第14話
泉の妖精が花嫁を見つけて泉の底に連れ去った。
そんな新たな噂がわたしたちの元に届いたその日の昼過ぎに、わたしは一つの招待状を受け取った。日時がさらりと記載されただけのカードは送り手の署名もないまま遠い昔からそこにあったようにひっそりとわたしの部屋の机の上に置かれていた。目立たないようにすればするほど周囲と溶け込むことができなくなる。手に取ったカードを引き出しにしまったあとも机の上にあるべきものがなくなってしまったような違和感がぽっかりと残った。わたしが手に取るまでただ静かに鎮座していただけなのに。
探偵の少女にこのことを話したらきっと目を輝かせてわたしの部屋を訪れるだろう。隅々まで違和感を探して探し回る彼女の姿を思い浮かべるのは容易かった。彼女にこのことを話すのは得策ではないし、招待者もそれは望んでいないのだろう。次の授業まではまだ少し時間がある。カードに記載されていた約束の時間まではまだ少し早かったがわたしは招待者を訪問することにした。
奇妙にぽっかりと空いた机の上をひと撫でしてからレース編みの少女がわたしのために編んでくれたレースを取り出して、薄暗い部屋の中で透かしでみた。泉を訪れたあの日のようには片羽根の天使は空に舞い上がることはなかった。季節が2つ3つ通り過ぎてしまったかのように遠く思えるあの日に隣にいたあの子も片羽根の天使が舞い上がる様子を見ていたのだろうか。
彼女に会うのはいったいどれくらいぶりだろうか。
初めて手にしたざらりとした塔の鍵の感触がふと蘇った。そうか、あの日以来なのかと思うと、彼女がわたしの存在を覚えていたことが奇跡のようなものかもしれない。
学園の北側にある蔦に覆われた古めかしい建物は管理棟と呼ばれ少女たちが立ち入ることは許されていない。少女たちがここを訪れるのはたった一度だけ。この学園の入園を許可された際に一度だけこの管理棟にある学園長の部屋に招かれる。
そこでどのような会話が交わされるのかわたしは知らない。
ただ、多くの少女たちはその段階でこの学園のことを理解する。すんなりと少女たちの群れにまぎれ込み、恐ろしい森の影に怯えて暮らすようになる。まるで森を怖れる素振りを見せない探偵の少女は本当に特別な存在だ。彼女はなぜあんなに凛と佇んでいることができるのだろうか。
管理棟に続く道を歩いている時に頭をよぎるのは探偵の少女のことばかりだった。彼女を避けるようにここを訪れることに決めたはずなのに彼女の影のようなものを一緒に連れてきてしまったのはわたし自身の失態だ。入館の手続きを待っているときに思わず自嘲した。その様子を見た手続きを行っていた事務員の女性が不安げに眉をひそめて電話口で何かを相手に囁いた。構わない。たとえ、わたしがここで誰かをひどく傷つけたとしても、彼女は顔いろを変えることなく予定通りわたしを迎えいれるだろう。
「こちらへ」
冷ややかな声とともに手続きが整ったことを伝えられ、案内についていく。時折、すれ違う職員たちがみてはいけないものを見たように一様に顔を伏せて足早にわたしの横を通り過ぎていく。管理棟の奥のもっとも重厚な扉の前で案内係の女性は、逃げるようにわたしを置いて戻って行った。
控えめにノックをし、「どうぞ」という記憶に残っているものと寸分違わない声が聞こえてからゆっくりと扉を開けた。
「あら。早かったのね」
黒檀の大きな机の向こうからちらりと手に持った書類から顔をあげたその人はわたしに部屋に入るように目で示した。記憶にあるより少し年を経たその顔は、わたしに対して特別な感情は何も持っていないようだった。「少し待ってちょうだい」というと、何かを書類に書き込みながら「大した話ではないからすぐに済むわ」と続けた。
「わかりました」
学園長はわたしの返事に小さくうなずきようやく顔をあげた。
「ここ最近、学園内で起きてる出来事のことよ」
わたしはただ黙ってうなづいた。
「あなたは何か関与しているのかしら?」
「いいえ」
学園長はしばらく何かを探すようにわたしの顔を見つめてから「そう」と言って、目をそらした。彼女の様子を見ていて、わたしもこんな風に人を眺めているのだろうかと思った。
「いいわ。行きなさい」話は終わったというように手を振ると彼女はまた書類に顔を向けた。黙って扉に向かいながら、ふと彼女に伝えておくべきことを思い出した。
「関与はしてないのですが、」
「何かしら?」
「塔に何人か招待しました」
「そう・・・」
ゆっくりと学園長は顔をあげた。長いまつげに彩られた瞳はかつて少女だった名残がまだ見てとれる。
「そうそう。大事なことを聞き忘れていたわ」
彼女はしとやかに顔の前で指を組みながら「何か必要なものはないかしら?」と、小さな子供を甘やかす声音で微笑んだ。
「1つだけ」
その情報を手に入れるためだけにわたしはここに来たようなものだ。
軽やかに微笑み合う少女たちは相変わらず泉の周りに多く集まり、踏みつけて歩く大小の血痕の中にはレース編みの少女のもの含まれていたと探偵の少女がその夜に教えてくれた。「昼間はどこに言っていたの?」少し寂しそうな声で彼女に問われたがわたしは答えなかった。
レース編みの少女はそのあとも2日間ほど眠り続けた。
燃えるような怒りを全身から吹き出す彼女と一緒にわたしがレース編みの少女の部屋を訪問することが許されたのは少女が意識を取り戻した日の夕方だった。
