第12話

 生命の泉というけれど、美しすぎる水の中では生物は生息することができないと聞く。どんなものであれ、生きていくのにはある程度の澱みが必要なのだろう。でも、わずかな澱みすら受け入れることができないものはどのようにして生きていけばいいのだろうか。

 夏になると森の木々は空を覆うように枝葉を伸ばす。夏の木漏れ日は美しい。美しいけれど白と黒の境界が曖昧にとけあうこの季節には毎年何人かの少女が姿を消し、少女たちは「泉の精に連れて行かれた」と密やかに語り合う。

 学園の奥には小さな泉がある。夏の季節以外は森の影を恐れて近く生徒は少ないが、この時期だけは皆吸い寄せられるように泉の周りに集まってくる。森から吹き抜けてくる風が泉を揺らし、ひんやりとした気配を感じることができるその場所は少女たちの憩いの場所であると同時に別れの場所でもある。

 わたしも泉の奥に揺らめく影につられて覗き込むと、そのままひきずり込まれそうな気分になる。身を委ねてみたら何もかも時間ごと閉じ込めて永遠の眠りを約束してくれるのかもしれない。


 「かまいたちのこと知っているかしら?」

 初めてその話を私たちに持ってきたのはヴィナの代わりにこの学園にやってきたマリーだった。冬が一年の半分以上を占める国からやってきたという彼女は暑さが苦手のようで涼を求めて常に泉の周りにいる。青白い頬をした彼女が泉の石段に腰掛けている様は泉の精と言うよりも死者を思わせた。

「主に雪国で報告されている鎌風とも呼ばれる現象です」

 そう答えてみたが、

「最近、泉の辺りで報告されているのよ」

 わたしのこたえは無視する形でマリーが探偵の少女に向かって話を続けた。泉の周囲でかまいたちが出てすでに何人かの少女が犠牲になっており、マリーが手当を施した少女も何人かいるという。なんとか解決できないかしらとマリーは探偵の彼女に懇願した。砂糖菓子の少女がいなくなってから、探偵の彼女の元には以前よりも様々な情報が集まるようになっていた。人は誰でも告白できる場を求めているのだろう。

「マリーも『かまいたち』みたの?」

 大きな黒い瞳を輝かせて探偵の彼女は身を乗り出してマリーの話に飛びついた。「かまいたち」は目に見えるものなのだろうか。わたしはそこが気になったが、マリーは気にすることなく彼女の問いに対してうなずくと、左手のブラウスの袖口を捲り上げた。

「かまいたちにやられました」

 真っ白な手首に針金で引っかいたような傷跡が何本かあり、一番太い中心部に走る傷はまだ新しく、所々に赤黒い血がにじんでおり、傷がよく見えるようにと言って、マリーが自身の指で腕をひねるように絞ると、ぷっくりとした血がツーと彼女の白い手首を伝い落ちた。

「包帯したほうがいいよ」

 実際の傷跡はそれほど探偵の彼女の好奇心をくすぐるものではなかったようで眉をひそめた。マリーは大丈夫ですと言うと、ペロリと傷口をなめてブラウスの袖を元に戻した。反対側の手首もちらりとブラウスの袖から覗いたが、同じく赤黒い線が走っているのが見えた。かさぶたのように見えたのは凝固した血液だろう。

 マリーの話によるとかまいたちは突然起こるらしい。明るいうちでも生じるが明け方近い時間に発生したものはより深い傷を受けるとのことだった。

「先生詳しいですね」

「みなの安全を守る。それがわたしの職務ですから」

 探偵の彼女の問いかけに背筋を伸ばして答える青白い彼女の顔の中で唇だけが妙に赤かった。

 

 それ以降、他の少女たちからもこの話が持ち込まれるようになった。多くの少女たちはまるで定められた手順のように食堂で順に声をかけてきた。慎み深く距離を保ちながら、「少しよろしいかしら」と微笑みかけてくる彼女たちを探偵の少女は大きな瞳を輝かせながらいつでも歓迎した。時折、チョコレートの包み紙にかかれた依頼が届くことがあった。懐かしい香りに包まれたその「依頼」を彼女はとても大切なものとしてあつかった。

 多くの話を聞いたところ、いずれにも共通するのが突然に手首や足首を切られるということと、夜明け直前には決して泉に近寄ってはならないという話だった。泉の精が生贄を求めているから、夜明けに泉に近寄ったら決して帰ってこられないんだ、といった話でおおよそ締めくくられていた。

「なんだかおとぎ話の教訓譚みたいな話よね」

 夕闇に包まれた塔で、探偵の少女は新しく届いたチョコレートの包み紙を大切そうにしまいながらつぶやいた。

「物語なんてそんなものじゃないかしら。自然現象を避けるための言い伝えだってよくあるわ」

 淹れたての紅茶から漂う湯気が夜気にとけていく。アールグレイの香りがふわりと舞い夏の濃密な夜の気配を霞ませる。テーブルの上にはティーセットだけが置かれている。もう並べるお菓子はない。砂糖菓子の少女が去ってしばらくの間はどこからともなく甘い香りが漂っていた。でもそれもどこかへ消えてしまった。ときおりソファーの隙間や本の間から外国のチョコレートの包装紙が出てくると香りを嗅いでみる。甘ったるいその香りは不快で少し懐かしい。

「風の通り道である泉の周りは気をつけましょうってこと?」探偵の少女はつまらなそうに顔をしかめる。

「そうね、あとは。夜に泉を覗き込むと飛び込みたくなるから注意なさい、とかかしら」探偵の少女はさらに顔をしかめたが、彼女が知らないだけだろう。あの泉の奥底でいったいどれくらいの少女たちが眠っているのかを。

