失くしたものと、見つけたもの

 聖都ヘイアンの西側には、一つ、小さな食品工場がある。

 現在は閉鎖されており、人の出入りはない。元は精肉を加工していたらしいのだが、ではそれがいつ閉鎖されたのか、所有者は誰だったのかとなると、周辺の住民にもそれを答えられるものはいない。


 いないはずだ。

 何故ならここは、鬼の湧いた地。

 かつて聖都を震撼させた人食いの鬼。

 聖王教会の庇護下で起きた酸鼻極まる事件の秘録。

 当事者は死に、あるいは離散し、いつしか記憶も風化され、市井にそれを知る者もいなくなった。


 それを知る者は、地下にいるのだ。


「あの時は、私も若かった。そうだ。慎重さを欠いていた」

 赤茶色の染みが付いた古ぼけたレポートの束の表紙を乾いた手で撫でながら、聖国の五大貴族のうちの一つ、サイオンジ家の当主―モンドが、呟くように言った。


「何か言ったか?」

 少し離れた位置で、荒波のようにうねる黒髪を無造作に束ねた無精髭の男―曖昧屋・ジンゴが、真新しい書類の束から顔を上げ、モンドに視線を遣った。

 陽の光の届かぬ地の底で、山吹色のランプの明かりが形作る陰影にその身を溶け込ませたモンドが、自嘲するように首を振った。

「いえ、何も」


 ジンゴは再び書類に目を遣り、噛み締めるように一枚一枚を手繰っていく。

「本当によかったのか、この場所を俺に見せて?」

「何がです?」

 お互い目線を合わさず、二人の男が言葉を交わす。

「ヒカリ・コノエを失墜させる計画。俺は失敗した」

「いえ。あなたに頼んだ仕事を、あなたは全てこなしてくれました。そこから先はこちらの領分でした。私もまさか、マサナがあのような対応に出るとは思わなかったのです。もしかすると、本気であの小娘を勇者にするつもりなのやもしれません」

「馬鹿な。不可能だ。俺はこの半年あの小娘を間近で観察していたが、あやつは勇者などという器ではない」


 そこで、モンドの目が、妖しい光を放った。

「それが、あながち馬鹿なこととも言えないのですよ」

「なに?」

「それどころか、まさにあの小娘は勇者の器として相応しい資質を持っている。貴殿もご存知でしょう、あの小娘の、あの馬鹿げた魔力量を?」

「うむ。確かにあれは規格外だ。しかし、それだけでは……」

「いえ。いいえ、それこそが・・・・、勇者が勇者たる所以なのです。かのミツキ・ミカグラも、元を正せばただの小作農の小娘でした」


 ジンゴの手が、止まった。

 手にした書類の束、その一頁を見て。

「…………成程。つまり、だからこそ『勇者候補』。そうか、お前は……」

「然様。それこそが、我が三十年の悲願」


 ジンゴはようやく書類から目を離し、鋭い眼でモンドを見た。

「ならば、何故今更部外者を取り込んだ?」

「部外者などと。あなたには一方ならぬ恩がある」

「それがお為ごかしであることぐらいは、流石の俺にも分かるぞ?」


 くつくつと、泥の煮えるような声で、モンドが笑った。

 その細められた目に、ぬらりとした光が宿る。

「言わせたいのですか? あなたは所詮人の心を解さぬ怪者けものだと。上手いことを言いましたな、曖昧屋などと……。まるで何かの言い訳のようだ」

「どういう、意味だ?」

「そのままの意味ですよ。あなたの行動原理は人に理解されない。何故ならあなたには、人の心がないから。空洞なのですよ。からっぽだ。その胸の裡に開いた穴を埋めるように、あなたは智識を欲しがる。真実を欲しがる。それを満たすために必要なのは、金だ。自慢ではないが、私は聖都で一番、お金を持っているんですよ。ならばあなたが私を裏切る道理がない」

「……成程」

「おや。気に障られましたかな? くっくっ。やめましょう、そんな、怒ったふりなんて。大変でしょう? 人間と同じように振る舞うのは。いいんですよ、ここはメリィ・ウィドウではない。今更私の前で、人間の振りなんて……」


