2.5 剛と柔

 ◆ 


 ヴァネッサは極力音を立てずに木製の扉を開け、中腰になって入っていく。彼女には、洞窟に入った経験があるが、ラクトには無い。彼には、この淀んだカビの臭いや所々に生えるキノコの不気味さがますます陰湿に映る。

 直線の道を行くと、緩やかな傾斜が側面についている、ちょうど螺旋階段のような形状の空間に出会った。普通に降る分には、ただ足を滑らせて中央へ落ちないように注意すればいいのだが、今は隠密行動中だ。転倒はおろか、足摺りによる発音も許されない。

 下へ下へと降りていく最中、話声が聴こえてきた。先攻していたヴァネッサが後ろのラクトに合図をして、音を立てないよう十二分に神経を集中させるよう要求する。しかし、それが間違いだった。

 重度の緊張と心的外圧が、ラクトの足に思わぬ震えを引き起こした。制御できなくなった体。他人の足が腰から生えてきているような感覚が運動神経を余計に錯乱させ、あらぬ方向につま先が向く。

 こつ、こつ、こつ、こん……。

 小石が穴の底へと吸い込まれていくと、盗賊達の注目がそれに移った。


「ん? ……なんだ、石ころか」

「おい、そんなちんけな問題じゃないぞ。第一保管庫を見てこい。落石はこうやって始まるんだからよ」


 気力の“き”の字も感じられない返事をした男が一歩、また一歩と坂を上ってくる。ヴァネッサがラクトに対してしゃがむよう手であらわし、自らも壁によってますます姿勢を低めた。

 その時点から登ってきた男の頭を短剣の柄でしたたかに叩いて気絶させるまでの時間は、とにかく空気が水晶のようであった。固く、透き通ってはいるが次の展開が濁って不明瞭だ。

 ヴァネッサは男の後ろで事を進めたので、下で談笑している男たちからすれば“道草を食っている”ようにしか見えなかっただろう。しかしさすがに卓上に男の体が落ちてきたときには異変に気付いていた。


「おわ! なんだよ……」

「もっと上の位の者と話をつけたい」


 この場には不釣り合いな白の服が、数人の山賊の目に映る。いきなり場は雑然とした。しかしすぐに彼らは混沌に順応し、一人は長机を倒して盾の役割を託し、他の者は各々の武器を手に取り、雑言を交えながら上がってきた。その中には、先ほど小さな石が落石になるのではないかという心配をしていたものが、自分を予言者だと言いふらす声もあった。

 ラクトはうつ伏せになりながら這って後ろに下がる。前方のヴァネッサは後ろに十分な空間があることを確認すると、背負っていた大剣を構える。ちょうど時を同じくして先頭の賊が双斧を回転させながら襲いかかってきた。一振りのみで回る斧を止めると、驚く相手を剣先で突く。刺撃よりは後ろに押し返すことを狙っており、果たしてそれは上手くいった。胸に鉄板を埋め込んでいたらしく、後ろによろめいて後続の男二人にぶつかる。

 その後ろで存在感を殺しているラクトは、そうしながらも戦況を確認していたのだが、彼は倒れた机や武器のある螺旋の底に最後までいる男を観察していた。剣を交えず、かと言って逃げもしない彼は、一体何がしたいのか。その答えはヴァネッサが二人目の剣士を軽々倒した直後に分かった。

 傾いた机から顔だけ出しているかと思うと、やがて両腕と、矢を引き絞った弓も見えてくる。狙いは一人しかいない。


「左から矢がくる!」


 その言葉に従い視線を横に掠める。彼女はまた、同時に両手斧を扱う山賊の対応にもおわれていた。自分にも闘いの才があればと、非力な者に共通する悩みを感じるが、その心配は無用であった。

 剣を左に持っていき、盾にすると、下半分の剣を折って取り外し、正面の相手の喉に突きつけたのだ。剣の上刃部が正確に矢を跳ね返し、下刃部が敵の戦意を挫く。

 懐に入ると、ヴァネッサは下から拳を突き上げて、顎に衝撃を送る。流れるような身のこなしが蛇の邪慳な狩りを、その中に垣間見える猛りが虎の剛健さを思い起こさせる。


「た、大変だぁー!」


 そこまで遠くもない人間に矢が当たらなかったばかりか、反撃として仲間を独り失ったのだから、“大変”でないはずがない。射手が逃げ去ったのを見て、ラクトがのろのろと立ち上がる。


「いまは急ぐべきだ」


 ヴァネッサが視線と毅然とした態度で先へと牽引する。自分の助言で矢に気付けたのかもしれないのだから、少しくらい礼があってもいいのでは、と感じたが、もちろん彼にとってはこんな陰鬱な場所に取り残される方が嫌なので、不満を押し込んで後を追う。


