼は不思議そうな顔で受け取ってうなづいた。

 そして、

「今日みたいに秋の終わりの日だったわ」

 私の声を遮るように、びょぅびょうと森の方から唸るような風の声が聞こえてきた。森に閉じ込められた人々からちぎれた何かが風となって届いてくるように思えて、やはりこの音は好きになれない。

「母はいなくなったの」

「あなたをおいて?」探偵の少女がかすれた声で尋ねる。

「ええ」

「突然?」

「そうよ」

 と、彼女の問いに答えると、彼女の目がこぼれ落ちそうなくらいに大きくなる。最後の日の夕暮れ、母はわたしを抱き上げてこの窓から外を見せてくれた。わたしが初めて見た塔からの眺めだった。森の向こうに広がる外の世界のことを母に訪ねた時、母は微笑んでこう尋ねた。「行ってみたい?」美しい夕日に目を奪われていたわたしは大きくうなづいた。母は黙ってわたしの頭を撫でてくれた。ひんやりと冷たい細い手だったが優しい香りがした。ほんのりと香る母の香りをまだ微かに覚えている。

 翌朝目がさめるとわたしはたった1人になっていた。

 いつも通りの時間に彼が訪ねて来たとき、彼はすぐに事態を察した。彼が踵を返して階段を駆け下りていくのをわたしは泣きもせずただ眺めていた。ほんの少しだけ不安はあった。彼は美しい母に会いに来ていただけでわたしには興味がないかもしれない。もう2度と戻ってはこないのかもしれないと。遠ざかっていく靴音をじっと聞いていた。転がるように響いていたその音は突然止まると今度はゆっくりと近づいてきた。彼が戻ってきた。

「一緒に行こう」

 そう差し出された手をわたしは握った。母の手と違ってとても暖かく大きかった。そして、彼と一緒に生まれて初めて塔を出たわたしはとにかくこの学園の大きさに驚いた。人も物も時間もすべてがただただのっぺりと広がって見えた。今ではすっかり慣れてきたけれど。

「もしかしてあなたそれから一歩もこの学園を出たことがないの?」

「そうよ」

 カタカタと窓が揺れる。何かがここに入り込もうとしているようだった。

「・・・それから?」

 探偵の少女は何かを尋ねようとほんの少し逡巡したようだったが、わたしに先を促した。

 今と全く変わらない手続きをとって管理棟に連れて行かれたわたしは学園長と会うことになった。職員たちは彼には愛想よく挨拶をするがわたしのことは見えていないようだった。やはり母以外にわたしのことを見ることができる彼は特別なのだと思った。彼が事の顛末を話し終え、わたしの肩を支えてそっと学園長の前に立たせた。彼女にもわたしのことは見えていないようだった。

「ところで、あの娘は塔に何か残していかなかったかしら」

 この人の言う「残されたもの」の中にわたしは入っていないのだろうか。わたしの肩に置かれた彼の手にほんの少し力が加わった。彼はこれを預かっていますと母の書いた手紙を差し出した。学園長は嬉しそうに歯をむき出して笑うと、「早く見せなさい」とゴツゴツとした骨ばった手を伸ばして彼の手から手紙を奪った。目を落とすなり顔が青ざめ、急激に赤黒くなっていった。

「誰かにこの手紙を見せたりしてないわよね」

 そのとき、学園長ははっきりとわたしを見た。「誰か」というのはわたしのことだったのだろう。「ねぇ」もう一度彼に囁いた。「誰にも見せていないのよね」

 彼が息が詰まったような顔をしてわたしを見下ろした。肩に置かれた手にさらに力が入る。気にしないで。わたしはそう口を動かして伝えようとした。彼は少し泣きそうな顔になりながら微笑むと、ぽん、とわたしの頭を撫でて学園長に向き直った。

「彼女に見せました」

 憤怒。

 学園長はその白い手紙を握り潰すと彼に向かって投げつけた。彼はゆっくりとかがみこんでその手紙を拾うとわたしに手渡した。

「お母さんから君への贈り物だよ」

「出て行きなさい!!今すぐあなたは異動よ。首になんてしてやらない。後悔しなさい」

 そう言われることを予期していたように彼は驚くそぶりも見せずに黙って扉に向かって歩き出した。出て行く彼についていこうとすると彼女は猫なで声でわたしに話しかけた。

「あなたはいいのよ。あんな悪い人はもう2度を会えないようにするから安心なさい」

 わたしを覗き込む学園長の顔は奇妙に大きくて汗ばんでいた。

「悪い人じゃない」

「そう。じゃあ、数年間どこかにいってもらうわ」彼のことはすでにどうでも良さそうに言ってにんまりと微笑み直すと、

「銀の鍵はあなたが持っているのね」

わたしはうなづいた。

わたしが初めてついた嘘だった。

 学園長の目の奥に見たことのない嫌な感情がみえた。嫌悪。わたしがここにいることを心底嫌がる人がいるのだということがわかった。それでも、彼女は努めて冷静に話を進めようと試みていた。