 それを聞いたジンゴの眉間から、皺が取れた。

 まるで、憑き物が落ちたように。

 狼のような鋭い視線は、光を失い。

「そうか。助かる」

 無機質な声が、乾いた唇から零れ落ちた。


 モンドの忍び笑いが、静かに響く。

「いいんですよ。誰しも、素顔でいるのが一番ですからな」


 その時、地下室の扉が開かれ、小さな男が一人入ってきた。

「モンド様。お知らせしたいことが」

「どうした」

 一転、不機嫌そうに顔を歪めたモンドに、小男はちらとジンゴの方を見つつも、モンドがそれを気にしないのを見て取って、改めて口を開いた。


「先日、ギムリの群れとの交戦を記録した観測班ですが、一人、行方不明者がいるようです」

「なんだと? 全員罷免・・せよと伝えたはずだが?」

「はっ。しょ……罷免の際に、リストと実際の人数が合っていないことが分かりまして。恐らく、帰還する前、戦闘中に逸れたものと思われます」

「ふむ。……万一記録が流出しては厄介だな。その者は?」

「まだ、若い男です。二年程前に登用されております」

「捜索隊は既に出している。彼らに連絡を取り、その男も捜索対象に加えておけ」

「かしこまりました」


 一礼して踵を返した男の背を見るともなしに眺めながら、すっかり表情を失くしたジンゴがモンドに声をかけた。

「問題が起きたようだな」

「ええ。いつだってね。問題だらけですよ。ただ一番肝心のものを失くさなければいい」


 そう言ったモンドの目線の先には、視線の高さの台座に乗った、鈍色の指輪があった。


「そうだ。……これさえあれば、取り返しはつく。ようやくだ。ようやくここまできたのだ」


 ランプの明かりを受けて山吹色に照る指輪に、モンドの血走った目が、歪んで映りこみ。

 汗ばんだ小男の手が、錆着く音と共に扉にかかる。

 地の底から湧き出でる声を封じるように。

 地下室が、閉じた。


 ……。

 ………。


 さく。

 さく。


 霜の降りた腐葉土を、濃茶のブーツの底が踏みしめていく。

 空は白。

 そこに伸びる、黒々とした枯れ枝。

 刺すように張りつめた空気に、吐息が規則正しく蒸気を上げ、一瞬で溶けて消えていく。


 冬の森だ。

 その、静止した世界の中を、厚手の外套に身を包んだヨルが、さくさくと歩いているのである。


 腰には二本のナイフと、採取用の藤篭が二つ提げられている。

 その内の一つは空であったが、もう一つには、黄土色の、植物の根のようなものが詰まっている。

 もう長いこと採取用の森として人々が利用し続けてきた中で、自然と形成された路を、ヨルは一定の速度で危なげなく歩いていく。


「……ううん。赤石葉と釉万両と、どっちの場所が近かったかな。……いや。精製が楽な方がいいか」

 分かれ道で一瞬立ち止まり、そう独り言ちたヨルは、右に折れて下る道を選んだ。


 さく。

 さく。


 無音の森は、ヨルの幽かな足音もたちまち吸収して虚空に溶かしていく。


「しかし、セルカさんは何だって昨日あんなことを……」

 ぶつぶつと呟くヨルの声に、応えるものはいない。


『聖騎士から、血は吸えないの?』


 悪戯っぽい笑みを浮かべたセルカの顔を思い出し、ヨルは首を傾げた。


 聖騎士から、血を吸う?

 つまり、ヒカリから?


 ヨルの脳裏に、ふわふわと揺れる栗毛の下の、輝くような笑みが思い浮かぶ。


 あの小さい体を。

 抱きしめて。

 細い首筋に……。

 口を……。


「いや」


 ヨルは慌てて頭を振った。


「いやいやいやいや。何考えてんだ。あり得ねえ……。ヒカリだぞ?」


 そこで、不意に周囲の木々の並びが途切れた。

 空を蝕む亀裂のような黒々とした枯れ枝がなくなり、薄雲の張った真白い空がぽっかりと覗く。

 目の前には、巨大な倒木。

 数年前の落雷で倒れたその大樹の亡骸。


 それに寄り添うように、赤い鈴のような実をつけた植物の群が、ひっそりと生えているのが見える。


「はあ……。アホらし。仕事だ、仕事」


 深々と吐いた溜息で気持ちを切り替えたヨルは、消毒薬の素材となるその赤い実を摘もうとしゃがみ込んだ。


 その時。


「……!?」

 ヨルの鼻腔を、微かな血の香が通り抜けた。

 一瞬で腰のナイフを引き抜き、逆手に構える。

 腰を低く落とし、瞳を赤く濁す。


 全神経を集中させ、息を吸い込む。

 魔力の気配は感じられない。

 音もない。

 ただ微かに、真白の空気に錆びついたような血の匂いが漂っている。


 ヨルは不可視の細い糸を手繰り寄せるように、そろり、そろりと、歩を進める。

 やがて辿り着いたのは、うねるように捻じれた太い枯れ木の根元。


 そこに、一人の男がうずくまっていた。


 真白い法衣。

 土と血糊に塗れ、所々に破けた痕。

 零れ落ちる、金糸の髪。


「教会の人間? 何でこんな所に……」


 ヨルの声に、戸惑いの色が滲む。

 目の前の男は、至近距離まで近づいても微動だにしない。

 俯いた顔は蒼白を通り越して土気色である。ただ、目を凝らせば微かに上下する胸が、ほんの僅かに男の命の灯を伝えていた。


(これは……。あれだ。関わっちゃいけない感じのヤツだ。絶対そう)


 このド田舎の森の中で、教会の関係者が一人傷ついて倒れている。

 装備は軽量。

 武器を持っている様子もない。

 陽の魔力も殆ど感じられない。


 明らかな異常事態であった。

 トラブルの予感しかしない。


(このまま見なかったことに……)

 そんな考えが脳裏を過る。


 しかし。


『どうか、自分に恥じない生き方をしてほしい』

『気楽に生きろよ、鼻歌でも歌いながらな』


 ヨルの頭の奥で、二人の男の声が幽かに響いた。


 周囲に人の気配はない。

 ヨルはナイフを仕舞うと、微笑みを一つ溢し、屈み込んだ。


「ああ。分かってるよ」


 男を抱え起こし、背に負ぶった。


 ……。

 …………。


 ヨルは選んだ。

 いくつもの選択肢の中から、一つの道を。


 彼はそれを後悔するだろうか。

 己の行いを、愚かな選択と詰るだろうか。


 今はまだ、何も分からない。


 ただ一つだけ言えることは、この二人の男の邂逅が、この長い長い物語に一つの終わりをもたらす、静かな鐘の音であるということ。


 背に負った男の重みの分だけ深さを増した足跡が、往きのそれの隣をなぞるように、森の闇の中に消えていった。


 さく。


 さく。


 さく。


 ……。

 …………。

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