鬼さんこちら
年の瀬も間近に迫った、ある日の昼下がりのことであった。
ここ数日聖国を吹き抜けていた寒波も通り去り、久方ぶりの長閑な陽気に人々は活気づき、ここぞとばかりに干し出された洗濯物が緩やかな風に舞うような、穏やかな日。
道端には野良猫が屯して陽を浴び、年越しに備えた買物で大通りには人がごった返している。
そんな、聖国領のとある街の片隅で。
「んん。ふわ~~ぁ」
一人の中年男が、大きな欠伸をした。
無精髭を生やした褐色肌に、ぼさぼさの髪は群青色。
気だるげに細められた瞳は、血の色に濁る赤。
男は、名をオロといった。
日向に寝転ぶ猫のように大きく伸びをすると、日ごろ曲げ切っている背中からぼきぼきと音が鳴る。
オロはがりがりと頭をかき、身に纏う厚手のコートの内ポケットから細長い葉巻を取り出して咥えた。
その先端に人差し指が触れると、静かな音を立てて赤い火が灯り、糸のような煙が上がる。
オロは深く煙を吐き出し、視線を落とした。
所々が蜘蛛の巣のようにひび割れた、教会の壁。
そこにへばりつくように、一人の男が頽れていた。
男の顔は血の気を失い、全身をがくがくと震わせている。
もぞもぞと足を動かすが、既に壁についた背中をさらに押し付ける以上の効果はない。
男の左右には、白眼を剥き、半開きの口からだらりと舌を垂らした、つい数秒前まで男の部下であった
時折ぴくりと痙攣し、浅い呼吸を繰り返している。
生きている。
生きてはいる。
ただし、その身は既に、主たる男を守ることはない。寧ろ、今現在、男の左右にへばりつき、男の身体の自由を奪う拘束具と化している。
まるで、男を逃がすまいとするかのように。
がくがくと震える男の眼前には、何時もと変わらぬ教会の裏手の雑木林。
そこに積み重なる、十数人の聖騎士たちの物言わぬ身体。
その前で優雅に紫煙を燻らす、魔物の姿。
「ば、ばきゃな。わた、わらしの、せいえいぶたい……」
呂律の回らない舌で男が絞り出した言葉に、オロは堪え切れず吹き出した。
「くひっ。きひひひ。精鋭部隊。……きっひひ」
「ぜ、ぜんめつだと……。おのれ、おのれやくたたずどもがぁ」
「人聞きの悪いこと言いなさんな。殺しちゃあいねえよ。大事な資源だ。大切にせにゃ。くひひ」
「ら、らんだ。おまえは、おまえはぁぁ」
「おいおい。俺はただ、聞いただけだぜぃ。『ウチのもんに手ぇ出したのはお前さん達かい』ってなぁ。違うなら違うで別にいいんだよ。それをそんななっていきなり大勢で取り囲んじゃあ、おじさんだってびっくりしちまうよ」
「らにが。も、もくてきで、こ、こんな、こんな」
「同じこと何度も言わせるんじゃねぇよ」
「ひいっ!」
オロが一歩を踏み出し、男が仰け反る。
男の後頭部が壁にぶつかり鈍い音を立てた。
「なに、取って食おうってんじゃない。少し落ち着きねぇ。第一あんた、こいつらの隊長さんだろ? 隊長ってなぁ、部隊で一番強ぇ奴が務めるもんじゃねぇのかい」
「く、くるな。わ、わらしは、わらしはダイゴけのちゃくなんだ。わらしにてをだせば……」
「いや、今家の話はしてな…………ダイゴ家? んん? お前さん、聖都の貴族家じゃねぇのかい?」
「ふ、ふざけるな! わ、わがダイゴけは、は、はえあるせいおうきょうかいのぉ!」
「あーあーあー。分かった分かった。悪かったって。こちとら獣国暮らしが長いんだ。今の聖都の事情にゃ詳しくないんだよ。まあそうかっかしなさんなって」
「げ、げせんなきゅうけつきふぜいが、よくも……」
その一言に、それまで愉快そうな目で男を見下ろしていたオロの顎が、引けた。
「そういうセリフはよぉ。少し相手を選んだ方がいいんじゃねえかぃ?」
