コノエ家の末裔

「全く、一体どうなっているのだ……」


 聖都ヘイアン。

 その東にある巨大な屋敷の一室。簡素ながらも、見る人が見れば直ぐに一級品と分かる調度で拵えられた執務室で、一人の男が書類片手に頭を抱えていた。

 時刻は深更。

 暖炉には赤々と火が燃え、男の顔を照らしている。

 白髪交じりの男の顔には深い皺が刻まれ、まだ壮年と見える男の、常日頃の気苦労の多さを表しているようであった。


 男の名は、マサナ・コノエ。

 聖国において五指に入る貴族家―コノエ家の現当主にして、ヒカリの実父である。

 マサナは手に持った書類を再び読み返し、苛立たし気に顔を歪めた。

 その時。


 こん。こん。

 ドアをノックする音が小さく響いた。

「入れ」

 マサナの力ない声での返答に、「失礼致します」と、澄んだ声と共に、一人の女性が入室してきた。


「旦那様、お嬢様がお休みになられたようです」

「ああ。そうか……」

 マサナは書類を乱雑に机に放り、とうに冷め切った湯呑に口をつけた。

 女性がそれを見て、「ああ」と声を漏らす。

「失礼しました。今、温かいものを……」

「よい」

 一礼して退出しようとした女性―コノエ家の屋敷にて侍従長を務める女性を、マサナが引き留める。

「ヒカリはどうしている」

 重く吐き出すようなその問いに、侍従長は言葉を選びながら答えた。


「相変わらず、その、……元気がないようです」

「甘味は与えたか」

「はい。ですが、自分はいらないので、皆さんで分けてください、と」

「そうか」


「ただ、昨日何故かご自分のお部屋の掃除をしていたかと思えば、今日の昼には庭の草むしりを始めまして。私共が慌ててお止めしたのですが、夕刻には厨房に顔を出されて、何も知らない新人の仕事を手伝い出す始末でして……」

「その新人は?」

「当然解雇しようとしました。ただ、お嬢様が涙ながらに庇われたものですから……」

「ふむ……」


 そこでマサナは、侍従長の身に着けていたエプロンドレスの裾の端に目を留めた。

「……それは?」

 そこには小さく、黄色い果実のアップリケが刺繍されていた。

 侍従長の頬が、さっと朱に染まる。

「こ、これは。……その、お嬢様が」

「ヒカリが?」

 マサナの目が鋭い光を宿した。


「私が昨日、お嬢様の部屋の掃除を代わっていました時に、掻き傷を作ってしまいまして……。それを見たお嬢様が……」

 気まずそうに答える女性を、マサナは無表情に見据えた。

「ヒカリに、誰か裁縫など教えたのか」

「いえ、まさか。彼の街で教わったそうです。何でも、あのカサゴ屋で働いていた方が街にいたそうで、その方から。……その、申し訳ありません。直ぐに、新しいものに替えます」

「構わん。それは、柚子の実か?」

「私の名が、ユズリだからと……」

「そうか……」


 マサナは、長く溜息を吐くと、机に放っておいた書類を束ね、ユズリに手渡した。

 ユズリは困惑しながらも、それを受け取る。

 読んでみろ、というマサナの言葉に従い書類を手繰るユズリの顔が、ますます困惑した。


「これは……」

「ヒカリの養成校の同期全員、29名分の嘆願書だ。それだけではない。私がわざわざ手を回して、ヒカリの赴任先をあの田舎町に指定するよう指示していた養成校の教導官からもだ。何卒温情を賜りますよう、とな」

「こちらは……」

「それは、港国の街の警備隊長からだ。もし自分が彼女の働きに金銭で報いなかったのが原因なのだとしたら、今からでも額を指定してほしい、と。同じ内容の文が、帝国の騎士隊長からも送られてきた」

「そんな所まで話が広がっているのですか!?」

「広めたものがいるのだろう。全く、忌々しい……」


 マサナの眉間に、深い皺が寄る。

 ユズリは、書類をきれいに束ね直し、マサナに返した。

「旦那様。……その。恐れながら申し上げますが、やはり、除籍処分は厳しすぎるのでは――」

「ふざけるな!!」


 マサナの手の中で、湯呑が割れた。

 ぽたぽたと、冷えた茶が机から床に滴り落ちていく。

「旦那様……」

「これ以上――」


 湯呑の破片で切れたマサナの手から滲む血が、零れた茶に混じる。

 その上で、白く握り潰されたマサナの拳がぷるぷると震えた。


「これ以上、私の可愛いヒカリを危険な目に遭わせてたまるか!!!」


 窓ガラスが震えるほどの大音声で、マサナが吠える。

 ユズリは盛大に溜息を吐き、机の上を片付け始めた。


「見ただろう。なあ! 見ただろう!? あのヒカリの、あの玉のような肌に。……ああ! 擦り傷が。青痣が!!」

「落ち着いて下さい、旦那様」

「これが落ち着いていられるか!! ああ。そうだ。ヒカリを養成校に入れるのだって私は反対だった。あの優しい子を、あの魔窟のような聖騎士社会に放り込むなど、正気の沙汰ではない! それなのに。それなのに……」


