第2話

 夏の日差しが遠くなり、秋風が吹き始めた頃に彼女は森からやってきた。


 わたしの部屋は学園の中で一番の森側にある。外と学園の間には広大な森が広がっていて、そうやすやすとは外に出ることができない。侵入者を防ぐというよりは、わたし達少女を閉じ込めるための檻みたいなものだ。


 森は人を誘う。


 森は生命が生まれる場所だってよく聞くけれどそれだけではない。同時に膨大な数の死を含んでいる。輝く朝の光の中で言葉たくみに誘い込み、夜まで逃がさない。一度閉じ込められたらもう二度と森からは抜け出せない。体だけでなく心も奪われることになる。おとぎ話の主人公たちのように。


 だからわたし達は決して森には立ち入らない。


 その日、朝の礼拝が始まる前に部屋のバルコニーから森を眺めていたら一台の車が森を抜け、学園に向けて走ってくるのが見えた。物珍しくてそのまま見ていると門の前で止まった車から数人の大人とともに一人の少女が降りてきた。顔も見えないような距離だったけれど、彼女の長い髪が風になびき、ふとこちらを見上げたように思えた。なんだか盗み見でもしているような罪悪感を感じて慌てて部屋の中に戻った。久しぶりに胸が高鳴った。遠い昔に感じた何か特別なことが始まる予感のようなものがわたしの中にあふれていた。


 ある時いなくなる少女は珍しくないけれど、新たに入ってくる少女はほとんどいない。ここに来るのは生まれた時からここに来るように運命づけられた少女たちばかりなのだから。


 そっと部屋のカーテンを閉め直しながら、わたしはまだ先ほどの余韻が自分の中に残っていることを確信していた。遅かれ早かれ彼女とは知り合うことになり、きっと特別な風がこの学園に吹き始めるに違いないと。


 いつも通りの礼拝が終わり、教室で授業が始まるのを待っていたら教頭先生に連れられて彼女が現れた。教室の中がざわめく。隣の席の砂糖菓子の少女がそっとわたしの耳に口を寄せる。「あの子、森から来たんだって」知ったような目をして囁く呼気とともに漂う甘い香りが少し不快だった。


 教室の中の囁きが収まらない。誰もが彼女に注目して波のような囁きを繰り返している。レース編みの少女だけはちらりと彼女を見た後はいつも通りうつむいて白い美しいレースを編み始めた。初めてみる新しい柄を編みこんでいる。


 転校生の彼女はとても美しかった。真っ白な肌と長い黒髪が彼女を包んでおり、黒い大きな瞳には誰もが吸い込まれそうな気分になるだろう。わたし達のものと全く同じ紺の制服を身につけているのに彼女だけは何か特別に思えた。彼女の席はわたしの前だった。くるりと振り向いた彼女は「よろしく」と一言だけ言った。


 午前の授業が終わったあとも、普段大人しい少女たちですらたくさん彼女の周りに集まって離れる気配はなさそうだった。彼女は如才なく笑顔で様々な質問に答えていたけれど、さすがにこれ以上続くと彼女が疲れるかと思ったところで学園内を案内してあげると言って連れ出した。


 「ありがとう、助かった。転校生になるのは初めてじゃないけどこんなに興味津々で見られるのは初めてだよ。そんなに珍しい?」

 日差しの中でまるで猫のように気持ちよさげに彼女が体を伸ばす。

「そうね。この時期に来るのはすこし珍しいわね」

「しばらく続くかなぁ」

 本当に嫌そうに思いっきり眉をひそめる彼女が興味深かった。口を開いた彼女は見た目の人形のような雰囲気とは異なり表情豊かだ。今朝、門のところに降り立った少女とは別人のように見えるくらい親しみやすい雰囲気を纏っている。ともに歩く彼女の長い髪からは風になびくたびに深い森の香りが漂ってきた。

「あなた、今朝森を抜けてここに着いたわよね?」

「そうよ、結構早い時間だったのに見てたんだ。いいところね、あの道。天気がいい日に歩いたら最高でしょうね」

 驚いた。森に対する恐れを知らない彼女の屈託のない明るい笑顔が必要以上にここの少女たちを引き寄せるのかもしれない。

「そうね」

 彼女にうなづいて見せながら、「何も起きなければいいけど」と心の中でつぶやいた。どんな楽園でも、よそからきた異分子により調和が乱されることで崩壊してしまうことが太古の昔から決まっている。楽しげにきょろきょろと周囲を見回しながら歩く彼女を盗みみる。朝に感じたあの不思議な高揚感がまた湧いてくる。

