膝を抱えた夜

 ヒカリとサカキが町長の屋敷で向かい合っていた、同時刻。

 そこから遥か離れた帝国領の宿場町、その酒場にて。


「ちょ、ちょっとちょっと、何処行くんですか!?」

 

 明るい金糸の髪を翻した長身の女性―アヤを、着座したままの黒髪の少女―アズミが慌てて引き留めていた。


「やだな。大丈夫ですよ、そんなすぐ逃げなくたって。ここ、港都方面じゃないですか。その騎士団の進行ルートからは外れてますから。今日一晩くらいでこっちまで来やしないですよ」

「そ、そうね……」

 半ば放心した様子のアヤが、崩れるように元の席に着く。

「あれぇ? アヤさんてば、意外とビビリさんなんですか? ……ちょ、目ぇ怖っ」

 軽口を叩くアズミを視線一つで黙らせると、ジョッキに半分ほど残っていた麦酒を一息に飲み干し、深く溜息を吐く。


(私、今何処行こうとしてた?)


 たった数秒前の自分の行動を振り返り、自己嫌悪に陥る。


 そうだ、ありえない。

 逃げようとしてた、だって?


 違う。

 今、自分は、メリィ・ウィドウに戻ろうとしていた。


 一体何のためにあそこから離れたと思ってる?

 本末転倒どころの話じゃない。


(まだよ。今はまだ、早い・・


 早鐘のように打つ自分の鼓動を鎮めるように、アヤは長く息を吸って、吐き出した。

「ていうか、そんなに強いんですか、その隊長さん?」

 明らかに様子のおかしいアヤの姿に、戸惑い半分の顔でアズミが問いかける。

 アヤはそれを横目で見遣り、つまらなそうな声で逆に問うた。


「あなた、今騎士団に何人『明王』がいるか知ってる?」

「はい? ええっと、ひぃ、ふぅ……」

「五人よ。師匠は、その内の一人。白兵戦においては帝国最強の格闘術と、『孔雀明王法』の正統後継者。本来なら、団長職に就いてたっておかしくない人なのよ。今の赤の団長が、あの化け物じゃなけりゃね」

「ふぅん」

「何よ」

「でも、ぶっちゃけアヤさんだって、相当強いですよね? この前私とやり合った時だって、全然本気じゃなかったでしょ?」

「……どうだったかしらね」


 僅かに沈黙が流れ、アズミは乗り出していた身を引くと、追加の料理と酒を注文した。

「ま、どの道逃げるんだから関係ないですかね。アヤさん。さっきの台詞、忘れてないですよね?」

「はいはい。ここは私の奢り。その代わり、もうちょい詳しい情報を貰うわよ」

「ええ? イヤですよ。今私みたいな逸れモノを集めた、騎士団の枠を超えた混色の特殊部隊が試験的に編成されてるとか、今も帝国領から逃亡した密輸業者を追ってここに潜伏任務中だとか、そんなこと言えるわけないじゃないですか」

「言ってる言ってる」

「あは。ぶっちゃけ外れですもん。ここ。でも一応、明後日まではいなきゃいけなくって。退屈してたんですよね」


 邪悪な笑みを浮かべるアズミにアヤは苦笑し、自分も追加のジョッキを頼んだ。

「じゃなくて。私が聞きたいのは、聖国の動きのほうよ。何、ヨル君の無害認定が解除されたって? あれはハズキ・サイオンジの判断だったはずよ」

「そのサイオンジ家が掌をくるっとひっくり返したんですよ。何でも、街中で人を襲って眷属を作ったとかで……」

「はあ?」

「いや、私も聞いただけですし。ほら、あの無害認定って、ヨルさんが一人も眷属を作らずに街の人と共存してるからこそ、だったじゃないですか。そこが破られた以上は、やはり人族の脅威と見做すしかない、ってことらしいです」


