第37話 終幕

 そこは、見覚えのある内装の部屋だった。

 しばらくして思い出す。ここは、ガシェーバの街の天側の代官所だ。クライトは重い躰を動かして寝具から起きた。

 魂の光は見えなくなっている。焼き印も静まっていた。

 試しに魔法を使った。何事もなく机が持ち上がる。その脚を切ろうとしたが、魔法は発動しなかった。呪文を呟いてまた試す。今度は机の脚に小さな傷が入った。

 魂に働き掛ける力は元に戻っていた。

(イビ、俺が寝ている間に何があった)

 返答はなかった。背中の焼き印に触れたが、以前との違いは分からない。

 扉の開く音がした。

 シアルが、部屋に入ってきた。

「あ、起きてる」

 シアルの顔色は少し良くなっていた。まだ顔も躰も痩せ細っているが、微かに肉付きが良くなっている。

 血の臭いがした。

 幻臭。シアルの眼が向いている。何も知らない純真な眼が見つめてくる。クライトは眼を逸らした。

「もう大丈夫なのか」

 シアルが微笑んだ。

「それ、こっちの言葉なんだけど」言いながら、シアルは寝具の傍らにある椅子に座った。「それで、何があったの?」

「特別なことは何も」

「そんなわけないでしょ」

「世の中、不思議なことはいくらでもある」

 シアルは小さく息を吐いた。

「別に、他の人に聞いたって良いんだよ」

 答えに窮した。何を語る。真実を告げるのか。シアルを助ける為に、何人もの人間を殺した、そう言うのか。

「誰に聞いたって同じことを言うよ」

 モレットは部下に戒厳令を敷いているだろう。モレット自身も話そうとはしない筈だ。

「私は、クライトの口から聞きたいの」

「今言った」

 真実を言えば、シアルは人殺しの重荷を背負うとするだろう。ようやく健康になろうとしているところに、それを背負わせるのか。

 自分の目的を果たす為に、自分の欲望の為に、人を殺した。そして、それを果たしたことで自分は死ぬことになる。それで十分ではないか。

「クライト、顔色悪いよ」

「寝起きだからな」

 両頬に、シアルの手が触れた。顔を向けさせられる。眼が合った。直ぐに逸らした。

「ちゃんと私の眼を見る」

 手を払おうとした。シアルの眼が鋭くなる。それで、クライトは抵抗を止めた。

「良い、クライト。私は村で寝たきりだったのに、気が付けばこのガシェーバの街、しかも代官所なんて場所にいた。その上、何年も悪かった躰の調子がすっかり良くなってる。そして、クライトは眠ったまま起きない。ようやく起きたかと思えば顔色は死にそうなぐらい悪い。これで何もなかったわけがないでしょう」

「何もなかった。それで良いだろ」

 両頬に触れる手の力が強くなった。

「なんとなく察しは付いてる。今までクライトが持ってきた薬のお蔭で、少しの間だけ躰の調子が良くなってた。でも、今はあの時とは比べ物にならないぐらい気分が良い。これ、私が知らない内にクライトが何かしてくれたからなんでしょ。その為に色々なことが起こったから、クライトの顔色は悪くなってるんでしょう」

「病気は治った。それだけを知ってれば良い」

「やっぱり、私の為なんだ」

 失言だった。思わずシアルを見る。眼が合うと、シアルは微かに笑って手を引いた。

「クライトが私の為に苦しんだなら、それは全部、私が引き受けないといけない。話すのは辛いかもしれないけど、話せば絶対に楽になるから。クライトの身に起きたことを、全部私に打ち明けて」

