請い願わくば
いつの間にか、空に晴れ間が差していた。
真白い雲は薄れ、目に痛む程の青色が、色彩の失せた草原に南からの陽光を注いでいる。
静寂と化した街道には、荒い吐息が三つ。
大の字に寝転がり空を仰いだサカキとツグミは全身に擦り傷と打撲傷を拵え、汗と泥に塗れた酷い様相であった。しかし、その顔には、空模様をそのまま写し取ったかのような、晴れやかな笑みがあった。
暫くは誰も動くことすら出来なかったが、それでも最初に起き上がったのは、比較的負傷も少ないヒカリであった。
震える膝でよろよろと立ち上がると、すぐそばに倒れたままのツグミへと歩み寄る。
「傷の、手当、しないと……。ツグミ、取り敢えず聖水飲んで」
「あ。あうー」
「サカキさん。大丈夫ですか?」
「…………なん、とか」
意識を朦朧とさせたツグミの上半身を起こして半ば無理やり聖水を飲ませる。
枯草に隠れて姿が見えないサカキに声をかけると、手だけを持ち上げたサカキから消えそうなほどに掠れた応えがあった。
「二人とも、ちょっと待っててくださいね」
薬や包帯の類はほとんど馬車の中だ。
遥か後方に置いてきたそれに向けてヒカリが足を踏み出した時だった。
小さく、蹄の音が響いてきた。
馬車の向こう、アタゴの街の方角から、始めは米粒のような影が揺れて見える。襲歩のリズムで響く蹄の音と共に、その白い影が徐々に大きくなってくる。
やがてその騎馬は停めてある馬車を追い越し、ヒカリの目の前で急停止した。
嘶く馬の声が耳を打つ。
どしゃ。
転げ落ちるように馬から下りたその人物は、その砂色の短髪を振り乱し、ヒカリの両肩を掴んだ。
「え――」
「無事ですか!?!?」
少し太り気味の体を無理やり騎士甲冑に詰め込み、背と腰には、片っ端からかき集められた大量の法具。
顔色は真っ青で、汗まみれ。
先程まで全力で手綱を握っていた両の手は白く色を失って震えている。
アタゴの街の町長、カノ・タヌマであった。
その形相に唖然とするヒカリの向こうに倒れ伏したツグミの姿を認めたカノは、転げるようにして駆け寄った。
「っ……! 酷い怪我……。ま、魔獣は!? 魔獣は何処ですか!? 早く逃げ、ない、と……」
そこでカノは、初めて枯れた草原の中に横たわる巨大な鱗の塊に気づいた。
周囲と同化するように色を失った巨躯。そこからは、何の魔力も感じられない。
「あ、……ええ、っと」
カノの腕の中で、ツグミが気まずそうな声を出す。
「すいません。倒しちゃいまし、あぐっ」
呆然としたカノの腕から力が抜け、ツグミが転げる。
後ろを振り返れば、同じく気まずそうに体の前で手を組むヒカリの姿。
二三度視線を往復させ、ようやく何が起きたのかを理解する。
「う、そ。でしょ……」
ぺたん、と尻餅を着き。
目を瞑る。
「はあああぁぁぁぁぁ」
魂が抜けだしそうな溜息が、長く尾を引いて零れ出た。
……。
…………。
「あの、町長、そのカッコ――」
「なにか?」
「いえ、何でもないです……」
ツグミの介抱をするカノが、そのまま止めを刺しそうな目で何か言いかけたツグミを黙らせた時。
ずず。
視界の端で、何かが動いた。
「!?」
「ち、町長!?」
ツグミの視界からは見えなかったそれに、カノはツグミを庇うように前へ出た。
ヒカリがそれに並び、聖光魔法を構える。
ず。
ずず。
「そ、そんな。確かに倒したはず――」
「しっ。……いや、何かおかしい……」
枯れた草葉の合間から見える鱗が、ずるずると動いている。
いや、
少しずつ。少しずつ。
その優に大人一抱え分はあろうかという太さの胴体が、巨大な頭部が、見通せぬほどに長かった尾が、ずるずると小さくなっていき。
やがて、全長二メートルほどになった所で、その三つ首の蛇は完全に動かなくなった。
「一体、何が……」
構えを崩せぬまま呆然とするヒカリとカノ。
そこにツグミも起き上がり、同じように言葉を失う。
「魔力を、吐き出し切ったからだろう」
その問いに答えを返したのは、男の声だった。
草原に埋もれていた体をむくりと起き上がらせ、濃い金髪を泥まみれにしたサカキが、掠れるように言った。
「いくら何でも、あのサイズの魔獣が転移魔法に巻き込まれたら僕もその場で気づいたはずだ。恐らく、元はこの大きさだったんだろう。それが、巻き込まれた際に陰の魔力を吸い取って、それからは土地の魔力を吸い取り続けて、肥大化していったんだ」
「あ、貴方も、酷い怪我を……」
その満身創痍を見て、カノが狼狽えた。
サカキの顔は右半分が潰れて血塗れであった。
木剣を握ったままの右腕は明らかに骨折している。
「ただ倒しただけじゃ、この一帯の魔力は枯渇したままだった。そうしたら街の暮らしにも影響が出ていただろう。だからこそ、
「どうして、そこまで……」
震える声で問うカノに、サカキは半分残った左側の顔で、はにかむような笑みを見せた。
「僕はただ、二人が街道の調査出るっていうから、それを手伝っただけですよ。ほら、一応目撃者だし」
「し、しかし、私は昨日。貴方に……」
「いえ。それでも、何だかんだ、泊めて貰っちゃいましたし。あれですよ、一宿一飯の恩、って奴です」
「な……」
その、照れくさそうな台詞に、カノが言葉を失った。
小さな声で、「これ、一度言ってみたかったんだ」と呟いたサカキに、ツグミとヒカリが破顔する。
「かっこいいです、サカキさん」
「はい。すっごく」
カノが改めてサカキに向き直り、装備を全て外して置いた。
