第5話

 カエルの王子は深い森の中には現れない。

 あんな薄い皮膚だったら森の中で自分を守ることさえできないだろう。

 

 グレースが小走りに去るときに「あなたはわかったようね」とわたしにウィンクをしていたずらげに微笑んだ。「知りたいわ」と眩しすぎる大きな瞳を寄せてくる彼女を落ち着かせ、仕方なくわたしは心当たりのある場所へ彼女を案内することになった。

 塔とは反対側のこの小道はわたしも含めてほとんどすべての少女は利用しない。今の季節には小道の周囲にはナデシコやヤマハギがささやかな花をつけているにもかかわらず、できるだけここを避けて通ることにしている。


 恐れるほどではないけれど、少女としては耐え難い出来事が度々起きているからだ。


 歩きながらささやかに忠告をしたつもりであったが、この道でも彼女はとてもくつろいでいるように見える。学園と外との境界にある柵を時折弾くようにしながら左手をリズミカルに振って歩いている。彼女の歩く速度に合わせてカツーンと、軽い音が響く。


 私は不自然ではない程度に彼女から距離をとって歩いた。


 なぜなら。


 ぐじょり、という鈍い音とともに彼女の頭の上にそれは降ってきた。そのままバウンドしてわたしの目の前に降り立つ。ぬるりとした暗緑色の皮膚はブツブツとしたイボに覆われている。しばらくこちらを見つめた後、ピョンと飛んで道をそれた。巨大なイボガエル。わたしは息を止めたままそれがいなくなるのを待った。人は驚きすぎると悲鳴も上げられないものだ。


「なんでカエルが空から降ってくるのよ」


 怒りを込めた目で彼女がわたしを見る。注意して歩くように一応言っておいたが不十分だったようだ。わたしに対して怒りをぶつけているのではないのだろうけれど、なかなか迫力のある眼差しで思わず言い訳がましく説明する。


「近隣の子供達がときどき柵の向こうから投げ入れるの。わたし達が泣きわめくのを見るのが楽しいんでしょうね」

 だから嫌だったのだここに来るのは。ある意味この場所は一番外に近い。誰でもこっそり近づいて、柵の向こうからとはいえ、この学園の中を覗き見ることができる。

 彼らは今もその辺に隠れてこちらの様子を見ているに違いない。

 

 飽きもせずよくやるものだと感心する。私がここに来た頃から続いているから代替わりして続けているのだろう。一種の伝統とも言える行為だ。彼らが私たちのことをどう思っているのかは正直よくわからないけれど、決して尊敬の念を抱いているわけではないのだろう。彼らにとってはこの学園自体が「謎」の塊なのだろう。だから謎を知るための唯一の窓口としてここを大いに活用しているに違いない。

 もちろん、わたしたちにとってもこの小道だけがある意味「外界」との唯一の接点と言える。カエルに怯えてキャーキャーと走り回るわたしたちは、その瞬間は外にいる人々ときっと何の違いもない。


 ふーん、と言って彼女はしばらく黙った後、いきなり足元のカエルをつかんで柵の向こう側に投げ返した。ドサッという音と同時に数人の少年たちの悲鳴と逃げ出す足音が聞こえた。


「勝った」


 誇らしげに彼女は胸を張った。


 外では素手でカエルを掴んで投げ返すのが本来のやり方だったのだろうか。キャーキャー逃げ回っているのが普通だと思っていたなんておこがましかった。


 カエルをつかんだ手でそのまま長い髪を払った彼女を見てもう一歩だけ彼女から離れることにした。


「怖くないの?」


 毒もないのであれば不必要に怖がる必要はないとわかっていてもあの形状のものにはわたしはできれば近づいてきてもらいたくない。


「全然。弟のやつに散々投げつけられたり、カバンに入れられたりしたからすっかり慣れちゃった。ただあのサイズがあんな上から落ちてくると首が痛い」


 カエルだって無理やり投げつけられて落とされれば時には死ぬのだろう。生臭い匂いがこのあたりには漂っている。小道から柵に近づいてみると、柵の上部には干からびて得体の知れない物体となったカエルらしきものがいくつか引っかかっていた。足元でなんだかぬるりとした妙な感覚があったからよく見てみたら腹部が避けたカエルがいくつか残っていた。結構気に入っていた靴なのに。


