第15話
さわさわと揺れる木々の向こうからひんやりとした風が頬を撫でて通り過ぎて行った。夕暮れの時間が終わろうとしている。世界が完全に闇に包まれるまでにはまだ時間があるが、薔薇の茂みに身を隠すように腰を下ろしたわたしと探偵の少女の姿はすでに境界がじんわりと曖昧になっていた。手を伸ばせば彼女の一部としてそのまま重なりそうな気がした。もしかしたら気づかないうちにわたしが彼女の一部となっているのかもしれない。もうすでに。
「絶対に今日は犯人を捕まえるわよ」
艶やかな黒髪をなびかせてこちらを振り向いた彼女の白い頬が夜が落ちてくる中でぼんやりと浮かび上がる。自信に満ちた彼女の言葉はどれだけひそめていても森の木々がすくい上げて、そのまま森の一部として取り込んでいくだろう。そして、彼女はこともなげに森の一部を自身にも取り込んで平然としているのだろう。心地よさそうに森の中を歩く彼女の姿が容易に想像できる。
木々の陰にすっぽりと包まれて輪郭が曖昧になった彼女を見つめる。胸の中で何かが詰まったようなしめつけられるような感覚が湧いてくる。この感じはなんという思いなのだろうか。
「こわい?」耳元で囁かれた彼女の声に首をふってこたえる。
「いいえ」怖さはない。
レース編みの少女が絞り出したつぶやきを聞いたあと、探偵の少女は「安心して」と力強く微笑んだ。
「何か考えがあるの?」
「簡単よ」そう言って本当になんの問題もないとからりと笑った。わたしの反応を楽しむように目をほそめると、彼女は自身に満ちた笑顔で
「犯人を捕まえるの。学園の安全が確認できればここを出て行く必要なんてないでしょ」
驚いた。
彼女も犯人の目星をいつの間にかつけていたなんて。
しかし、わたしの期待をよそに彼女は続けた。
「だから、犯人を探すのをあなたも手伝って」
そう言って、にこりと微笑んだ。
わたしは探偵の彼女と二人で新しい噂を流すことにした。
泉の妖精が花嫁との結婚式をあげる。そのお祝いがされている間だけ、どんな願いも叶えてくれる。条件は深夜にたった1人で泉を訪れること。誰にも見られてはならない。その程度の内容で十分だった。少女たちがいくらでも話を膨らませて広げてくれる。あとはただ噂に上る夜を待てばいい。彼女が何故あんなことをしたのかはわからないけれど、この噂を耳にしたらきっと再び泉を訪れるだろう。
噂はまたたく前に広まった。「ねぇ、知ってる?」そう囁く言葉と意味深げに交わされる視線。少女たちは「噂」を運ぶことに夢中だった。語り手から聞き手へと伝達されていくその先に何を期待しているのだろうか。願いが叶うことだろうか。それともこの噂を聞いた誰かがちぎれた糸を掴んだまま泉の精に連れて行かれることだろうか。
わたしの耳に再び届いたときには結婚式が今夜から3日間だけ開かれるということまで決まっていた。
そうして、探偵の彼女とわたしは泉の周囲の茂みに潜んでいた。
日が沈んだあとも残っていたうすい青色が群青色に変わり、鳥たちのさえずりがとおのき、夜露に濡れた花々から甘やかな香りが立ち上ってきた頃わたしは一人で真夜中の泉の前に立った。はじめは探偵の少女は「危ないからあなたは身を隠していなさい」と自らこの役を引き受けることにこだわった。
「わたしがやったほうが良いでしょ。だって、いざという時にはあなたが助けてくれるのだから」
そう言って、微笑んでみせると彼女は少し考えるそぶりをしたけれど納得したようにうなづいた。「わかった。でも、危ないと思ったらいつでも逃げてよ」
「えぇ」うなづいて見せながら、わたしは1つだけ彼女に依頼をした。それを聞いた彼女は美しい眉をひそめて「賛成できないけど」と言って腕組みをしながら、わたしの真意を問いただした。
「あの人なら大丈夫よ」わたしが言えるのはそれだけだった。しばらく経ってから彼女は小さくため息をついてうなづいた。
「確かにね。信じられそうな気がする」
夜の香りをまとった湿った風がわたしの髪を揺らす。ここからでは探偵の少女が潜んでいる茂みは闇に同化して少しも見ることができない。泉の精、「かまいたち」と言ったほうが良いのだろうか。きっとそろそろ血が欲しくなる頃だ。ゆっくりと目を閉じる。木々のざわめきがこちらに迫ってくる。ざわめきを運んでくる風の中にわずかに遠い異国の香りが混ざっているような気がした。
