第二部:”巨人”たち
2.1 赤の巫女
◆
「イルヤークル……。つくづく思うが、不思議な響きだ。そしてその存在はもっと捉えどころのないものだな。ラクト、本当に会えるのか?」
「もう少しのはず。そうすれば赤の巫女の魔力範疇に到達する。そうしたら、僕が部分的解呪を行い、彼女の亜空間に入るんだ」
専門用語が入交っていることと、尚かつにわかには信じがたいその方法が、ヴァネッサを不安にさせる。表情を露骨に曇らせると、それに気付いたラクトただ微笑み返す。
「本当に、大丈夫なんだな?」
「相方が僕でよかったね。そうでなきゃ、絶対にこんなこと出来っこないから」
その鼻に付く程の自身はいったいどこから来るのか。不可思議極まりなかったが、今の彼女にはかえってこちらの方が安心できた。
「よし、ここら辺でいいかな。微かに燃えるような感覚を、きちんと感じる」
「恐ろしいくらいに何もない場所だ」
宿屋から西へ行くこと半日。背景は旅立った時とさほど変わらず、沙漠に近い石の多い荒野である。しかしそれと決定的に違う点は、空気が適度に湿っていることである。雨の降る沙漠。植物は生えない。風が吹いてもあまり砂ぼこりが舞い上がらないのは有り難いが、ここに来るものは皆「空に魚が泳いでいる」とか、「水の中に炎が燃えている」などに近しい、超現実を味わうことになるだろう。
ラクトが馬から降りて、地に頭を近づける。同時に掌を合わせ、数言呟く。
「フォロ・オムト」
最後の言葉は軽快で、ヴァネッサのいる位置にも届く声量だ。
「早く、こっちに。さあ!」
せかされるまま、歩を進める。ラクトの隣につくと、前方の空間が、突如として歪み、やがてそれは二人を現から突き放す。一瞬の閃光が目をくらませたかと思うと、もう眼前は、別世界だった。
◆
違和感を隠し切れないヴァネッサを尻目に、ラクトはただ自分の成功に歓喜する。二人が存在するのは、荘厳で重厚な建築だが、所々華奢な細工の施された廊下。会話の無い空間。それでも歩き続ける。“声”に指示される方へ。
〈あらあら、ずいぶんと不釣り合いな二人組がお尋ねになったものね。歓迎するわ〉
その声の持ち主は、その後は向かうべき方向しか示さなかったが、無駄を一切省いたその指示は、人を操るには最適で、従うしかない者にはありがたかった。
数百歩程歩いたときであろうか、魔法にとっては門外漢のヴァネッサにもわかるほど豪快な魔力を発する石碑に出くわす。二人共、しかしその細部までは見ることはできなかった。またもや画面が白一色に包まれたからだ。
◆
「ごきげんよう、変わり者のお二人さん。赤の巫女たる私に何の用かしら?」
椅子に座って迎えるのは、基調の色と差し色とをそれぞれ赤、黒とした服で着飾った女性。どの文明をも感じさせない摩訶不思議な服飾と帽子も含めて、彼女はどこに行っても多くの男たちを虜に出来る魅力を持っていた。
「始めまして。赤の
「私はヴァネッサ・スペアニル。ドラト騎士団中将だ」
ラクトは部屋全体に立ち込める何とも耐え難い魔力を畏れ、あまり居心地が良くなさそうだが、鈍感な相方はそれに気付くはずもなく、ただ好奇心に流されていた。
「ところで、ここに来るまでの不思議な通路空間は、何だったんだ? 柱の彫刻は華麗だったが、一方で扉はひどく無機質だった。窓は無いし、挙句の果てには石碑が孤立して“生えて”いた」
「あら、それも、あなた方がいかに正反対の性格をしているかという証明になり得る事実ですよ」
「それって、もしや、先ほどの通路は、僕たちの好みを反映していたということですか?」
赤の巫女がご名答と言わんばかりに頷くと、ヴァネッサは異空間に迷い込んだ時のような驚きを顔面に浮き出させる。
「じゃあ、ラクト、あんたは石碑愛好家だったってことか」
この問いに対して、彼は「それじゃあヴァナは、窓をあまり好かないということか」と答える。仕返しをできたことに少し自慢げな様子だが、彼にはまだ“ヴァナ”と愛称で呼ぶのが難しいらしく、若干言葉を詰まらせていた。