「ひいぃぃ!」
男の顔が恐怖に引き攣り、手足がばたばたと暴れる。
オロはゆっくりと、男に歩み寄った。
「ま、まて、わかった。はなしをきく! はなしをきく!」
「いやぁ、もういいよ」
一歩。
「まってくれ。まって。かねなら。かねならよういできる!」
「生憎、手持ちは十分でねぇ」
一歩。
「ひぃ! まて! まて! わかった! こいつらをくれてやろう! いくらでもつれてっていい! すきなだけ、ちをすっていいから!」
「そりゃあ、あんたが決めることじゃない」
一歩。
「わたしはたいちょうだ! あ、あ、わかいおんなか? す、すぐによういする。なんにんだ、なんにんあればいい!?」
「一人でいいよ」
「やめ――」
それを最後に、教会から音が消えた。
翌日、五大貴族の一つ、ダイゴ家の嫡男が行方不明になったとの報が、聖都にもたらされた。
……。
…………。
時と所は変わって。
メリィ・ウィドウの街。
その男が目を覚ました時、最初に感じたのは、仄かに温もりを感じる甘い匂いであった。
次いで耳朶を擽るのは、しゅんしゅんと、湯気の立つ音。
ぱちぱちと、炭の爆ぜる音。
白く霞む視界には、木目の天井。
「う。…………あ」
罅割れた声が、微かに漏れる。
「あら、目が覚めたかしら?」
少し低い、不思議な渋味のある女性の声。
それを靄のかかった意識の端に捉えた男は、ゆっくりとその身を起こした。
体にかかる布団と毛布は温かく、起き上がった上半身に寒気が走る。
思わず両腕を抱きかかえた男に、ふんわりと、半纏がかけられた。
「無理して起き上がらなくていいわ。今、医家の人を呼んでくるから」
男の肩に置かれた掌は、細く、白い。
流れるような薄い金髪の中から、尖った耳が覗いている。
エルフだ。
「こ……こは」
乾ききった喉から掠れるような声を絞り出す男に、エルフの女性は優しく微笑んだ。
「ここはメリィ・ウィドウの街よ。私はサラ。あなた、森で倒れていたの。覚えてる?」
「森……?」
視線を落としたまま譫言のように呟く男を見て、エルフの女性の眉尻が下がった。
「……大丈夫よ。ちょっと待ってて」
そう言って、女性は男の傍を離れた。
男はまだ明瞭としない視線を彷徨わせ、自分が天井の高い板の間に敷かれた布団に寝かされていたことを認めた。
枕元には丁寧に畳まれた白い法衣が置かれている。
部屋の中央の囲炉裏では、赤く熾った炭の上で、薬缶が柔らかな湯気を上げている。
微かに衣の擦れる音と、甘い匂いと共に、女性が戻ってきた。
「はい。ホットワイン。温まるわよ」
差し出されたマグカップには、熱い湯気を上げるガーネットの液体。
立ち上る濃い香りの中には、微かにシナモンが混じっている。
震える手でそれを受け取った男が、恐る恐る口をつけると、口の中に花の香りが広がり、優しい熱が胃の腑へと下って行った。
二口、三口。
続けて飲み込めば、その分だけ体に熱が溜まっていく。
「あなた、教会の人よね? あなたが見つかったとき、周りには誰もいなかったそうなんだけど……」
「きょう、かい? 僕は……」
「ああ。まだ意識がはっきりしないのね。いいのよ、まずは体を休めないと。寝ててちょうだい」
エルフの女性は再び立ち上がると、部屋の引き戸を開けて廊下へと去っていった。
男の目線はそれを追うでもなく、ただ虚空を彷徨うのみである。
「僕は…………誰だ……?」
しゅんしゅんと、ぱちぱちと、男の独言が、囲炉裏から出でる炭と湯の音に溶けていった。
……。
…………。
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