「ふぅん……」

「あれ、アヤさんまさか血ぃ吸われてないですよね。ヤダ、私もアヤさんに襲われちゃう」

「何言ってんの。吸われまくってたわよ。ていうか、街の住人で吸われてない人のほうが少ないわよ。けど、その度にみんな聖水飲んでたから、別に何ともなかったんだけど」

「ええ~? ホントですか? でも、結局ヨルさんも、吸血鬼は吸血鬼だったってことですかね。そうやって信頼を勝ち取っておいてぇ。ある日突然、ガブっと」

「そうかもねぇ。はは。いやぁ、よかったわ、街から逃げ出しといて」


「あれ? でもそうすると、ヒカリさんは何してたんですかね?」

「あの子は今、里帰り中だから」

「あぁ、成程。その隙を突いたわけですか。でもまぁ、あの人も今度こそ処分は免れないでしょうね。聞きましたよ、秋頃、相当やらかしたって」

「まあねぇ。あの子も大概無茶苦茶だからね」

「あは。大体あんなお人好しの甘ちゃんが今まで聖騎士続けられたほうが不思議じゃないですか? お家だけ立派でもねぇ。それこそ、粛清の対象にされちゃうかもしれませんよ?」

「そうなったらそうなったでしょ。仕方ないわよ。どの道、私にはもう関係ないし」


「ふうん……」

「何よ」

「いぃえぇ。なぁんでも」


 ……。

 …………。


 そして、夜も更けて。


 アヤはアズミと別れ、宿に取った一室の窓際で、ぼんやりと月を眺めていた。

「はあ。こんなに不味い酒は久しぶりね」

 そう独りごちる。


 具体的には、二年ぶりだろうか。

 まだ、メリィ・ウィドウの街に流れ着く前のこと。

 あの時も、ほとんど酒の味なんて気にしたことはなかった。


 国から国へ。

 街から街へと渡り歩いて。


 逃げて。見捨てて。裏切って。


 何のことはない。自分も、アズミとやっていたことは同じだった。

 先程、自分が咄嗟に取った行動が滑稽すぎて、思わず失笑が漏れた。

 そうだ。あの頃に戻るだけ――。


『あのリボン、アヤさんが髪伸ばしてた頃に使ってたやつですよね?』


 不意に、そんな言葉が脳裏に蘇った。

 風に揺れる、艶のない黒髪。

 春の陽射しのような微笑。

 時折見せる、子供っぽい表情も。


 あの少年が、街の住人を襲って眷属にしただと?

 馬鹿なことだ。

 もし彼が本気で眷属を増やすつもりなら、とっくにメリィ・ウィドウの街は自分も含めて彼に支配されている。


 それに加えて。


(サイオンジ家の動きが速すぎる)


 自分が街を出てまだ数日だ。

 その時に街に異変はなかった(強いて言うなら記憶喪失の青年という変事はあったが)。

 仮にその後、何か事件が起きたとして、それをサイオンジ家が把握し、一度取り決めた無害認定を解除し、更に帝国騎士団に応援要請?

 いくら何でも速すぎる。


 つまり。

「ヨル君、嵌められたわね」


 呟きは冷えた窓ガラスに吸い込まれ、僅かに白い跡を残した。

 恐らく、相当早い段階で計画は練られていたのだろう。

 しかし、その労力に見合うだけの価値が彼自信にあるとは考えがたい。

 ヨルは、真実一人の眷属も作っていない、異端の真祖なのだから。


 ならば、狙いはメリィ・ウィドウの街か?

 いや、それこそ、あの街に五大貴族が欲する程の権益など存在しない。


 つまり。

 サイオンジ家の狙いは――。


「ヒカリちゃん……」


 窓ガラスが再び曇る。

 

『アヤさんも酷いですよ!』

『いやいや、猫耳カチューシャ着けられた時点で自分で気づこうよ……』


 そんなやり取りも、昨日のことのように思い出せるのに、それでも遥か昔のことのような気もする。

 実際には、ただ九か月前のことだ。それ以下でも、それ以上でもなく、ただ過ぎ去った一日のうちの一つ。


(あのリボン、結局あげちゃったのよね。律儀に時々使ってるし……)


『流石アヤさんです。頼りになります!』


 あの、名前の通りに光るような笑顔が。

 頭から離れない。


 アヤは膝を抱え、きつく布地を握り締めた。

 その爪の先が淡く赤色の光を帯びる。


「まだよ。……まだ駄目。今はまだ……」


 その呟きは抱えた膝に吸い込まれ、窓ガラスは曇らなかった。

 ただ真白い月が、氷のように冷たい影をアヤの体に落としていた。


 ……。

 …………。


 その宿の天井に、張り付く一つの人影があった。

 青みがかった黒髪が二筋、月明りを含んでつやつやと光っている。


「なぁんだ。行かないんだ。つまんないの」


 鈴を転がすような、それでもほんの少しの苛立ちを含ませた声。

 誰にも聞こえることのないその声の主は、やがて夜の闇に溶け、消えていった。


 ……。

 …………。

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