そっと制服のポケットに入れてきたものを取り出す。食堂から拝借したグラスのかけらだ。夜を反射してきらりと光る。そのかけらを腕に押し付けるとじわりと血液が漏れだした。ぷっくりと盛り上がったあと血液はゆっくりと皮膚を伝って流れ出す。一度道ができれば通りやすいのだろう。ひたひたと流れ出した血液は石段に染みを作る。泉に反射した白い光りがあたりを十分に照らしている。探偵の彼女が潜んでいる場所とは異なる茂みから、わたしを凝視する視線を感じる。もう少し必要かと思い、グラスのかけらを腕に再度押し付けて傷を広げる。ぱたたた、と石段に音を立てて血のしずくが滴った。こちらに来ようとして逡巡している気配を感じる。
「先生」
呼びかけてみた。
わずかに躊躇した気配がした後に、がさりと音がして茂みの中からマリーが現れた。彼女の目はわたしの流れる血液だけを見つめている。足元から立ち込める自分の血の匂いに酔いそうだ。
「どうぞ」
そう言って彼女に腕を差し出すとゆらゆらと彼女はわたしの方に歩き出した。そして、わたしの前に跪くと石段に滴る血液を舐めだした。腕から滴る血液が今度は彼女の頭上に落ちる。ひたひたと頭の上に落ちた液体は徐々に彼女の額へと流れでる。そこでようやく彼女は顔を上げた。真っ白なマリーの顔にわたしの血が滴っている。ぼんやりとした目は何も写していないように見えた。
「どうぞ」
もう一度そう言って彼女の前に腕を差し出した。わたしの腕はだいぶ血に染まっている。ようやく彼女はわたしの腕を手に取ると手首から順に舐めだした。傷口の方に徐々に口を寄せ、最後に傷口にかぶりつくように唇を寄せてきた。それとほとんど同時に、泉の茂みの向こうからあの人、あの日、探偵の少女を手助けしてくれた用務員の男性、が飛び出してマリーをわたしから引き離した。その人にも少しわたしの血が飛び散った。石段にマリーをうつ伏せに押さえつける間、彼はわたしを見ようとはしなかった。
探偵の少女にわたしが頼んだのは彼にも噂を伝えてもらうことだった。
風に乗って香ってきた遠い国の香りは彼のものだ。懐かしいその香りをわたしは覚えていた。
探偵の彼女は立ち尽くしたまま茂みの中から動かない。彼女には犯人をおび寄せる方法は説明していなかったが、ここまで動けないとは思はなかった。
彼に取り押さえられたマリーの顔はわたしの血で染まり、歯まで血で汚れているようだ。彼女はただひたすらわたしの血が流れる腕だけを見続け、他の何物も目に入っていないようだった。しばらくわたしの腕にくらいつこうとするマリーと彼の格闘が続いたがわたしの腕の血が固まる頃にはマリーはぼんやりと空を眺めたまま動かなくなった。
それを見てようやく我に返った探偵の少女はわたしの元に駆け寄ってきた。その彼女に、彼が「警備人を呼んできてください」と声をかけ、探偵の少女は大きな瞳を見開いたまま事態を丸ごと飲み込むようにうなづくと、管理棟に向かって駆け出した。
薔薇の花は黒々と咲いていた。わたしは泉のそばに曼珠沙華がまだ咲いていないことを少し残念に思った。どちらの色がより赤いのか比べてみたかった気がしたから。
マリーが逃げ出す気配がないことを確認した彼はすでに血が固まったわたしの腕をとって泉の水をかけてくれた。ひんやりとした泉の水に溶けたわたしの血液はゆらゆらと深い泉の底に消えていった。そういえば。清らかなものの中に汚れたものが混じった場合はどちらが勝るのだろうか。漆黒に見える泉の底で何か蠢いているものがないか見極めようとしたけれど溶けゆくわたしの血液だけがゆるやかに蠢きながら消えていった。
「久しぶりね」
彼はわたしの声が聞こえなかったように、わたしの腕をとり止血するようにタオルを巻きつけた。
「まだ、あなたがくれた塔の鍵は持っているのよ」
そう言うと、ようやくわたしを見た。少しだけ口を開こうとした気配が感じられたけど、小さく首を降ると彼は立ち上がって背を向けて歩き出した。
「さようなら」わたしはあの日言えなかった言葉を口にした。ほとんど夜に飲み込まれたような姿で彼は振り返ると、微笑んでうなづいた。今度こそ小さく彼の口が動いたのが見えた。探偵の少女が戻ってくるまでの間、わたしは泉のほとりに1人腰を掛けていた。