「前置きはさておき、僕たちは、先日起きた魔素供給断絶事件の原因調査中の身です。魔素供給装置、マージファイスの開発者、クレインによると、どうやらそれにはあなたがたイルヤークルが関係しているようですが、何か有益な情報はありますでしょうか」
「まあ、クレイン。懐かしい名前ね。元気にしてた?」
「はあ……。少し厭世的になってしまっていましたが」
「赤の巫女殿。私たちには時間がないというわけではないのが、先ずはこの話題についての情報を提供してほしい」
この巫女には、否が応でも話に付き合わせる不思議な魅力があるらしい。それが本人の素の能力なのか、はたまた神が授け給うたものなのかは推測が出来ない。その魅力に抵抗できたヴァネッサは、流石、厳の騎士道精神を持つ者というべきだろう。
「それについて、私が知ることと言えば、マージファイスの妖が消滅したのは、黒の巫女が殺されたから。強大な力をもつ者によって」
「殺されただって?」
「そんなことが、可能なのか。果たしてそいつの正体は何なのだ」
「わからないわ。私の監視が及ぶ範囲じゃないから」
「巫女が殺された」という事実。それはラクトにはあまりにも衝撃的であった。絶対的信頼を、一瞬で喪失したのだ。絶句するのも無理はない。
「そこで、せっかくあなたたちが来てくれたことだし、一つお願いしてもいいかしら」
「是非ともお受けしましょう」
「よかった。今、私も黒の巫女のことを懸念しているの。一応代役はいるはず。星の巫女よ。私が知りたいのは、後継者が見つかったかということ」
「ちょっと待ってください。星の巫女。それは五人目の巫女ですか」
「ええ。あまり
「話の途中で悪いが、さっきから“何たらの巫女”って言っているが、名前で呼んだらいけない決まりでもあるのか。秘匿名の類なのか」
その質問には二人とも答えようとしたが、ラクトが先行して説明した。
「いや、言ってはいけないんじゃなくて、”言えない”んだ。名前を改めるようなことはないし、必要ないからね。“転生”の概念のせいで」
転生――イルヤークル達は、決して死なない。より正確に言うならば、決してこの世からいなくならない。巫女が魂を滅せられると、その日以降に生まれた、もしくは以前に、ちょうど日付が同じ日に生まれた女子が、それぞれの巫女の統治下から探し出され、入巫の儀式を受ける。拒否権は無い。見つけられた時点で、その娘は巫女の命を持つ“神聖な人”となる。名前は捨てられ、両親との思い出は未完成のまま、館にひきこもる。星の巫女からの教育と、魔宝玉による魔力の覚醒を終えると、そこには膨大な魔力と厳然たる姿勢と、悲しい過去とを背負った一人の神の使いが生まれるのだ。
「ええ。でも名前を憶えている人もいるわ。私もその一人。ナタリアっていうの」
ナタリア:古代語の「咲く」と「花」を合わせ、さらにそれを女性名詞化させた名。一般人にはわからなくとも、ラクトには多少の古代語の教養がある。少なくともナタリアという名前が、「花咲」というような意味であることは理解している。
このように、古代語が名前に使われているということはこの時代であっても珍しいものではない。古来よりの地名(たとえば、ヴァネッサの生誕地であるフィールシアのリンドアは「白の邑」という意味を持つ)はもちろん、生まれた子供を名付ける際、古代語から言葉を借りてくるといったことも往々にしてある。
「……話がそれてしまいました。本筋に戻るとしまして、もしや、僕たちの目的地は、その黒の巫女の館でしょうか?」
「ええ。そのつもりよ」屈託のない笑顔を浮かべ、平然と言い切る。しかし、これは隣町で日常品を買ってくるなどといった、単なる“おつかい”ではない。
「なるほど。だが、先刻私はラクト――いや、ロキアスから、イルヤークルたちはそれぞれ世界の端に位置していると聞いた。だとすると、私たちには二か月前後は必要だ。いくら私たちに時間があるとは言っても、其方は早急に相手方の安否を知りたいのであろう? 折り返せば4か月。担当している事件も、それだけの期間があれば流動し、さらにまた別の事件を引き起こしかねない」