 コツコツと言う控えめな足音とともにレース編みの少女が登ってきた。最近の彼女はすっかり日が落ちてからここにくるようになっていた。そのまま夜のほとんどの時間を塔で過ごしているようだ。わたしが夜に訪れる時にはいつも塔のテラスに続く階段で黙々と鉤針を動かしていた。

「これ」拾ったわ、と最後は消えるような声で囁きながらレース編みの少女はチョコレートの包み紙を差し出した。「ありがとう」と探偵の少女は笑顔で受け取ると、目を通した途端に驚いたように顔をあげてレース編みの少女を呼び止めた。

「ねぇ、これどこで拾ったの?」

 レース編みの少女は少し考えるような仕草をした。でも、探偵の少女の方を改めてふりむこともなく、レースを編む準備にとりかかっていた。彼女のつけている白い手袋が青い闇の中で淡く光る。レース編みの少女は砂糖菓子の少女がいなくなってから真っ白な手袋をするようになっていた。暑くないのかと聞いてみたけれど、小さく首を横に振られただけだった。本当に暑くないのかそれとも暑くても選択肢がないとういう意味なのかわからなかった。

 探偵の少女もレース編みの少女に強く答えを求めることはせずに、私に向き直った。

「ほら、見て!新しい情報よ」

「吸血鬼?」泉の妖精は吸血鬼。そう一言だけ震えるような字でかかれていた。わたしは少しだけレース編みの少女をふりむいた。彼女は珍しくレースを編む手を止めて塔の窓から泉の方角をぼんやりと眺めていた。

 探偵の少女は黒い瞳を輝かせて席を立つと、「現場検証が必要ね」とその瞳を好奇心で溢れさせた。

 わたしも窓辺に近寄る。塔の窓から顔にあたる薄暮の風が心地よく、静かに闇に沈んで行こうとする泉を思い浮かべるのは悪くない気持ちだった。

「賛成よ」わたしはそう答えると、レース編みの少女に「あなたも行くでしょ?」と声をかけた。彼女は予想していたようにあまり驚くこともなくわたしを見つめ返すとゆっくりとうなづいた。探偵の少女が満足そうに微笑んだ。「明日早速決行よ」

 レース編みの少女は微かな声で付け足した。

「夜は嫌」

「いいわ」レース編みの少女を安心させるように探偵の少女は大きくうなずいた。

 それではわたしが訪れてみたい泉とは違くなる。少し残念ではあるが仕方ない。


 翌日の午後、わたしたちは塔に集まってから泉に向かうことになった。


 その日は特別に暑く、塔に向かう小道が揺らめいて見えるようだった。塔の中に入ると石壁のひんやりとした心地よさにホッとした。探偵の少女の姿は見えなかったが、レース編みの少女はすでにきていた。わたしが入ると珍しく窓辺でぼんやりと外を眺めていた。昨日と同じく泉がある方角だった。「怖いの?」そう声をかけてみると、彼女は首をふり席に着くと、顔を上げることなくレースを編み出した。塔の中の光がゆっくりと失われていくのとは逆に、夜が近づくほど彼女のレースは淡く光るように見えた。すべての模様が完璧に整っており、もしもわずかなほころびでも生じたら一瞬にして彼女が紡ごうとしている世界は崩壊してしまうのだろう。完璧な世界を維持するのにはとてつもないエネルギーが必要だ。

 

 軽やかな足音を当てて螺旋階段を登ってきた探偵の少女は、テラスに続く階段に腰をかけるわたし達を見つけるなり、さぁ、いきましょうと、疲れた様子もなく声を弾ませた。うきうきと踊るように話し続ける。

「楽しみだな。かまいたちがどうやって生じるのか見れたらいいんだけど

「自然現象でしょ」

 探偵の少女が髪を揺らしながら勢いよくふりむいた。

「雪国ならね。風もないのに夏に起こるわけ?気になるじゃない。毎年起きているわけじゃないのなら何か今年だけ特別な条件でもあるのか調べてみたい。何か知らない?」ぽんと、弾むように踊り場に降り立った彼女の後ろ姿を見ながらわたしはこたえた。「知らないわ」

 探偵の少女は今度はゆっくりとふりむいて懐かしそうに微笑んだ。

「その言い方、あの子にそっくり」

 ふわりと甘い香りが漂ったような気がした。

 すでにいないはずなのに、確かに時折あの娘の気配が漂うことがある。

 彼女が消えた夜に考えたことをわたしはふと思い出した。喪失した何かを思い出させる気配のようなものになれば永遠に生きることと言っていいのだろうか。そのような気配を感じる時にわたしがいつも感じるのは「永遠の死」のイメージにどちらかというと近い。何の気配もないものに対してはどこかで生きていると信じることができるが、気配だけが残っているものは「不在」だけを強く語りかけてくる。

 螺旋階段をおりるわたしたちを追いかけるように白い日差しと影が交互に現れる。生と死ほどではないが強いコントラストにさらされながら歩いているとめまいを覚えてきた。塔から出る瞬間に「あなたも莫迦ね」と笑いを嚙み殺したような囁きが聞こえた気がしてふりむいた。

 差し込んだ一筋の光で小さな埃がふわりと舞い上がった。

 塔から一歩出ると一瞬立ちくらみを感じた。自分がいる場所がいったいどこなのかわからなくなる。外に出た瞬間の日差しの中でしばらく目を瞑る。

「大丈夫?」探偵の彼女が心配そうに私を覗き込む。

「平気。行きましょう」彼女の黒い瞳から無理に目をそらし、泉に向かって歩き出す。泉にはきっと失われた何かのかけらが待っているのだろうから。

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