第6話
春ほど心がざわめく季節はない。
冬の寒さが和らいで、森から聞こえる草木の音も耳を塞ぎたくなるような恐ろしいものから柔らかい音色に変わる。春は生命の誕生する季節だと言って、多くの人が手放しで向かい入れる。でも、生まれてくるものが良いものだけだとなぜ無邪気に信じることができるのだろうか。生命が誕生することにどうして人はあんなに無邪気に喜べるのだろうか。
そんな話を去年の秋の始まりに出会った少年にしたら、彼は少し困った顔をした後、こう言った。
「でも、俺は春の方が好きだな。こうやって君に会える時間が少し長くなるし、何より暖かい。冬の間こうして待ってるの結構辛かったんだからさ」
夜露に濡れた草に触れることが不快ではなくなってきた春の始まりの夜だった。
少年は足元で見つけた早咲きの瑠璃唐草を摘みとって、ふわりと私に向かって投げてよこした。そっと体を捩ると、土の香りとともにヨモギの香が夜の中に漂った。
わたしが触れた彼の頬はほんのりと暖かかった。じんわりと伝わる暖かさは指先を通じて、暗闇の中で影のように固まったわたしの中をゆっくりと流れていった。
砂糖菓子の少女の元には毎月大量のお菓子が送られてくる。イースターのお祝いのつもりなのか今月は特に多く、彼女は毎日のように部屋や食堂でお茶会を開いていた。わたし達以外の前での砂糖菓子の少女はにこにことして愛らしい。その愛らしさにつられて少女たちはいろんな秘密を彼女の前で漏らしてしまうようで、彼女の元には重要なものから骨董無形なものまで様々な噂話が集まってくる。
それに、この冬の間に彼女のお茶会での新しい習慣が出来上がった。探偵の少女に依頼したいことがあったら、お菓子の包み紙にそっと依頼事項を書いておいてくる。誰が始めたのか知らないけれど秋の終わりから密やかに始まったこの習慣は春が近づくに連れて静かに数が増えてきていた。
月明かりがさしこむ塔の中で、砂糖菓子の少女が「探偵さんにプレゼントよ」と紙吹雪を飛ばすかのように銀の包み紙を放り投げた。甘い香りを漂わせながらキラリと舞う1枚がすーっと探偵の少女が広げた手の中におさまる。謎も美しい彼女のことを愛してしまうのだろう。床に舞い散った幾枚もの包み紙にはほとんど同じ内容が書かれているようだった。
「ふーん」探偵の彼女は手にした紙を月明かりにかざしてつぶやいた。
「魔女を見つけてくれねー」
砂糖菓子の少女は全く興味がなさそうにあくびをすると、床に落ちた包み紙を一瞥することなく踏みつけてお茶のお代わりを用意しに席を立った。レース編みの少女は、編み途中のレースの上に降りてきた1枚を手に取ると編み出された模様と比べるように眺めてからポケットにしまってしまった。どんな依頼が書かれていたのかはわからない。
最近の噂話のトレンドは森からやってきた魔女の話だそうだ。
真夜中に夜な夜な学園に入り込むその魔女は、いなくなった魔女の弟子を探しているという。学園のあちらこちらに埋められた弟子の骨を見つけては毎晩奪っていくそうで、もしも学園の中で何かの骨を見つけてもそれは魔女の弟子のものだから決して触れたりしてはならないそうだ。
決して触れてはならいない禁忌を犯したら何が起こるのかはまだ語れていないようだ。それはそうだろう。結末が決まりきった物語なんて語る意味なんて何もないのだから。何かが生まれて朽ちて行くまでの過程をわたし達は愛しているけれど、朽ちきったものには興味はない。
「腐るほど聞かされた話だけど、内容はほとんど同じよ」お茶を入れてくれながら砂糖菓子の少女がわたしたちに噂の内容を語ってくれた。柔らかな湯気がふわりと立ち上る。
「その魔女を見つけろってことね。いいじゃない、久々にやりがいがありそうな仕事だわ」探偵の彼女は薄闇の中でもはっきりとわかるくらいに瞳を輝かしている。「じゃあ、よろしくね」と、儀礼的に微笑んで見せた砂糖菓子の少女に「ねぇ、実際どんな風に話されてるのか聞いてみたいんだけど」と、断られることなんて微塵もありえないと信じ切った瞳で駆け寄ると、「お茶会に私たちも招待してよ」と弾むような笑顔を浮かべた。
砂糖菓子の少女は「あんたの躾不足よ」というようにわたしをにらみ、わたしは「わたしたち?」と戸惑いを隠せなかった。
