暗闇の底で

 人里離れた深い森の中に、その館はあった。

 煉瓦造りの壁は重々しく、規則正しく並ぶ縦長の窓ガラスには黒樫の枠が嵌められている。

 とろとろと青白い光を零す月影に照らされ、濡れたように光るテラスには、真白いテーブルセット。

 花一つ咲かない庭園の草木は、無風の夜空の下で黒々と盛られた闇の凝りのよう。

 館の入口へと続く、綺麗に掃除の行き届いた石畳を、一人の男が歩いていた。


 紺青色のぼさぼさ髪に、無精髭の目立つ褐色の肌。

 厚手のスラックスのポケットに両手を突っ込み、羽織ったコートの裾が地面を擦りそうなほどに曲がった背筋をひょこひょこと揺らしながら、顎を突き出し、男は歩いていく。

 

 玄関まで辿り着いた男は、ノッカーには目もくれず、無遠慮に扉を開いて足を踏み入れた。

 軋み音一つ上げずに開いた扉の向こうには、月明りの零れ入る以外の明かりがない。

 全ての足音を飲み込む毛の長い絨毯の上を、男が歩いていく。

 ふと、顔を上げると、男は何かまずいものを見つけたように顔をしかめた。


「あっちゃあ、タイミング悪かったかねえ。いや、丁度いいやな」


 館の奥の方へ視線を向けてそう独り言ちた男は、勝手知ったるとばかりに中央の階段を上り、暗闇の館を歩いていく。

 窓ガラスの前を通る度、ひょこひょことした男の足取りに合わせ、しらしらと差し込む月明りに男の影法師が滑っていく。

 幾つかの部屋の前を素通りし、やがて一番奥まった一室の前で足を止めた男は、また無遠慮に扉を開けようとし、ドアノブの前で固まった。


「はいはい。ちゃんとしますよ」

 男がポケットから手を抜き、顔を覆う。

 ざわり。

 月の光に浮かび上がる男の影が、足元から持ち上がり、男の体に絡みついた。

 ざわり。

 ざわり。

 波打つように這い上がる影はやがて男の隠された顔を包み込み。

 それを両手で拭うように、顔を上げる。

 その顔から、無精髭が消え失せていた。

 男は目を閉じたまま、顔を拭いあげた両手を頭に持っていき、十指に髪を絡ませる。

 一度そこで手の動きを止め、一息にうなじまで髪を撫でつけると、先ほどまでのぼさぼさ髪からは想像もできない程の、見事なオールバックが現れる。


 男が背筋を伸ばし、ゆっくりと瞼を開ける。

 その瞳が、深い血の色に滲んでいる。


 ふう、と一息ついて、男は改めて目の前の扉に手をかけた。


「失礼しますよ、我が君」


 扉の向こうには、壁の一面を埋め尽くす古書。

 ウォールナットのテーブルと、木の根の捩れたようなキャンドルスタンド。サンダルウッドの香り。

 緋色の覗くワインボトル。

 椅子に座る、二人の人物。


「あら、今日はきちんとしているのね。偉いわ、オロ」


 二藍の髪をきっちりと結い上げた、褐色肌の女性。

 眼尻には少し皺が寄り、グラスを摘まむ指には節が目立つ。

 トゥルーベージュの口紅。


「ああ、オロ君。お邪魔しているよ」


 その向かいに座る、長く伸びる真白い髪を三つ編みに纏めた老人。

 水分を感じさせない肌は、髪の色と同じ真白。

 それでもしゃんと伸びた背筋で優雅に足を組み、軽やかにグラスを傾けている。


 二人ともに、揃いの血の色の瞳を細め、柔和に笑った。


「これはこれは、御前。お久しゅう」


 恭しく頭を下げた男―オロに、見た目は中年の女性が席を勧めた。

「丁度よかったわ。今日はおじいちゃんが来るのに合わせて、こないだ頂いた180年もの、開けちゃったの。あなたも如何?」

「おや、宜しいので?」

 オロが、とん、と指でテーブルを叩くと、しゅるしゅると影が持ち上がり、その中からグラスが顕れる。

 女性が手ずからそれに緋色の液体を注ぎ、オロは鼻を寄せてその香りを楽しんだ。


「今日の佳きに」