自分の言いたいことはすべて代弁され、さらに“私たち”という言葉の強調を、自分への配慮もしてくれていることだと感じたラクトは少し満足げだ。
「大丈夫。私が、あなた方の足の疲労と時間は極力削減するわ」
「ここから魔力を飛ばすのか? その監視域から私たちが出て行ったら、どうする」
「いや、そんな心配は無用。空間を縮めてしまうから」
「空間圧縮! 本当に、そんな神業を体得している人がいるなんて!」
「あら、私はまだ若くとも、そしていくら監視域が小さくとも、五大巫女の筆頭。これくらいで驚かれては困るわ」
さりげない仕返しに、二人は彼女の矜持を浸蝕してしまったという罪の意識を感じ得なかった。困惑はあったが、沈黙は長くは続かない。
「そうそう。今回の依頼、ただで受けてくれとは言わないわ」
赤の巫女が魔導書の積まれた机の下から、なにやら重厚な飾りの施された黄色い箱を取り出した。息を吹きかけると、積もった埃が舞う。
「こんな神の民みたいな人の住んでいる場所にも、塵やごみはあるんだな」とヴァネッサがラクトに囁く。彼はそれを微笑みで返した。
巫女はしばらく錠前と格闘していたが、最後は得意の魔法で鍵を焼き切り、中に入っていたものを前に突き出す。
「これは……、
「本当は黒の巫女の魔力育成に使うはずの物なんだけれど、たぶんあの星の巫女のことだから、自分で調達しているだろうし。私は持っていても仕方ないから、あなたが持っていた方がいいわ」
「何とお礼をしたらいいことでしょうか……」
「そうね、これは依頼だから、普通お礼は依頼の遂行じゃないかしら?」
ヴァネッサが頤を解き、豪快な笑いが部屋に広がる。巫女も、彼の細やかなドジを見て破顔するが、当の本人は感動の余韻に浸っており、恥じる様子はない。
「そういうことか。それで貴女は黒の巫女にあまり好印象を持たなかったと」
「ええ、そうね……。おっと、私の魔法時計では、もう二人で三ヘクタ話していることになるわ」
聞きなれない単語に、彼女は聞き返す。
「ヘクタ……、何だって?」
「もうかれこれ夜の五分の一ほど話していることになるわ」
「何と! では、私たちはここで失礼するとしよう。また会える日を」
「ええ。私も」
荷物をまとめると、ヴァネッサはいまだに“報酬”に吸い込まれているラクトの肩を揺らして
「もうここを出る」
「え、“もう”って?」
「良いからさっさと身支度をしてくれ!」
何が起きたのかはわからないが、一応大慌てで準備をしているといった様子だ。最後に巫女に別れの挨拶をしようとするが、下手に気の利いたことを言おうと意識していたせいで、全く中身の無い空疎な言葉が最後の会話の大半を占めていた。
◆
「……まったく。これには驚いた。彼女、この二界を統べる重王か何かじゃないのか?」
ヴァネッサがそう比喩するものの、それは決して誇張を含んではいないらしい。今彼らが通っている道は、周囲の荒野とはおおよそ“別世界”の一本道に等しい。内部密度が極端に上昇しており、温度も際立って高い。体内からの“押し返し”が無ければ、二人はとっくに潰れてしまっていただろう。
「重王か。たしかに、その称号はこの魔力の強大さに相応しいかもね。彼女の力は、この世界の八分の一だけを守るには惜しい」
「世界を四文統治して守護しているなら、世界を守る割合は一人当たり四分の一じゃないのか?」
「魔大陸を忘れてる」
とはいえ、いくら赤の巫女直々に魔力を付呪されたとしても、この高密度空間を通常の進度で進むのは難しい。少し無理をすれば、直ぐにその代償が反映されるため、想定されていた以上の自己管理力が要求される。
「ラクト、少し馬を休ませないか? 私の重剣に加えて、こんな仕組みのわからない、慣れない空間を移動しているんだ。二匹ともあからさまな疲労の態度を見せているぞ」
ヴァネッサが背負う剣は一応片手剣に分類されるというが、彼女たちが勤めている王国で使われる一般的なそれとは比べ物にならないほどの重厚感がある。それは当たり前で、というのも、彼女の剣は二つの刃を持っており、二つの剣を合体させたような構造をしている。合体といっても、完全に統合してしまうのではなく、互いに取り外しが可能となっている。大剣にもなり、長剣にもなる――一粒で二つの味を持っているのだ。