 ◆


 男が逃げた先は、これまた洞窟以外の何物でもない通路だった。後に引くこともできず、相手の待つところにただ入っていくのは危険も臭わせるが、それを見事に克服していくのがヴァネッサだ。

 見ると、人が二人ほどしか並べない幅に、数十人の山賊が列をなしている。そして、


「ぐわぁ!」


 「友の仇」と号し、襲ってきた向こう見ずな男がやられると、手前の衆は後退していく。どうやら彼らの後ろにはかなりの人数を収容できる空きがあるようだ。


「ヴァナ、罠かもしれないよ。どうして行くんだい」


 小声でその意中を訊ねるが、その声が小さすぎて耳に入らなかったのか、ヴァネッサは無視して大股で進む。

 剣を小さく構えて入っていくと、広々とした場に出、視界が広がる。湿り気がある点を除けばそこはまさに集会場だった。正面には一人だけ椅子に座る人物がおり、壁の周りには部下がびっしりと立つ。


「ドーハ! 行け」


 親分らしい男が何やら一言発すると、隣に立っていた大男が歩み出る。手には両手剣を持っており、防具と言えるようなものは一切着ていない。

 どうやらヴァネッサの腕試しをするようだ。そしてその親分が彼女に向かわせたのがこの大剣男だった訳だ。

 状況を飲み込むやいなや、ヴァネッサも自身の剣を構える。と同時に、巨躯からは予想だにしなかった速度で相手が距離を詰める。しかし動じず、相手が左に剣を向けた状態の、いわゆる“士の構え”をしているのを確認し、己の構えを決める。

 そしてこちらは予想に沿う形でやってきた典型的な攻撃に、これまた型にはまった防御法で対応する。二戦士の武器が接触したバインド状態へと突入すると、今度はヴァネッサが仕掛けにかかる。鍔に近い部分で競り合っていたのを利用し、一瞬に力を込めて相手の体もろとも押し出す。

 相手から見れば枝のようなその細身からは到底出すことはできないだろうとふんでいた故に、瞬時に状況を判断できなかった大男はあっけなく後ろに倒れてしまう。これでは、持ち前の素早い行動も役に立たない。すでにヴァネッサの剣術が、彼を制していたのだから。


「もう良い。下がれ」


 今度の標的は代表格らしき人物である。手には両手斧を持っているが、先ほど相手した同じ武器を持っていた下っ端とはやはり格が違う。斧の持ち方から一定の目線を保つ眼力、殺しをためらわない意志の強さ。外見だけで分かる。


「そおら!」


 相手が突然斧を脳天に上げ、一気に地に振り下ろす。


「さあ、かかってこい!」


 威嚇らしいが、彼女にはこれでわかった。相手が、剛を軸に戦うものだと。新たな情報を手に、先に仕掛けたのはヴァネッサであった。

 剣の殺傷範囲にぎりぎり相手が入ったところで、剣の構えを突如変更する。すると山賊の親分の両手斧での防御とその先の反撃があらかた決まってきたところに変化が加わってしまう。瞬時に防御の仕方を変えるが、反撃は望めないだろう。いよいよヴァネッサが先ほどの威嚇のように上から落とすようにして攻撃をすると、周囲に重い音が響く。親分の位置がわずかに後方へとずれるが、なんとその重厚な一撃を立った二本の腕と斧の柄だけで防ぎきっていた。


「そうとうな手馴れ、そして腕力!」


 普段ならば戦闘中に感銘を受けるなど言語道断でしかない上に、まず感動すること自体稀であった。親分がそれを聞き、少し瞼を細めるが、斧は全く沈まない。それどころか徐々に押し返している。

 一度の戦闘で二度も感動をしたヴァネッサであったが、目的はそれではない。剛には柔を使え。小さいころ教わった故郷での戦闘の基本である。彼女は剣がはねのけられない程度に力を保ちつつ、柄を上に上げた。そのようにして作用点の切先が敵の肩を突くという技だったのだが、あと一歩のところで斧で払われてしまい、戦況は振出しに戻った。

 こうなってはのんびりしてはいられない。両者ともに相手まっしぐらに進む。今度もまたヴァネッサが先攻する。低い姿勢で両手を伸ばし、一気に前方へ剣を押し出す。その一撃は間もなく振り上げられた斧にはじかれ、逆に斧からの反撃を誘う結果となった。そして――

 親分が決して健全とは言えないような笑みを浮かべると、威嚇の時と同じようにして斧を振り下ろす。剣一本でうけるには強烈すぎる一撃であったが、ヴァネッサは瀟洒に受け止める。相手がこちらを二度もおどろかせたのなら、私もそうしなければと言わんばかりしたり顔が表れたと思うと、そのまま親分へと体当たりをし、斧の中間を右手でつかんだ。少しの間、両者は一歩も動かない膠着状態であったが、ふとした瞬間に親分が言った。


「負けたさ。俺が負けた!」

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