「そっちこそ良く平気ね」

「平気じゃないわ」

 そう答えたのに、彼女はわたしに笑顔でうなずいてから「さすが探偵の助手。一日はまだ長いから頑張ろう」


 彼女は、さて、と言って腕を組むと「カエルの王子様ねー」と柵の前で首を傾げた。木漏れ日が彼女を照らし出すように差し込み、光を帯びたさらりとした黒髪が彼女の頬にかかる。ほんの一瞬前にカエルを投げつけていたとは思えないほど優雅に見える。


「グレースがほのめかしていたのはこの辺りで間違いないと思うわ」

「そうね。しかもあの子達がここまで来るってことは柵の向こう側には道があるってことだもんね。侵入者にとっては最適な場所ね。向こう側からなら梯子でも持ってこれば乗り越えるのも無理じゃないし。逃げるときは縄とか描けるのかしら・・」

 真剣に悩んでいるようだ。

「実際そんなところでしょ。森の中に梯子を隠していたってそう簡単に気付かないもの。ねぇ、今日はそろそろ戻らない?そう簡単に侵入者なんて見つからないでしょ」

 足元に点在するカタバミの葉が閉じかけている。日暮れまでもうあまり時間がないだろう。

「うーん。見つけるっていうか・・・。侵入者がきたときに見つけることができる手段は考えてみた。ただ・・・ちょっと時間がかかるかなぁ」

「じゃあ、日を改めましょう」

 空が濃い青になっている。ここからは見えないが夕焼けが始まりかけているだろう。暗くなる前にここから離れないと恐ろしいことになる。

 わたしの提案に対して彼女は少し悩んだあとに突然大きな声で叫んだ。

「ねぇ、こっち来て手伝ってよ」

 突然何を言っているのかと困惑するわたしをよそに彼女は続ける。

「だって、さっきのは明らかにわたし達の勝ちでしょ」


 がさり。柵の向こうの森の茂みの中で何かが動き、わたしは思わず小さく悲鳴をあげる。森がこちらに向かって寄ってきたのかと錯覚した。

「何でまだいるってわかったんだよ」

 立ち上がったのは学生服を着た少年だった。

「わかるわよ。それくらい。ほら、手伝ってよ。あんた一人だけ?」

「言っとくけど、俺は負けてないからな。逃げ出しもしなかったし」

「いいわ、引き分けにしといてあげる」

 彼女がにこりと微笑んだ。その笑顔を見て少年が口ごもり、わずかに彼の頬が赤くなる。

「ま、引き分けならいいけどさ。で、手伝うってなにすればいいんだよ」

 どうやら契約は成立したようだ。


「3人でやれば簡単よ」


 わたしと少年を交互に見て彼女は自信満々に微笑んだ。


 確かに服が汚れることさえ厭わなければ至極簡単だった。柵の一本一本に泥を擦り付けていく。もし誰かが柵を乗り越えようとしたらそこだけ不自然に擦れたようなあとが残る。とてもシンプルで確実な方法。それだけだけれど、聞いた瞬間にげんなりした。


「明日でも構わないんじゃない?」

 もう一度確認してみた。彼女の頑なさに呆れ始めてもいた。子供のように始めたことだけにに固執するのでは面白くもなんともない。


「ダメよ。秘密は秘密のうちに見つけないと」


 彼女は柵の向こうを見つめたままそう呟いた。わたしへの回答のつもりでもなかったのかもしれない。その瞳にはわたしも少年も写っていないように思えた。横たわる秘密の匂いをかぎ分けようとする自分自信への説明として言葉がもれたようにも見えた。


 彼女は自分の他に秘密を暴こうとする好敵手でもいると思っているのだろうか。そして、ここにあるたくさんの秘密を彼女はすべて暴きたいのだろうか。秘密という快楽に少女たちが溺れているその深さを知ったら彼女はどうするのだろうか。少女たちに共感して満足を得るのだろうか。


 わたしはこの時ようやく真剣に彼女に協力することに決めた。


 ここまでは正直、好奇心で依頼した責任感と彼女に対する興味だけで付いてきたようなものだった。


 彼女が一枚一枚秘密の皮を剥いて行ったあとに何が残るのか見てみたいと強く思った。あの朝感じた胸の高まりと同じだった。閉ざされたこの学園で彼女だけが新しい世界に導いてくれる存在気がした。


 そして、干からびたカエルや、まだヌルヌルとカエルの体液が付着している柵を一本一本確かめながらわたし達は自分に割り当てられた箇所に丹念に泥を塗っていった。初めは気にしていた足元に転がるカエルの死骸はだんだん気にする余裕もなくなり、時にはまだ生きたカエルを踏みつぶすこともあった。この作業が終わったら今着ている制服と靴はすべて新しいものに取り替えよう。そう決めた。