3日後、レース編みの少女と探偵の彼女と一緒にわたしもお茶会に招待された。わたし達が部屋に入るとそれだけでいっぱいになってしまうくらいお菓子の箱で彼女の部屋は埋め尽くされていた。甘い香りが充満していて、例えこの部屋に死体が隠されていたってわからないだろうと思う。
「凄い。これ全部食べていいわけ?」
探偵の彼女は大きな瞳を輝かせ心底嬉しそうにテーブルに並べられたお菓子の山を見渡す。
「構わないわ。こんな豚の餌でよければいくらでもどうぞ」
砂糖菓子の少女は決して自分ではこれらのお菓子を口にしない。綺麗な包装紙も甘い匂いも嫌っている。でも彼女にはどうしようもなくそれらが染み付いている。どれだけ離れていたって彼女からは甘い香りが漂ってくるし、学園の様々な場所には本来は彼女のものであったチョコレートの包み紙や崩れたビスケットたちが居場所を見つけて潜んでいる。
「もうこの学園中の人があなたのお菓子なしではやっていけない体になってるんじゃないかしら」
探偵の彼女はアップルパイとビスケットを数枚手に取り幸せそうに目を細める。
「そういえば、ヴィナはお茶会に来るのかしら?」
ヴィナはこの春からグレースの後任としてこの学園にやってきた。グレースとは真逆の誰よりもモノトーンの世界が似合いそうな人だ。そして、今日のお茶会に招待してもらうようわたしが頼んだ。魔女の話が出てきたのはこの春から。物語が生まれるには何かきっかけがあるはずだ。
「声をかけるだけはしたから義務は果たしているわよ。あんたはそのレース置きなさいよ。狭苦しいんだから」
レース編みの少女は体の一部を剥ぎ取られたように顔をしかめたがここはまだ汚れきった場所ではないと判断したのかそっと鉤針と糸を脇に置いた。
「ねぇ、壁に貼ってある写真って絵葉書?」
アップルパイを頬張りながら探偵の彼女が尋ねる。
おとぎ話の中の主人公たちのように頬をパッと明るく上気させて、砂糖菓子の少女が破顔した。
「そう!パパから毎週届くのよ。早く夏にならないかしら、夏になったらパパと一緒に二人で旅行に行くんだから。あんた達が行ったこともないような場所よ。海がいいわね。その時は絵葉書でも送ってあげるわ」
夏を指折り数えるような仕草をする。
「いいなぁ」心底羨ましそうに話を聞く探偵の少女に、「ふふふ」と微笑み、夏を待ち兼ねる砂糖菓子の少女はここに来てから一度も外に出たことはないし、家族が彼女を訪れたこともないはずだ。わたしは会ったことのない彼女の父親を想像してみようとしたが駄目だった。彼女を包むチョコレートのお化けのような妙なものしか頭に浮かんでこなかった。
貼られた絵葉書の写真はどれも似通った風景のようだった。どこの観光地でも束になって売られている美しく見えるよう加工された風景写真。まったく同じようにしか見えない写真たちを砂糖菓子の少女は嬉々としてパパとの思い出を踏まえてどんな場所なのか教えてくれる。それでも、彼女が楽しそうに説明する風景が本当は一体どんなものなのかわたしにはよくわからなかった。
壁に貼られた絵葉書は何重にも黄ばんだテープで固定され、さらに新しい絵葉書を貼るためのテープがその上を横切り、元はどんな写真だったのかすらわかりづらいものもある。こんなに硬く止められていたら葉書の文面は二度と読み返すことができないだろう。何をそんなに閉じ込めておきたいのだろうか。
「仲良いのね。お母さんは?」
邪気のない探偵の彼女の質問に砂糖菓子の少女はただ一言、
「あんな女のことなんて知らないわ」とだけ返した。
探偵の彼女は少し驚いたように目を開いて、ふーん、とつぶやいたきりその話題を続けようとはしなかったけれど、彼女の黒い瞳にすべてうつしとるように壁に貼られた絵葉書を一枚一枚丹念に眺めていた。
そして、一枚の写真に目を止めると、
「あそこって、海辺の別荘地じゃないかしら?」
「そうよ、パパがあの町にも別荘を持っているの。探偵さんも言ったことがあるの?」
「少し前までね」
そう言って、探偵の彼女はもう一度だけその写真の向こうを眺めるような目つきで見つめていたけれど、小さく首を振って、
「でもきっと違う場所ね」
と、微笑んだ。
レース編みの少女は音も立てずに小さなビスケットをゆっくりとかじっていた。わたしは特別美しくもなんともないその海辺の町の写真は、探偵の彼女には不似合いなんじゃないかと思いながらも、浜辺に立つ彼女を想像してみようとしていた。うまくできなかった。何故なら、わたし自身が海というものを見たことがないのだから。