「今日の佳き夜に」


 僅かばかりの音を立てて、二つのグラスが触れ合った。


 ……。

 …………。


「そういえば、今年の秋祭りはどうだった、オロ?」

「ええ。収穫量は平年並みといったところでしょうね。当分あの土地は労なく過ごせるでしょう」

「いやね、そういうのは仕事の時に聞かせてちょうだい」

「おっと失敬。我が君」

「今年もあったのでしょう、闘技大会? またあの熊坊やの優勝かしら」

「うふふ。それが今年、ついに王座が陥落しましてね」

「まあ。一体何処の豪の者が?」


 年若い娘のようにはしゃいだ声を出す女性を、向かいに座る老人がにこにこと見つめている。

 オロは悪戯っぽい笑みを浮かべて、潜めるような声で囁いた。

「何と、人族の子供です」

「まあ!」

「ほう」

 これには、それまで聞き手に回っていた老人も反応する。


「そう。それは歴史が変わったわねえ。こっそり見に行けばよかったわ。ねえ、オロ。後で記憶覗かせてね」

「はいはい」

「その子供はどこの者だね」


 細めた目を輝かせる老人を、オロは注意深く見つめた。

「おや、どうかしたかな」

「ふふ。いえ、失礼。御前。元より貴方に、私如きの洞察が叶うはずもない。正直にお話しましょう」

「あら、なあに?」

「実はですね……」


 オロの話を聞いた、二人の顔色が変わる。

「吸血鬼、じゃと?」

「けど、オロ。あの辺りはあなたの縄張りでしょう。では、私の眷属なのではなくて?」

「ならば、第二世代の私の命令に背けるはずがない。しかし、あの個体は確かに私の声を無視しました」

「まあ……」


 それを聞いた老人が、口元を綻ばせる。

「成程のう。であれば、別の眷属に縄張りを侵された可能性がある。それで、儂の顔色を伺ったわけじゃな」

「どうでしょう、御前? 何かお心当たりがあれば、この場で仰って頂きたい」

「ふむ……」

「ああ、別に、その少年に咎があるわけではありません。ただ、この先のトラブルを回避したいだけなのです」


 二人の遣り取りを、オロの主の女性が心配げに見守る。

 やがて、しばし黙り込んでいた老人が口を開いた。

「いや。今、皆に聞いてみたが、儂の所の者ではないようじゃのう」

「い、今の一瞬で念話を行ったのですか!?」

「ほ。ほ。なあに、伊達に歳は重ねておらんわい」


 呵々と笑う老人と裏腹に、主従の二人は顔色を暗くする。

「けど、そうなると厄介ねえ」

「ええ。ヴラド公の手の者となると……」

「いやあ、それはないじゃろう」

「え?」


 二人の不安げな顔を、老人が笑う。

「あの小僧にはこの間、灸を据えてやったばかりじゃでな。今は眷属総出で、深碧の海の大掃除に勤しんでおるはずじゃ」

「あら、助かるわ。あそこの魔獣は数が多くて……。でも心配ね。風邪引かないといいけど」

 その台詞に、オロが思わず苦笑した。

「真祖の一角を子供扱いですか」

「うふふ」

「全く、何が『次の魔王は俺様だ』、じゃかのう。まだウルの小僧の方が毛一本分はマシじゃったわい」

 それを聞いた女性が、寂しげな顔をする。

「ウル君、まだ転生しないのかしらねえ。直ぐ戻ってくるなんて言って……」

「ふん。知らんわ、あんな恩知らず」


「あああ。ちょっと、ちょっとお二人。ちょっと待ってくださいよ。じゃあ、あの少年は、誰の眷属でもないことになってしまう」

「ふむ。そうじゃのう」

「つまり……」


 ざわり。

 部屋の中に、静かな風が奔った。

 老人の口元が耳元まで裂けるように、嗤っている。


「つまり、新たな真祖が生まれたという訳じゃなぁ」


 ……。

 …………。

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