「そう。では、あなたはここから自由に出て行くことができる権利を得たのよ。外に出てみたいわよね?」そう言って微笑んだ学園長の顔はほんの少しだけ、夕日の向こうに広がる世界を見てみたいかと訪ねた母の顔と似ていた。母はわたしに何を託したのだろうか。自由に外へ旅立つ権利なのだろうか。そもそもわたしは自由が何かもわからない。

 わたしが首をふると、学園長は本当に小さく「この泥棒」とつぶやくと、恐ろしいほどの笑顔を顔面に貼り付けてから、

「ではこの学園の生徒として歓迎します」と何千回も繰り返してきたのだろう言葉を口にした。「必要なものはできるだけ用意するように努めます。ただし」学園長は婉然と微笑んだ。「外に出ることだけはかないません」

 わたしはこの学園の少女の1人となった。


「母の手紙には大したことは書いていなかったわ。ただ、銀の鍵の所有者としてわたしの名前が書かれていただけ。それからわたしはずっとここにいるの」

 話していて思い出した。あの頃のわたしは確かに外への憧れのようなものを持っていた。学園長室を出た時にわたしは秋の日差しに輝く色とりどりの森を見た。冬が来る前に目一杯に伸ばした木々を空に伸ばし、鮮やかな葉が風に乗って舞っていた。美しかった。残酷な美しさだと思った。どんなに美しく感じても決して手を伸ばそうと思ってはいけないのだと知った。焦がれれば焦がれるほどここは小さく矮小な世界となっていく。1人で戻ったがらんどうの塔の中に、銀の鍵がぽつりと置いてあった。

 しばらくの間、探偵の少女は惚けたように何も言わなかった。お茶をいれなおそうとわたしが席をたつと、彼女は先ほどまで前のめりになっていた体を椅子にもたれさせて、深呼吸をするように息を吐いてからようやく口を開いた。

「ねぇ。その銀の鍵って・・・」

「そうよ。あなたも使っているこの塔の鍵よ」

「特別な鍵なのね?」

 探偵の少女が遠い海の彼方に思いを馳せるように問いかける。

「そうかもしれないわね」彼女がそう信じたいのであればそれでも構わないのかもしれない。

「あと、あなたを助けてくれた人は?もうここにはいないの?」

 ばん、と大きな音を立てた風が窓にぶつかりかすかに塔ごと揺れた気がした。古い窓枠が壊れるのではないかと心配になるくらいの音だったが彼女は気づいてもいないようだった。わたしはカップに残っていたお茶を一口飲むと、

「次はわたしの番ね?」

 と、彼女に確認した。

 一瞬、彼女は何のことかわからないようだった。

「交互に話をして質問するのよね?そろそろわたしの番じゃないかしら」

 すぐに私たちがゲームの途中であることを思い出したようだ。大きくうなづいて微笑んだ。「もちろん。何を聞きたいの?」

「あなたの弟のこと」

 彼女はゆっくりとまばたきをしてから少しうつむいた。長いまつげがゆらりと陰を落とす。

「いいよ。なんでも聞いて」

「どうしていなくなってしまったの?」

「・・・事件に巻き込まれて」

「どんな?」

「どんなって言われても」

「誰に殺されたの?」

 彼女の大きな黒い瞳に映るわたしの姿が見えた。それ以外、彼女の瞳の中には何も見えない。かつて彼女から少し話を聞いた時から興味を持っていた。彼女の境遇は少し特殊だということがわかっていたから。おおよそのことは知っていたけれど、彼女の口を通じて彼女にとっての真実を聞いてみたかった。彼女は何から逃げたかったのか。

 だって、ここはそういう場所だから。

「さすがだね、」

 そう言って彼女は困ったような泣き出しそうな不思議な表情でうつむいてから、

「あの子の時と同じで情報を得ることができたんだ」

 あの子というのはレース編みの少女のことだろう。

「えぇ」

 わたしはうなずいた。

「長い話になるよ」

 と、探偵の彼女は顔を上げて薄く笑った。黒い瞳がとても綺麗だった。

「構わないわ。夜はまだまだ長いのだから」

 冬を告げる風がぎしぎしと塔の周りを幾重にも囲っていた。どんな小さなものでもここから逃げ出すことはできないのだというように。

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