「それがいい。いくら馬の運動能力が人間より格段に良いとしても、限界があることは否めないからね」
さっそく馬の手綱を結べる程の大きさの空間を探しにかかるが、いくら進めど一本道はそれのままである。
「駄目だ。これでは休みを取れぬまま、道端でくたばってしまう。何か解決策は思いつかないのか」
「そうだね……。じゃあ、少しここで待機してくれるかい? そのうちにこの強大な魔術を解読してみるよ」
ヴァネッサは言われたとおりにその場で地に降り立ち、ラクトがいまだになれない馬から降りるのを手伝ってやった。
することが無く、手持ち無沙汰ではあるが、この旅には必要最低限の持ち物しか持ち合わせていない。ラクトに話しかけようとも、解呪に集中しており、まともに話せる状態ではない。
今度は外に目をやる。ぼんやりと向こう側の一枚岩を見ていると、ふと疑問が浮かんでくる。この高密度空間は、外からも見えるのかという。また、出入りの可不可も謎である。とはいうものの、答えにたどり着く過程が分からないのだから、思案に暮れることもできない。結局彼女は数年前に読んでいた小説の内容を反芻し、主人公の出生から最期までを一通り解釈するなどして、実りの無い時間を過ごす。
「……なるほど!」
漸く相方から発せられた声につられ、見ると、彼は腕を外部空間に伸ばすことに成功していた。飛び出た手が、木の枝を掴む。
「この空間は、外部からの侵入は不可能に近いけれど、内部から外部へ出るのは容易い。ほら! やっと理解したよ」
「なら、うっかり外へ出てしまった場合、私たちは手詰まりだと嘆いて、そのまま地面に泣きべそかいてうなだれるしかないのか」
「どうしてそう、陰気でよからぬ方向に事態を考えたがるんだい?」
「ならもっと、
たしかに先ほどの説明だけでは、独善的という印象を受けざるを得ないが、彼女の「説明をしてほしい」という言葉は失敗である。ラクトの解説心に火が付けば、日中疑問を抱いてもどかしい思いをしている方がまだましだからだ。
「――ラクト、もう夜だ。説明はここら辺にしておいて、もう寝た方が良い。明日に備えなければ」
「なんだって? 休むなんてとんでもない。大体、発端はヴァナ、君なんだからね」
「いや、もうわかった。つまり、ここは赤の巫女の高位魔法の作り出した高次魔法空間で、内部は常に一定の体積を保っているけれど、必要とあらば内部の人間の皮膚を感知し、その空間は可能な限り広がる。一方外からは幻術で見えることは少なく、たとえ見えたとしても高密度ゆえにただの大気のゆらぎ程度にしか見えないため、気付かれる心配はない」
「うん。最低限はわかっているようだね。でも、もう少し話したいことがあって」
ヴァネッサの顔を見てみると、明らかに激情が浮かんでいる。先ほどの興味なさげな顔を比較に出さずとも、どちらが痛い目を見ることになるかは明白だ。
「さてさて、確かに一般世間の人々は、大半が寝る時刻になったね」
「最後に一つ」無理にまで寝ようとするラクトを起こし、問いかける。「この後、どうする気? 具体的に言えば、黒の巫女にあった後」
「黒の巫女及びその世話をしている星の巫女が、先代の黒の巫女を殺害した犯人を知っている場合、事はすんなりと進むけど、もし知らなかった場合……、いや、それでも犯人の情報がまるでないということはないだろうから、明日に任せよう」
「もし、なにも収穫が無かったら?」
「ここに、土の宝玉がある」
ラクトの顔には、気を病んでいる様子は微塵もなく、純粋にその宝を手に入れたことを喜んでいた。しかしこれでは、確かにヴァネッサは「陰気でよからぬ方向に事態を考え」るが、これは彼女なりの危険に備えるための工夫で、尚且つラクトへの仕返しなのかもしれない。理屈に縛られた冗長な解説への。
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