結局、ヴィナはやってこなかった。
噂話を聞くことができなかった探偵の少女は名残惜しそうだったが、また招待してねと、半分脅すように砂糖菓子の少女との約束を取り付けるとようやく席を立った。
私たちが彼女の部屋を出て行く時、次のお茶会に招待された少女たちがやってきた。にこやかで優しげな少女たちのうちの一人はそこで寮母さんから預かったという巨大な箱を抱えていた。
「いらっしゃい。でも、お持ちいただいたのは何かしら?」
砂糖菓子の少女は、先程までとは異なる柔らかな微笑みを浮かべ続けながらも不快そうな声音をにじませた。彼女のお茶会のルールに抵触するからだ。この部屋では彼女の用意したもの以外は口にできない。
「あなた宛に送られてきたもののようよ。寮母さんから預かってきたの。何だか甘い香りがするからケーキじゃないかしら。秘密のお相手からのプレゼントかしら」
邪気のない声を弾ませながらケーキを抱えた少女がこたえる。
きゃーと居合わせた少女たちが歓声をあげ、どんな方が届けてくれたのかしら、と口々に話し出す。
砂糖菓子の少女は、素敵ね、と全くケーキの箱を見ずに言うと「さぁ、中に入って」と秘密に夢中な新たな少女たちを自分の部屋に招き入れた。
砂糖菓子の少女に送り出されて廊下に出ると、個々の部屋は硬く閉ざされていてどこからも何の声も聞こえてこなかった。この学園の多くの生徒はあまり自分の部屋に他人を入れることを好まない。それどころかお互いの部屋がとこにあるかも知らないことが大半だ。長い廊下を歩きながら、両脇に並んだ居室の中からそれぞれの部屋の主がわたし達に見つからないようにそっと息を潜めて隠れているように思えてくる。存在を気づかれてしまったら恐ろしいことが降りかかるとでも信じているのかもしれない。
「やっぱりここの学園て少し変わってる」
探偵の彼女は食堂についてようやく一息ついたように大きな伸びをした。食堂には常に何人かの生徒や先生がくつろいでおり、ほどよい賑わいがある。
「そうかしら?」
わたしから見たら彼女も十分に変わっている。去年の秋の始まりに来てから、彼女は「探偵」として、たくさんの好奇心を発揮した。なくし物、迷子のペット、仲違いの仲裁。いろいろなことに関与した彼女は今では学園の中で知らない人はいないだろう。
レース編みの少女は鉤針と糸を取り出すと新しい柄のレースを編み始めた。
「これ、さっきあの子の部屋で見た写真?」
わたしが尋ねると彼女は小さくうなずいた。レース編みの少女が新しく編み出したレースは無機質な幾何学模様が繰り返されながらもいつしか一つの絵のように特別な形が生まれてくる。その時の風景や彼女の想いが込められているようだ。
「行ってみたいの?」
この質問に対してはレース編みの少女ははっきりと首を振った。この学園には主に2種類の少女たちがいる。ここから出たい少女と出たくない少女。砂糖菓子の少女は前者でレース編みの少女は後者だ。
わたしは彼女が編みこんでいくレースを眺めているのが嫌いじゃない。真っ白なレースが彼女の手の中で様々な形に変容していく様は興味深い。ひとつの世界が作られていくのを邪魔するほど無粋なことはない。
「美しいですね」
そう言って声をかけてきたのは、グレースに代わってやってきたヴィナだった。ほっそりとした体型を女優のようだと褒めちぎる少女たちもいて、かつては外国の映画女優だったなどという噂も耳にした。少女たちが彼女を囲って過去の話をせがんでも、ヴィナは長い指をそっと唇にあてて微笑むだけだった。その仕草を真似する少女たちもいたが、わたしは細い体に似合わないごつごつとした彼女の指を見て、彼女の中を流れた時間が見た目ほど短くはないのだろうと感じていた。
レース編みの少女はヴィナに何の反応も示さずに手を動かし続ける。
「よかったら、少し網目を見せていただけませんか?」
ヴィナは微笑みを浮かべたままレース編みの少女に語りかけ続ける。
「ハロー!ヴィナはレースが似合いそうね」
顔を上げもしないレース編みの少女に代わって探偵の少女が屈託なく挨拶する。
「ええ、嫌いではありません。余計な色やものを使わずに編み上げられるなんて素晴らしいです。ぜひいつか私に教えてくださいね」
