血色の瞳

「ぎゃあああああ!!!!!」


 その夜、最初の絶叫を迸らせたのは《空木》であった。

 前三人が最後まで声を漏らすのだけは堪えた所を彼が堪え切れなかったのは、これは何も彼が三人と比べて忍耐力がなかったというわけではないことは、彼の名誉のために記しておかなければならないだろう。


《空木》はまず、沼に嵌まった。

 石畳に偽造され、黄と黒の混色魔法で丹精込めて作られた罠にかかり、身動きが取れなくなった。

 彼は苦心してそこから抜け出したが、その時には隠密用のブーツは脱げてしまっていた。


 そして、素足のまま石畳の隙間に隠されていた数本の針を踏み抜き。


 次いで、悶絶して転げまわっていた所に熱湯を浴びせられ。


 最後に、小樽一杯分の唐辛子の粉末をぶちまけられたのだ。


 ……。

 …………。


 その、長く尾を引く叫び声を遠くに聞き、最後に残った一人―《衾》は焦りの色を濃く顔に滲ませた。

 

(俺が最後か……)


 いつもと変わらない仕事のはずだった。

 結果は五人中四人が脱落という異常事態。

 だが、《衾》は心の片隅で、どこか腑に落ちるような不可思議な感覚を抱いていた。


(今日は、みな何処か様子がおかしかった)


 自分たちは、聖国の威光の影に隠された刃だ。

 刃は斬る相手を選ばない。

 そのために心を殺し、意思を殺し、命を殺してきた。

 しかし、何故か今日、彼の捨てた筈の心は奇妙にざわついていた。


 彼だけではない。

 自分の前を行く《蛇の目》は出立してから妙に気が立っていたし、そんな自分に《蛇の目》自身も戸惑っているようであった。

 他の三人も、大なり小なり似たような感覚を味わっている様子であった。


 ――本調子ではない。


 そうでなければ、いくら何でも素人の仕掛けた罠程度で、彼らが全滅することなどあり得ない。

 恐らく、自分たちがかかったのは、もっと大きな罠なのだ。

 この、地の底に魂が吸い込まれるような、胸の奥に暗黒を飲み込んだような、悪寒。

 今ならばはっきりと分かる。

 久しく失っていた感情。

 これは、恐怖だ。

 

(逃げるか……?)


 どの道、このまま作戦の続行は不可能に近い。

 他の四人は恐らく捕縛されているだろう。

 ならば、自分だけでもこの街を離脱し、状況を報告すべきか。

 いや。

 いや。

 その選択の先に見えた未来に、《衾》は一層顔色を蒼くした。


 逃げるのならば、行先は聖都ではない。

 何処か、外国の地へ身を潜めるか。

 だが、この状況からどうやって?


 どうする。

 一体どうすれば……。


 進退窮まった《衾》が、かちかちと奥歯を鳴らし始めた時だった。


 すう。


 と、天の高くを吹く風に、薄い雲間が割れた。

 ひと時の間隠されていた真白の月が、透明な空気に絹布のような清廉の光を零し、《衾》の眼前を照らした。


 そこに、女が立っていた。


 月光が凝ったような、薄い金糸の髪。

 項で結わえられ、緩やかに流れる。

 白磁の肌。

 長い睫毛から覗く、サファイヤブルーの瞳。

 尖った耳。


 エルフだ。


 頬に薄っすらと紅を刷き。

 口元に、甘やかな微笑。

 

 匂い立つような、女であった。


 その、この世のものとも思えぬ光景に、《衾》の思考が停止する。

 女は彼の視線から逃れるように目を伏せると、音一つ立てぬ足取りで、民家の影へと消えて行った。

 その挙措に、ほんの僅かに遅れた後ろ髪が一筋、月明かりに光を零した。


 気づけば、《衾》は駆け出していた。


(何をしている?)