マリーの部屋から血に染まったレースとピアノ線が見つかったのは翌日だった
ただし、ピアノ線を張ったのは彼女ではなかった。
ある少女が夜毎にピアノ線を張り巡らせ、ときおり人が通るのを見計らって糸を引っ張ったと告白した。その少女は、レース編みの少女が倒れた時にマリーがレースを口に含み血をすするのを見て恐ろしくなってやめたという。大勢の少女たちを傷つけたことは特に気にはしていないのだろう。彼女はきっと今も無垢な少女の群れにまじって噂をささやき交わしている。
「どうして?」
探偵の彼女は懲りることがなく、かつて砂糖菓子の少女に問いかけたように同じ質問を繰り返した。もちろん、その少女は答える術を持たず、ただ困ったようにわたしに視線をよこしただけだった。彼女がなぜそんなことをしたかなんて誰にもわからない。同様にマリーがいつから少女たちが流す血に興味を持ち始めたのか分からない。興味もない。
そういえば、おとぎ話にも似たような話があったのではないだろうか。
少女の生き血を吸うことで若さを永らえるお妃の話。マリーは永遠の若さを保ちたかったのだろうか。この学園の少女たちのように。皆、この森に囲まれた学園の中で永遠の時を生きているようなものだ。
翌日の礼拝で、マリーは都合によりこの学園を去ったと伝えられた。少女たちは静かにその説明を受け入れる。少女たちは「本当のこと」の説明など求めていない。真実が明らかになるほどつまらないことはないのだから。探偵の少女だけがぽつりと「どうして?」とつぶやいた。木々のざわめく音が聞こえてくる。私たちの世界を押しつぶそうとする森のうめき声のように。
探偵の少女の予想は外れた。
レース編みの少女は塔には戻ってこなかった。
最後にレース編みの少女が塔を訪れた時に探偵の少女は彼女をぎゅっと抱きしめて向かい入れた。
「安心して。もう犯人は見つかったんだからあなたの両親も安心するはずよ」
どんな人だってじっと見ていたくなるような華やかな笑顔だった。眩しすぎて見つめ続けることができないかもしれないけれど。
レース編みの少女は少し微笑んだように見えた。席に着くと淹れたてのお茶の香りを楽しむようにゆっくりと口にした。その様子を満足気に眺めていた探偵の少女は思いついたように、
「もし次に何か起きたって大丈夫よ。私たちがどんな事件だって必ず解決してあげるから」
レース編みの少女はゆっくりと顔をあげた。探偵の少女は悪戯気な笑顔を浮かべて
「だから、私たちの間でもう秘密はなしにしましょう」
そのときにレース編みの少女が何を考えていたのかはわからない。ただ彼女はふんわりと花が咲くように微笑んだ。初めて見る彼女の微笑みだった。いっぺんの汚れもない美しい笑顔だった。
その夜、事の顛末を少年に話して聞かせるためにわたしはまた彼を塔に招いた。彼はいつもよりも寡黙で「なんで俺のこと呼ばなかったんだよ」と呟いたあとは長い時間黙っていた。わたしが探偵の少女に対して感じた妙な胸の高鳴りについて話している時にようやく顔をあげた。「俺もいつもそうだよ」という彼に、それはどのような感情なのか教えて欲しいと頼んでみた。
「教えない」
そう言って微笑んだ少年は、少しだけ年をとったように見えた。
レース編みの少女が発見されたのは翌日のまだ夜の青い光が残っている早朝のことだった。月の光を閉じ込めたような青白い泉に少女はふわりと浮かんでいた。彼女の周囲には真っ白なレースがどんな汚れも彼女に寄せ付けないように撒き散らされていた。
彼女は希望通り、ここにずっといることを選んだのだろう。
深い青い水は彼女を永遠に閉じ込める。泉の周囲には昨日まで咲いていなかった曼珠沙華が咲き誇っていた。
わたしは塔の窓から差し込む青白い光の中で、レース編みの少女が編む美しいレースのことを思い出していた。もう二度と彼女の編み出す新しいパターンは見られないと思うと残念だった。そっと手を伸ばすと、月光で生まれた影がわたしの手のひらに降りてきた。
そうして、塔の住人は二人だけとなった。
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