「しっかし、なんだってこんな立派な柵でわざわざ学校囲ってんだよ。こんな田舎で」

 柵の向こう側から少年が苦笑まじりにぼやいた。文句を言いながらも作業は正確で手は抜いていないようだったから、特別に教えてあげた。

「本当は柵じゃないわ。檻よ」

 彼はその時初めてわたしの存在に気づいたようにこちらを見て瞬きをした。そして私と彼の間に横たわるこの冷え切った檻の冷たさに怯えたように手をわずかに浮かせた。


 何かから守られているわけじゃない。閉じ込められているのはわたしたちなのだから。


 なんとか日が完全に落ちきる前に作業は完了した。


「よし」


 彼女がそう言って、森に向かって手を差し出した。少年はわたし達との間を区切っていた物理的な隔たりがなくなったことに少しだけ戸惑ったような顔をすると、「じゃあ、俺もう行くぞ」と言って後ずさりした。

「まだいいじゃない。それよりこの道ってどこまで続いているのよ?」


 彼女は構わず笑顔で少年に話しかける。細い彼女の体はもしかしたらここからすり抜けることができるんじゃないかと思わせた。それくらい、彼女は森に馴染んでいる。少しもここから外に出て行くことにためらいはないようだ。彼女の腕とこちら側に残っている彼女の体はすでに黒い線で断ち切られた別々の物体のように見えた。わたしは森に興味を示して手を伸ばそうとする彼女のことを見ないようにして、グレースが笑いを噛み殺しながらそっとカエルの王子を中に招き入れる様子を想像した。どんなに明るい色彩だって森のそばでは青い影に飲み込まれてしまうだろう。青い影と一つになったグレースがやはり微笑みをたたえたまま柔らかな芝の上に横たわる様子も目に浮かんだ。なぜだか彼女の夫の顔はちっとも思い出せなかった。


「ねぇ、先生方には伝えた方がいいかしら」


 そう言いながら、わたしはちらりと少年の方を見た。せっかく見つけた秘密はもう少し大事にしたい。彼女だって同じ気持ちだろう。


「うーん、じゃあ季節が変わるまでに噂が消えなかったら報告する」


 それで十分だった。


 そして、この日から3週間後に犯人は捕まった。グレースの旦那さんだった。彼はある少女の部屋に忍び込み待ち構えていた警備員に取り押さえられた。俺は誘われただけだとつぶやく声はとてもみじめで物悲しかった。


 その翌日に荷物をまとめて学園を去るグレースを目にした。転校生の彼女が声をかけたがグレースはうつむいたまま顔をあげることはなかった。わたしはグレースのお腹の中の膨らんだ物体がこれからどうなるのかだけが気になった。そして、学園から色彩が消えてしまったのはやはり少し寂しかった。この学園の中で残された色彩は塔の中の夕暮れだけかもしれない。


 その夜、塔でのお茶会の日に彼女とわたしは他の二人の少女にことのあらましを説明した。


「さすがね、探偵さん」

 砂糖菓子の少女がそう言ってにっこりと微笑んで続けた、

「探偵さんのおかげで誰かがきっと幸せになったのね」

 言われた彼女は軽く肩をすくめて、

「そうね。グレースは気の毒だったけど。仕方ないよね。彼女は魅力的だしきっとすぐに新しい幸せを見つけることができるよ」

 そう言って、お茶を飲むと、

「人って忘れることができるから」

 と、微笑んだ。砂糖菓子の少女は穏やかに見える貼りついた笑顔を浮かべたまま「そうね、あなたは何でも知っているのね」と言うと、黙ってお茶を飲んだ。

 新入生の彼女は長い黒髪をゆすって少し肩をすくめてわたしにだけ聞こえるように囁いた。「さっき見に行ったらやっぱり柵に泥がとれたあとが残っていたわ」わたしは黙ってうなづいた。


 レース編みの少女はいつもお茶会の間に編んでいる花柄のレースをテーブルに置くと、小さな柄がきっちりと詰まった網目のものを取り出して編み始めた。このレースの柄を見るのはとても久しぶりだった。彼女の兄という人から分厚い手紙が届いた時以来かもしれない。


 わたしは窓から見えるぼんやりとした白い月の下で待ち人が来ずにぼんやりと佇んでいるのはどんな気分だろうかと考えていた。


 こうして探偵の彼女は塔の新たな住人となった。

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