真っ直ぐに、視線を交わす。
「昨日の無礼を、お詫びします」
「いえ、そんな――」
「街を救って頂き、ありがとうございました」
深々と下げられたその砂色の頭を見て。
サカキの顔が、くしゃりと歪んだ。
歯を食いしばり、俯いて。
「ひ。ひと、として……」
声に嗚咽が混じる。
「人として、当然のことを、したまでです……」
やっと言えた、その台詞を。
噛み締めるように口にしたのを最後に、サカキの意識は黒く染まった。
「サカキさん!?」
「大丈夫ですか!?」
「顔が真っ青……。ヒ、ヒカリ、聖水。聖水を――」
「駄目! 多分魔力欠乏だと思う。絶対に聖水は使わないで!」
「とにかく急いで街に!」
「馬車を持ってきます!」
……。
…………。
その後、荷台に魔獣の死骸とサカキを乗せた馬車はヒカリが手綱を握り、ツグミはカノが駆ってきた馬の後ろに乗り、四人は街へと戻った。
魔獣を倒した際に顕れた巨大な虹は、街からも僅かに見えていたらしい。
明け方に急遽街を飛び出していった町長を待っていた町民たちは、それを見て俄に不安に陥り、やがて帰還した四人の姿と荷台に乗った荷物を見て、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
明らかに重傷のサカキ、そして街に着いた拍子に緊張の糸が解け気を失ったツグミが医者の家に運び込まれ、ヒカリはカノと共に町民たちへの説明に町中を廻った。
住人にはありのままの説明を行った。
魔獣のことも、サカキ、ツグミ、ヒカリの三人がそれを退治したことも。
そして、それを決して街の外に口外してはいけない、ということも。
「ヒカリさん。貴女とツグミさんの行いは、非常に政治的な判断が難しい。街を救った功績は確かでしょうが、命令違反もまた明確。そして貴女たちのバックボーンは、それぞれ対立する間柄です」
「はい。……すみません」
「もし、私に対し申し訳なく思う気持ちがあるのであれば、一つペナルティを負って戴きましょう。この魔獣の一件は、この街で隠蔽します」
「……え?」
「全て、なかったことにさせてもらう、ということです。当然、貴女の功績もなかったことになる」
「……ええっと、それだけでいいんですか?」
「……はい?」
「いや。あの……それが何か、罰になるんでしょうか……?」
「何を言ってるんです? 災害級の魔獣を討伐したんですよ!? それも聖国では未発見の新種。それを僅かな情報から推測し、発見し、討伐し、人的被害をゼロに抑えたのです。正規の手続きを踏んでいれば、教会本部から叙勲されてもおかしくは――」
「いや! でも。別に、私、そんなつもりじゃ……」
「貴女と、いう人は……」
「ふえ?」
「いえ。結構です。とにかく、それを以て貴女とツグミさんへのペナルティとします。ツグミさんには私から直接お伝えしましょう」
「は、はあ……」
……。
…………
そして、その夜。
昼の間に晴れた空はその後も雲を張ることはなく、銀色の月が冷え冷えとした光を町中に注いでいた。
街の灯は消え去り、静まり返っている。
僅かに吹く風が、さやさやと草木を揺らし、枯れた葉を躍らせている。
街の中央付近の、町長の屋敷。
やはり明かり一つ残さずに静寂と化したその屋敷の中を、一人の人物が歩いていた。
ずる。
ずる。
右半身を引きずるような足取りで、それでも僅かな衣音しか漏らさずに、その人影は廊下を歩いていく。
屋敷には主人であるカノと客人としてのヒカリ以外にも、屋敷で働く使用人が数名暮らしていた。
彼らはカノの実家であるタヌマ家の所属であり、聖気も持たない一般人である。
その内の一人、唯一の女性である使用人の寝室の前で、その人物は立ち止まった。
ドアノブに手をかける。
ノブを握ったまま数秒時間が経つと、ドアは軋み音一つ立てずに開き、その人影を中へと招じ入れた。
ずる。
ずる。
やがて歩みを進める人影は、寝息を立てる使用人の前で再び足を止めた。
夏物の薄い夜着の胸元が僅かに上下している。
静かに寝息を立てるその女性の襟元に、震える手がかかり――。
「その人から、離れて下さい」
突如背後からかけられた声に、弾かれたように引かれた。
包帯だらけのその腕が、体が、顔が、ゆっくりと振り返る。
頭の後ろでまとめられた濃い金髪が揺れる。
包帯の間から覗く、その左眼が、血のように濁る赤に染められている。
その視線の先には、窓から漏れ入る僅かな月明りに照らされたドアの前に、小さな聖騎士が立っていた。
ふわふわと揺れる栗色の髪。
大きな瞳は、悲し気に細められて。
「ヒカリさん」
「サカキさん」
二人が、互いの名を呼び合う。
しばし、無言の時が流れ、次に口を開いたのはサカキであった。
自嘲するような笑みが、その口元に浮かんでいる。
「やっぱり、気づいていたんだね」
それを受けて、ヒカリもまた、苦し気な笑みを浮かべた。
「はい。……私、少しだけ、吸血鬼には詳しいんです」
「そっか……」
「その人から、離れてください。サカキさん」
「ああ」
サカキは大儀そうに足を引きずり、女性の元から離れると、ヒカリの正面に立った。
血色の瞳が、真っ直ぐにヒカリを見つめる。
その、半分が包帯で隠れた顔には、何故か、清々しい笑みが浮かんでいた。
「ヒカリさん。僕を、退治してくれ」
……。
…………。
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