 薄暗いこの学園にほんのり色が差したような気がした。


 ひととおり校舎の中を案内して、中庭に出たところで道の向こうからカラフルな女性が歩いてきた。

「ハイ!あなたたち、元気?」

 妊娠7ヶ月目の大きなお腹を抱えて小走りでこちらに近寄ってくるのは華やかなワンピースを着たグレースだ。語学を教えてくれる彼女はこの学園では珍しく、毎日外から来て外に帰っていく。妊婦のため先生用の制服が入らなくなり、普段着でここに通っている。モノトーンのこの世界で唯一色彩をまとっている彼女は服装に負けないパワフルな笑顔の持ち主だ。

「あら、あなた見ない顔ね」

 グレースは近づいてきてようやく彼女に気がついた。グレースはこの学園の先生たちの中では稀有な存在だ。いつも晴れやかなオーラが漂っていて、閉じられたこの学園の中でただ一人わたし達に新鮮な外の空気を運んでくれる。

「彼女、今日転校してきたんです。学園内を案内しているところです」

「はじめまして」

 転校生の彼女がにこやかな笑顔を浮かべて挨拶をする。

「生徒が増えるのはいいことね。みんなに外の世界のことをいっぱい教えてあげてちょうだい!代わりにわたしがここでのやり過ごし方を教えてあげるから、いつでも遊びに来てちょうだい」

 そう言って朗らかな笑顔を振りまくとグレースは来た時と同じように小走りで去って行った。転校生の彼女も笑顔で手を振って見送りながら、

「元気な先生!彼女の授業が楽しみだな。語学だっけ?」

「そうよ。唯一、眠らないですむ授業よ」

「わかりやすい教えありがとう」 

 わたしもグレースの授業は結構好きだが、ここ最近はどんどん膨らんでいく彼女の腹部が気になってしょうがない。彼女のお腹の中に彼女とは違う小さなものが生きているのはとても興味深い。

「ねぇ、子供を産むのってどんな感じかしら」

 グレースを見送りながらふと思ったことを口にした。わたしにしては珍しい。

「欲しいの?さすがに早くない?大変でしょ」

 彼女は生真面目にそうこたえて、「うちは弟がいたからなんとなく弟が生まれたときのこと覚えてる。初めて見た時はなにこれって思った。なんか潰れた顔した小さい生き物」

 弟の話題になるといくらでも話せると、彼女は笑った。


 彼女の小さな弟のいたずら話を聞きながら笑いあううちに、午後の授業の時間が迫ってきた。教科書をとりに一度寮に戻る必要があるというので来た道とは異なる道を通ることにした。この道は寮と校舎を行き来するのに便利な割にほとんど利用者がいない。先生達ですら先ほどのグレースのようにわざわざ迂回して中庭を通る道を選ぶ。森が迫って見えるせいだろう。この学園の人は先生だって心のどこかで森を恐れている。


 体は森の中に閉じ込められていても心だけは森に奪われたくないからだ。


 彼女はちっとも森を怖がるそぶりは見せずむしろ木漏れ日の中を心地良さそうに歩いている。確かに昼間の森は美しい。こんな天気の日は、差し込む日差しを受けて森の木々はとろけるように美しく、風にさわさわと揺れる葉は何の秘密も隠していないように思えてくる。でも、どんな時だって森への警戒はといてはいけない。さもないと木々の根本に転がる死体となると気づいていたとしてもわたし達は森に吸い寄せられてしまう。美しいからこそ恐ろしいことに彼女はまだわかっていない。それとも、彼女くらいの美しさを身につけたら森も味方になるのだろうか。世界で一番美しかった白雪姫のように。

「ねぇ、あれ何?」

 もう直ぐ寮が見えてくるあたりにある小さな脇道の向こうを彼女が指差した。それは、ほとんど森に飲み込まれるような場所に建つ塔だった。

 忘れられるためにあるように前面を蔦に覆われて人に気付かれないでずっと長い間こうしてたたずんでいる。かつては礼拝の時刻を知らせるために使用されていたようだが今は何にも使われていない。窓枠の上部に曇ったステンドグラスがはめ込まれているのが唯一当時の名残を思わせる。

「じゃあ、中に入ることができないんだ」

「鍵を持っている人だけは入れるわ」

 わたしはただ事実だけを述べた。そもそもこの塔に興味を持つ少女はほとんどいない。先生方ですらここにこんなものがあることなんて遥か昔に忘れ去っているだろう。ふーん、とつぶやきながら名残惜しそうに時折振り返りつつ歩く彼女に対して初めて優越感を覚えた。

「ねぇ、中に入ってみたい?」

 わたしは足をとめてそう言っていた。

 彼女は驚いたように目を開いてこちらを振り向いた。木漏れ日の中で初めて彼女はわたしをまっすぐと見つめてきた。わたしも彼女の大きくて深い黒い瞳をまっすぐに見つめ返した。吸い込まれたら二度と出てこれないような黒い瞳だった。


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