第10話

 夜の底が冷えるような日が何日か続いたあと仄かに果実が腐っていくような甘い香りが漂い始めた。春の終わりが始まる合図だった。中庭に植えられた桜が満開となり夜の暗さを深くしていた。春の夜風に吹かれた桜に手を伸ばそうとしたけれどふわりと浮かび上がり夜の向こうに消えていった。「人が消えるのはこんな夜かしら」そうつぶやいたら、少年がふりむいた。「知ってる?桜の下には人が埋まってるんだ」そういう少年は妙に楽しげで春に生まれた「何か」に魅入られてしまったようにも見えた。

 探偵の少女が今夜のことを少年に打診した時は「なんで俺が」と強く拒否していたのに、探偵の少女が「ボディーガードに決まってるじゃない」と無邪気に微笑みながら手招くと少年は心を決めたようにするすると柵を越えてわたし達の目の前に降り立った。たったそれだけなのに異次元がつながったような気分になった。少年は少し照れくさそうわたしの前にたつと、「じゃ、案内してよ」と声を弾ませた。「ついてきて」と探偵の少女も微笑むと弾むように歩き出した。黒い髪が闇の中で踊るように揺れて、彼女自身が夜の一部のように見えた。

 

 探偵の彼女とわたしと、そして少年は食堂の机の下に潜り込んでヴィナが来るのを見張っていた。わたし達しかいない食堂は不思議な匂いがした。料理の残り香とも異なる何かがあたりを漂っており、普段机や椅子の下に潜んでいるものが夜の間だけ浮遊しているようにも思えた。決して嫌な感じはしないその匂いは興味ふかく、ここにいるのも悪くない。

 健全な食生活を歌いベジタリアンとして生きるヴィナが真夜中に食堂に出入りするとなると摂食障害を患っているのは間違いがないだろう。あの食堂の一件のあとにヴィナとすれ違った時にもすえた匂いとともに、決して口にしないと表明している甘い香りが漂っていた。

 噂の青白い顔で夜な夜な出没する魔女はヴィナの姿を表したものかもしれない。ただ、その場合、一体「弟子」は誰なのだろうか。探偵の少女にも問いかけてはみたが、彼女はヴィナをとらえることだけに夢中だった。「あとは証拠だけ」と息巻く彼女は探偵助手であるわたしと、ボディーガードとして少年を連れて行くことにした。見つかったら俺の将来どうしてくれるんだと文句を言う少年に、彼女はにこやかに「私が責任を取るから安心して」と言い放った。彼女に取れる責任がいったいどの程度なのか見てみたい。

 彼女は言う。

「魔女を捕まえればきっと全部わかるはずよ」

「本当に噂通り魔女がヴイナならね」

 どういうこと、そう問いたげな瞳をわたしに向けて彼女が口を開こうとした時、ドアが開かれる音がした。ぎしぎしと軋む床の音が響く。普段は少しも気にならない小さな音も耳を刺す。わたし達は息をひそめる。足音の持ち主はそのまま奥のキッチンへと進んでいく。彼女が口の形だけで「いくよ」と言って、這うように進み出す。少年と一度顔を見合わせた後、仕方なくわたしも同じ姿勢で進む。キッチンからはゴソゴソという音が聞こえ、何かを探しているようだ。探偵の彼女は後ろを振り向いて「毒」と口を動かした。毒を入れるものを探していると言いたいのだろう。


 その音は次第に変化し、びちゃびちゃと何かを咀嚼するような音になった。探偵の彼女が後ろを振り向いて首を傾げた後、音はさらに変化してゴリゴリと何かをかじり取るような音に変わった。彼女は這うのをやめて立ち上がって歩き出した。わたしもようやく立ち上がることを許されたことを喜びながら後に続く。キッチンにいる人物はわたしたちの気配には全く気付いていないようだ。


 そして、魔女のようなヴィナがそこにいた。


 割れた卵や封を噛みちぎられたハムが散乱する中でヴィナが無心に生の鶏肉を貪っていた。磨かれたタイルの床の上にピタリと座り込み、肉をかじり取り、骨を吐き出した。彼女が動くたびにタイルの上にべちゃべちゃと食い散らかされたものが巻き散らかされ、彼女の体は肉片と血と汁でまんべんなく汚れていく。どうやら魔女は雑食のようだ。夜な夜な骨を集めるというからある程度決まった食物を選んで食べるのかと思っていたけれどそうではないらしい。一体どれだけそうしていただろうか。今度は不意に立ち上がり、流しに体を傾けると勢いよく得体の知れない肉片のようなものを吐き出した。きちんと磨かれたステンレスの流しはヴィナの体から排出されたものを受け止め、一部を弾きとばし、くすんだ汚れをあとに残した。


 ヴィナは最後に黄色い汁を口からたらした後、床に散らばった骨を手でかき集めてにんまりと微笑んでから立ち上がった。そして、わたしたちにようやく気づいた。


 その目に怯えが走り、小刻みに首を振りはじめる。目が回らないのだろうかと少し気になる。続いてヴィナの口が小さく動く。どうやら「見ないで」とつぶやいているようだ。まるで化け物でも目にしたような反応だ。いくら何でも今の彼女に化け物扱いされるのはさすがに少し不本意だ。


 吐き散らかした体液でくもってしまったステンレスでは自分自身の姿がよく見えないのだろうか。探偵の彼女はヴィナがこちらに気づいてからも少しも動こうとしない。床に巻き散らかされたゴミの中に毒物の証拠でも探しているのだろうか。


 ヴィナは震え始めた。私達が化け物のように震えながら後ずさる。一体彼女は何にこれほど怯えているのだろうか。もしかしたら幻覚のようなものが見えているのかもしれない。本当に私たちの姿が映っているのか気になってわたしは聞いてみた。


「先生、何をなさっているんですか?」


 残念ながら答えは得ることができなかった。


 代わりに耳を刺す咆哮がヴィナの口から湧き出した。声というよりも人の体という管を使って音が漏れてくるようだった。あまりに甲高く耳障りなその声に耳を塞いであとずさると、ぼんやりと立ち尽くしたままの少年にぶつかった。よく平気ね、と思って少年の目を覗き込むと、数秒たってようやく目の前に私がいることに気づいたようだった。そのまま目を見開くと、「ヤベェ」と言って慌てて少年は食堂から逃げ出した。すぐに誰かくるだろうし、これ以上ここにいると食欲がなくなりそうで嫌だったのでわたしも少年の後を追うことにした。探偵の彼女はどうするのだろうかと後ろを振り向くと、ヴィナの方をぼんやりと眺めていた。わたしが「行かないの?」と声をかけると何も言わずにそのまま私たちの後を追ってきた。


 小道で別れるまで少年と探偵の彼女は一言も口をきかなかった。


 わたしはあんなに食料が食い荒らされてしまったのなら明日の食事はどうなるのか興味があった。寮への帰り道で彼女に聞いてみたけど「わからない」と力なく首を振るだけだった。


 わたし達がヴィナを見たのはこの夜が最後だった。


 

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