 シアルは諦めないだろう。話すしかないのか。人を殺した、そうシアルに明かさなければならないのか。

 笑った。

 そう遠くない内に、自分はモレットに殺される。それでシアルともお別れだ。繋がりなど早い内に絶った方が良い。

「分かった。手短に話すけど長くなるとは思う」

 シアルは深く頷いた。

「どれだけ長くても良いから、クライトの話しやすいように話して」

「そうする」

 腹は括った。それでも、シアルの眼を見て話すことはできなかった。座り直してシアルに背を向ける。

「まずは、レスダムールの話から」

 事実だけを話した。シアルの病気の原因。異界転換。多くの人間を殺したこと。モレットとマイヤロの関係だけは話さず、このままなら自分は殺人罪で処刑されると伝えた。

 時折打つシアルの相槌は、至極穏やかだった。

「まあ、こういうことがあった。でも誤解しないでくれ。これは俺が勝手にやったことだ。責任は全て俺にある」

 しばらく、シアルは口を開かなかった。

「何が起こったのかは、大体分かった」

 シアルの声は固くなっていた。

「ならこれで話は終わりだ。もうこの話には触れないでくれ」

「分かった」

 クライトは振り向こうとして、止めた。シアルがどのような顔をしているのか、確かめる勇気はなかった。

「このままだと、クライトは殺されるんだよね」

「それだけの人を殺してきた。今は代官に協力したことで生かされてるけど、死刑は仕方ないだろ」

「どうにもならないの?」

「ならないな。代官はかなり頑固だ」

 しばし無言が続いた。

「逃げられないの?」

「その時は、シアルが人質に取られるだけだ」

「見捨てれば良い」

「ふざけるなよ!」頭に血が上った。振り返り、シアルを睨みつける。「何の為に、ここまでやってきたと思ってる。ここで俺だけが逃げれば全て水の泡だ」

「じゃあ」

 シアルが笑った。クライトの両手を、包むように握る。

「一緒に逃げよう」

 一瞬で頭の血が下りた。我に返り、クライトは全身に力を入れる。

「駄目だ。それでどうなるか分かってるのか。相手はこの街の代官だ。残りの人生、一生逃げ続けることになるんだぞ。しかもその弱った躰でだ。できると思ってるのか」

「クライトは、私と一緒じゃ嫌?」

 シアルは、首を傾げて微笑んだ。

 顔が熱くなった。躰の力が抜けていく。また、シアルの顔が見られなくなってきた。

「……負い目に思う必要はないんだぞ」

「それはクライトでしょう? 私は本心から言ってるよ。勿論人殺しは罪だけど、クライトだけが背負うことはない。だってそれは私の罪だから。いや、こう言うとクライトは勘違いするか。いい、人殺しは私たちの罪。でも、私は嫌々引き受けるんじゃない。それは絶対に間違わないで」

 逃げて良いのか。

 モレットは、保護観察の期間が終わればシアルは元の生活に戻れると言っていた。それは嘘ではないだろう。ここで逃げれば、シアルは安定した生活を一生望めなくなる。

 シアルが立ち上がった。

「ほら、話は決まったんだから早く行こう」

 手を引いてくる。細い腕だった。力も弱い。それなのに、クライトは腰を浮かせていた。

「ほら早く。クライトだって死ぬたくないでしょ」

 立ち上がった。シアルが柔らかい表情で頷く。

「どこにいくつもりだ」

 モレットが、部屋に入ってきた。

 頭の中に警鐘が響く。クライトは片手を背後に隠した。シアルがぎこちなく会釈する。

「まさか、盗み聞きしてたのか」

「入る機会を窺っていただけだ」

 クライトはシアルの前に出た。まだ躰は重いが、魔法の行使に支障はない。

「用は何だ」

「様子を見に来た。逃げるつもりか」

 モレットの躰に怪我は見当たらない。顔色も良かった。トルガードとの戦いの疲労は完全に抜けたのだろう。

「立っただけでそこまで考えるのか」

 モレットがシアルに眼をやった。クライトは、シアルを庇うように一歩動く。

 直ぐに、モレットはクライトに眼を戻した。

「逃げるなら好きにしろ」

 一瞬、モレットの言葉が理解できなかった。

「どういうつもりだ」

 心変わりしたのか。有り得ない。廊下に手勢を潜ませているのか。

「逃げて良いと言った。お前の背中にある焼き印──陣の存在は、私しか知らない。好きに逃げて、好きに暮らせ」

 治療の際に見られたのか。しかし、モレットは何を考えている。

「目的はなんだ」

 モレットは、クライトとシアルを見て、表情を和らげた。

「生きろ、少年少女よ! ……私たちは駄目だった」

 身を翻し、モレットは部屋を出て行く。

「どういうこと?」

 シアルが見てくる。クライトは気を抜かず、慎重に廊下に出た。

 誰も潜んでいなかった。

 罠の気配もない。モレットは、無防備に廊下を歩いている。

「良く分からないけど今の内に逃げよう」

 警戒しながら廊下を進む。そのまま、何事もなく外に出られた。

 役人らしき数人が代官所から出てくる。クライトたちを見ても、誰一人気に留めた様子を示さなかった。

「良く分からないけど、とりあえず村に帰ろうか」

「そう、だな」

 通りを歩いていく。少し注目が集まっていた。それで、頭巾付きの外套を身に着けていないことに気付いた。店で買って身に着けると、注目はされなくなった。

 気が抜けると、迷いが蘇ってきた。本当に、シアルと逃げて良いのか。

(堪えろ、堪えるんだウチ)

 イビの声が、頭の上から聞こえた。

(消えたと思ってたよ)

(酷いなー。ウチだって雰囲気ぐらい察しますよ、ええ。いや、あれだよ。むふふな展開を期待して黙ってたわけじゃないからね。今クライトを困らせないようにしてるのがその証拠だから)

(本当か)

(本当だよ。あー言いたい。クライトを苦しませたい)

 相変わらずのイビと話したことで、悩みはちょっとだけ軽くなった。

 それでも、完全に消えることはない。シアルと共にいて良いのか。血に塗れた自分が、シアルの傍にいて良いのか。

「うーん、やっぱり言わないのはおかしいから言うね」

 シアルは立ち止まり、クライトの眼を見つめた。その頬が、微かに赤くなっている。

「助けれてくれてありがとう」

 躰の芯が火照った。

 視界が揺らめき、光が乱反射する。頬を熱いものが伝っていく。

「えっ、ちょ、ちょっとどうしたの?」

 シアルが慌てて近づいてくる。クライトは声を出そうとしたが、言葉にならなかった。

 視線が集まっている。それでも涙が零れていく。気恥ずかしさは微塵もない。

 心の底から、清々しい気分だった。

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穢れぬロータス @heyheyhey

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