「良く部屋がわかったわね」
しきりと感心する探偵の少女には曖昧な答えを返しておいた。学園長はきちんと約束を守ってくれた。
部屋を訪ねると先客がいて私たちを迎えてくれた。マリーだった。何日も寝ずに看病していたのだと言う。まるで自身の部屋のようにマリーはわたしたちをもてなした。レース編みの少女はぼんやりとした表情のまま人形のようにベットに横たわっているだけだった。
「大丈夫?」探偵の少女がこれまでにないくらい優しい口調で話しかけ、レース編みの少女の手をそっと握った。部屋の中にはあまりものがなかった。唯一装飾と言えるものはベットサイドに置かれた写真たてだった。彼女の家族のものだろう。面立ちの似た年配の女性が小さな頃の彼女と思われる少女を抱いて微笑んでいる。隣にいる少年は兄だろうか。やはり顔立ちがよく似ていた。少年は妹をいたわるように少女の肩を抱えて座っていた。ほとんど口づけをするかのような距離感で。彼女の母親は兄妹を目を細めて微笑ましく眺め、自分の家族が一緒にいられることを心から喜んでいるようだった。小さな少女だけが画面の向こうからこちら側に救いを求めるような瞳を向けていた。
レース編みの少女の家族を知るのはこの写真だけで十分かもしれない。
「ご家族にも私が連絡をとったのです。お兄様が大変心配されて」
マリーはわたし達にお茶を淹れてくれながら聞いてもいないことをにこやかにしゃべり続ける。
「亡くなったお父様が無理やりここに入れてしまって、家族の面会も許されていない状態だったらしいのです。本当にひどい」
と、レース編みの少女の兄という人からどのような話を聞いたのかはわからないが、マリーは「お父様」という言葉を口にするときだけ不快な記憶を閉じ込めるように眉をひそめて首を振った。
レース編みの少女が必ず部屋に閉じこもってわたしたちにすら会おうとしなかったのはいつも家族からの手紙や荷物が届いた後だったことを知っている。
マリーはそっと、レース編みの少女の元によると首に巻かれた包帯を愛おしそに触れた。その下にある裂け目を撫でるように。少女の家族としては、レース編みの少女の体調が回復次第、ここから彼女を出すつもりだとマリーは切なそうに目を細めた。
「私がしっかり看病して、治ってから連れ出すということでようやく納得いただいたのです。もう少し。もう少しゆっくりと治してからじゃないと」マリーはまだ首の包帯を撫で続けている。
「そうね。私たちは寂しいけど、この子の幸せのためには家が一番に決まってるわ」
探偵の少女は涙で声を詰まらせながらもすぐに笑顔を浮かべた。
本当だろうか。
マリーは「少女の家族に聞いた」という幼い頃の思い出話を続けながら少女の首に巻かれた包帯を何度も執拗に触れ続けている。ここから見ても包帯にうっすらと血がにじんできたのがわかる。レース編みの少女は痛くはないのだろうか。
さすがに探偵の少女も怪訝な表情を浮かべたが、ほんの一時で表情を切り替えると、極上の微笑みを浮かべてマリーに話しかけた。
「少しだけ私たち三人のお時間をいただけないでしょうか?もうすぐ会えなくなってしまうなんてさみしいです」
マリーの方も鷹揚にうなづくと、ちょうどを管理棟に行って報告をしなくてはならないから、とその間の留守番を頼まれた。
マリーが出て行った後、わたしはバルコニーの窓を開けて空気を入れ替えた。森が暗く沈んでいくのが見えた。森が迫ってくるようで恐ろしくはあったけれど、それでもまだこの部屋の空気に閉じ込められるよりは森の濃密な気配に晒される方がよかった。
「包帯替えてあげる」
探偵の彼女は先ほどまでマリーが座っていた場所に移ると優しくレース編みの少女の首の包帯を替え始めた。聞きたいことは山ほどあるだろうに彼女は今日はほとんど質問をしない。ただひたすら彼女の傷に触れないように優しく包帯を取り去り、真っ白なものを新たに巻きつけていく。
「ごめんね」
探偵の彼女が小さく呟くとレース編みの少女は静かに首を振った。
「なんであそこに行ったの?」
レース編みの少女は考え込むようにわずかに首を傾げた後、囁くような小さな声でこたえた。
「洗いに行ったの」
「何を?」
レース編みの少女は何も言わずに首を振った。
真夜中の青い泉に彼女のレースが浮かぶ様子が目に浮かんだ。生物が生きることができないくらい美しい水で洗えたら確かにどんな汚れだって落とせただろう。でも、彼女のレースは泉の水の代わりに真っ赤な血に染まった。
「そっか」
軽やかにうなずいた彼女の声はこの上なく優しくて響いた。
泉の脇に佇むレース編みの少女は、かまいたちだか泉の妖精だかわからないが、血を求める何者かにとってはきっと最上の生贄のように思えただろう。
「はい、出来上がり。でも良かったじゃない。もうすぐで家に帰れるんだから」
人形のようだったレース編みの少女は新しく巻き直された真っ白な包帯を撫で、わたしと探偵の彼女を交互に見ると声を出さずに少し泣いた。泉から湧き出るような静かな涙だった。ここから出たくない、と絞り出すような小さな声はセイレーンの歌声のように耳に残った。
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