レース編みの少女はようやく顔を上げてヴィナをじっと見つめて何か言いたそうに口を開いたが、気が変わったのか言葉を飲み込んだ。再び編まれだしたレースはそこから新たな柄が編みこまれ始め、いつもよりも網目がきつく、余計なものなど入る隙間はなさそうだった。
「ねぇ、ヴィナ。お茶会こなかったでしょ?私たち待ってたんだから」
「あら、それは申し訳ないことをしました。あなたたちとご一緒だったと知っていたら挨拶くらいはしたかったです」眉をしかめてすまなそうに頭を下げる。探偵の彼女はヴィナに手を振って気にしないでよ、と微笑む。
「あの娘に頼んでおくよ。チョコレート食べる?」
いつの間に持ち出したのか彼女は制服のポケットからいくつかチョコレートを取り出した。レースに負けず劣らず美しい包装に包まれている。
「綺麗ですね。でも、申し訳ありません。私、野菜と果物しかいただかないことにしています。あなたも気をつけたほうが良いですよ」
そう言って、ヴィナは優雅に微笑んだ。「そう?美味しいのに」彼女は残念そうだが無理にあげる気はないようだ。ヴィナはにこやかにレースが編みあがるのを眺めている。もうしばらく立ち去る気配はなさそうだ。
「ごきげんよう、ヴィナ先生」
そう挨拶が聞こえて振り向くと、砂糖菓子の少女がわたし達のテーブルに近づいてきた。「先生は本日とてもお忙しいのだと思っていましたわ」わざとらしくまばたきをして首を傾げている。お茶会が終わるにしては少し早い。
「ごきげんよう、お茶会のお誘いを受けたのに申し訳ありません」先程と同じようにヴィナがすまなそうに顔を歪ませる。
「えぇ、わかってます。汚いものなんて口にしたくないって気持ち良くわかります。それ以上汚れたら困りますものね」
砂糖菓子の少女が柔らかな笑顔を浮かべて囁くような小さな声でそう言うと、ヴィナは大理石でつくったような笑顔を保ったままで静かに私たちの元を離れていった。
ヴィナが食堂を出て行くと、珍しく黙っていた探偵の彼女が、ぶふっと、大きく笑って吹き出す。しぶきが飛んでレース編みの少女が慌てて彼女のそばから離れる。
「きったないわねー」
心底嫌そうな顔をして砂糖菓子の少女が探偵の彼女を見下ろす。
「だって、ねぇ」
さっきのヴィナとのやりとりが気に入ったらしく彼女は笑いの発作が止まらない。
「珍しいじゃない。どうしたの」
わたしもさすがにあそこまで言うとは思わなかった。砂糖菓子の少女とヴィナがうまくいっていないのは気づいていたけれど。
偏狭的なベジタリアンのヴィナとしては毒物としか思えないお菓子を学園中に配り歩く砂糖菓子の少女が許せないのだろう。ことあるたびに、ヴィナは砂糖菓子の少女が汚らわしい毒物を配り歩いていると婉曲に咎めている。見ている分には彼女たちのやりとりは興味深い。砂糖菓子の少女もヴィナも綺麗に包装されたチョコレートたちが禍々しい毒物や汚らしい豚の餌にしか見えないという貴重な共通点を持っているのにお互いに対しては微塵も親近感を抱けないようだ。
まあ、わたしもさしてヴィナには興味がない。
「少し困ったことになって。焦っていたのよ」
愛らしい眉を寄せてどさりと椅子に腰掛ける。公の場にもかかわらずいつもより幾分素の彼女が出ているようで、砂糖菓子の少女にしては本当に困っているようだ。
「一緒に来てくれない?探偵さん」
そう言って砂糖菓子の少女はこの上なく愛らしく微笑んで見せた。
砂糖菓子の少女の部屋には一歩入っただけでツンと鼻につく酸味のある匂いが充満していた。そこに甘ったるい匂いが混ざるものだからわたしも少し吐き気を覚えた。
「なんでこんなことになったのよ」
さすがに硬い口調で探偵の彼女が問いただす。わたしも同感だった。いくらなんでもこの短時間でこれはない。
「知らないわ」
そう言って砂糖菓子の少女が肩をすくめて手を広げる。わたし達の不快そうな表情を見て、逆に彼女はだいぶ落ち着きを取り戻したようだ。彼女の微笑みから困惑したような色はすでに消えている。
「さっき、あの子たちが持ってきたケーキがあったじゃない。あれを食べたいっていうから切ってあげたのよ。その結果っていうわけ」
そう言って、彼女は部屋にぶちまけられた吐瀉物とその元となった少女たちに目をやった。彼女の部屋には先ほどわたしたちと入れ替わりで訪れた四人の少女が倒れていた。
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