(罠だ)

(女)

(逃げろ)


 頭の中に警鐘が鳴り響く。


(女)

(捉えろ)

(人質に)

(そうだ)

(違う)

(罠だ)

(女)


 女の後を追う理由を必死で組み立てる。


(そうだ。捉えて、人質に。それでこの街から逃げるのだ。そして)

(そして――)


《衾》の足が、路地裏へと踏み出され。


「『裂英さくはなぶさ』」


 足元に咲いた、闇に沈んだ。


「あ――」


 彼が最後に見たものは、暗がりに灯る、二つの血色の瞳であった。


 ……。

 …………。


「あれ、首まで浸かっちまってる……。何だ、意外と背ぇ低いんだな」

「ねえ、ヨル君。僕の扱いが酷すぎないかな」

「まぁまぁミシェルさん。適材適所ですよ」

「僕も一応、弓とか使えるんだけどな……」

「やだな、そんな危ないことさせられませんよ。それより、首元寒くないですか? マフラー使います?」

「……うん。僕に男子力発揮するのやめてくれる?」


 凍えるような空気の溜まった路地裏で、全身を陰の魔力に漬され失神した男を、ヨルが縄で縛っている。

 その傍らには、鎖骨の下までを寒空の下に晒した女装のミシェルが憮然とした面持ちで腕組みをしていた。


「こいつで最後ですかね?」

「ああ。そうみたいだね。やれやれ」

「お疲れさまでした」

「ヨル君もね。多分、カグヤちゃんがホットワイン用意してくれてると思うよ。トーヤ君もそっちにいるはずだ」


「これで大人しくなりますかねぇ?」

「ふふ。無理だろうね」

「ですか……」

「むしろ、マーヤちゃんとしてはここからが勝負だろう。交渉材料を一つ増やしたわけだからね」

「ああ。そういう……。俺には出来ない戦い方ですね」


「適材適所さ。けどね、ヨル君」

「はい?」

「まだ、警戒は解かないほうがいいと思うよ」

「ええ?」

「この夜襲。いくら何でも杜撰すぎる。そもそも『天眼の魔姫マーヤちゃん』と吸血鬼ヨル君がいるこの街に夜襲を仕掛けること自体不毛だよ。そのくらいのことが分からない相手だっていうなら、それまでのことなんだけどね」

「予測をするなら、悪い方も想定すべき……」

「さて。どうなることやら……」


 ……。

 …………。


 街の西側の、住宅街の中の一棟。

 石造りの壁と木枠の窓から、藍色の髪の魔族の女性がぼんやりと外の景色を覗いていた。


 淡い光に濡れ光る窓ガラスは氷のように冷たく、魔族の女性―クーネ・オランジェはそっと指を放して、その褐色の肌を摩った。

 先程遠くの方から聞こえた物音も一度聞こえたきりで、その後はいつもと変わらぬ静寂が街全体を包んでいた。

 夜着の襟をかきあわせ、僅かに身震いする。

 今夜は特に、よく冷える。


 ここ数日、街の住人たちはみな、寝つきの悪い夜を過ごしていた。

 街の新入り・トーヤの身が狙われているとのことで、街全体に侵入者を阻む罠を仕掛け、街の区分け毎にシフトを決めて警戒に当たるよう指示が出されたのが数日前の事。

 いつ来るか分からない相手に備えるというのは精神的な消耗が大きい。自分の当番ではない夜も、だからといって安眠できるわけもなく、今朝などはちらほらと疲れた顔を見せる住人も多かった。


 そして今日、獲物はかかった。

 幸い侵入者はクーネの家の区とは反対側から攻めてきたらしく、自分の出番はなくて済んだ。

 これでまた、平穏な街に戻るだろうか。


(まあ、ちょっと勿体なかった気もするけど。……というか、あれ・・どうしようかしら)


 近隣の住人と協力して仕掛けた粘着地獄の罠も、仕掛けるときは楽しいのだが、片付けるとなると手間だ。

 機工と魔法を組み合わせている分、解除の手順を間違えると悲惨なことになる。凝り性な住人ほど後々自分の首を絞めることになると分かっているのに、それでも作る時はそれを忘れているのだから不思議だ。


(多分トーヤちゃんもヨルちゃんも、明日は引っ張りだこね)


 その時。

 

 つう。と、クーネの背筋に悪寒が走った。

 どこか粘性を感じさせる、魂を直になぞられたような不快感。


 弾かれたように振り返ったクーネの目に、窓の外、通りの向かいの路地裏から覗く、赤い光点が見えた。

 僅かな月明りからさえ逃げるように一際濃く凝った闇に紛れて、二つの瞳がこちらを見上げている。


「ヨル、ちゃん……?」


 何かあったのだろうか。

 クーネは体を這い回る悪寒に耐えつつ、窓の鍵に手を遣った。

 微かに軋む音と共に、窓ガラスが引かれ。


 凍えるような冬の夜気と。

 月光を呑み込む闇の帳。

 その中にただ二つ灯る、どろりとした赤。


「あ――」


 血潮の香りが部屋に解け。


 静かに、窓が閉じた。


 ……。

 …………。

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