「では何故、六年前、入校を許可されたのです?」

「あの天使のように愛らしい娘に一晩中おねだりされてみろ! 誰が心折れずにいられるものか!!」

「あああ……」

「私は、幼い頃より、あの子に聖騎士のことなど教えなんだ。我がコノエ家は確かに伝統ある貴族家だが、そもそも文官の血筋だ。それでも万が一にでもヒカリが聖騎士に興味を持つことなどないよう、慎重に教育をしてきたつもりだった。それなのに~~」

「そうでしたね」


 呻くようにぶつぶつと言葉を紡ぎ続けるマサナに、ユズリは適当に返事をしつつ、慣れた手つきでマサナの手に晒を巻いていく。

「しかし、実際問題、これだけの方面からの嘆願を無視するのも外聞が悪いでしょう。お嬢様の違反行動は、本来ならば譴責処分で済む程度の問題のはず。サイオンジ家が出しゃばって話を大きくしたのみならず、コノエ家がそれを握り潰すような反応をしては、却って痛くもない腹を探る口実を与えるだけなのでは……」


 マサナはユズリの手当てに大した反応も見せず、険しい顔を崩さずに、それに答えた。

「私を誰だと思っている。無論そんなことは百も承知だ。だが、これ以上ヒカリを下らん政治闘争に巻き込むわけにはいかん。今回のサイオンジ家の行動は勿論問題だ。しかしそれは、それだけ奴らが現勇者候補の擁立に心血を注いでいる証でもある。これ以上ヒカリが目立つ行動を取り、それを神輿に担ぎ上げようとする者が現れれば、もっと恐ろしい手段に訴え出てもおかしくはない。ここが、引き時なのだ」

「差し出がましいことを、申しました……」


 深々と礼をしたユズリを、マサナは変わらず険しい表情で見下ろした。

「よい。それよりも、あの男は明日来るのであったな」

 ユズリが顔を上げて答える。

「はい。午前には都に到着するだろう、とのことでした」

「そうか。奴にはもう一度、詳しく話を聞く必要がある」


「旦那様、それでは本日はもう、お休みなさいませ。ここのところ、満足な睡眠をお採りになっていらっしゃらないでしょう」

「……ふむ。気を遣わせるな」

「それが、私共の勤めにございますれば」

 寝室のご用意を致します、と、もう一度深々と一礼し、ユズリが退出した。


「ま、待て」

 それを、マサナが躊躇い交じりに呼び止める。


「なんでございましょう」

「そのぅ……なんだ。ユズリ」

「はい」

「そのエプロン、私に譲ってくれんか」

「この身に替えましても、お断り致します」


 ……。

 …………。


「じゃあお前、コノエ家とも通じてたってのか!?」

「そうなるな」

「そうなるな、って……」

「そもそも、俺にとっての今回のこと・・の起こりは、ゲンジからの呼び出しに応じてマサナ・コノエに面会したことから始まるのだ」

「はあ」

「ヒカリがこの半年で為した功績を持ち上げて次期勇者候補の一人に擁立しようという動きが、貴族院の一派で持ち上がっていてな。当然その反対勢力からの妨害が発生する。ヒカリをそんなものに巻き込むわけにはいかんので、何か手はないか、とな」


「ヒカリは実家に疎まれてたんじゃ……」

「扱いに困っていたのは確かだろう。ヒカリの母親はヒカリが幼い頃に病で亡くなっている。残ったマサナは大がつく程の親馬鹿だが、それでも古参の貴族家としての責務を忘れる程ではない。

 ヒカリに家督を継がせるため、というよりは永久に自分の手元に置いておくためにマサナは文官としての教育を施そうとしたが、当のヒカリは何故か武官としての道を志した。

 マサナは渋々それを認めたが、それでも決してヒカリが功績を上げることがないよう、ヒカリの赴任先を敢えて僻地に指定するよう働きかけたのだ」

「ああ。そういう……」

「しかし、どこぞのお節介な吸血鬼のせいでヒカリは功績を上げてしまった。それをハゲワシの如く嗅ぎつけた反サイオンジ派の一部がヒカリを持ち上げ、当然それを潰そうとするサイオンジ派の勢力との間で、知らぬ間にヒカリは板挟みになっていたのだ」


「何でそれでお前が呼ばれるんだよ」

「ゲンジは在任期間中、マサナ・コノエと親交があってな。その時になにくれと世話してやったのを恩に着せて、事あるごとにコノエ家に酒をねだりに行くのだ。それを質に取られて俺を紹介したらしい」

「ゲンジさん……」


「俺も当然その場で安請け合いなどせなんだが、丁度タイミング良く……いや、悪く、か。サイオンジ家からも接触を受けた。依頼は、ヒカリを担ごうとしている神輿を壊すこと」

「ハズキさんの父親だな」

「あれが父親だというのなら、その辺に突っ立っている石像だってハズキにとっては親族だろう、とゲンジは言っていたがな。兎に角、両家の利害が珍しく一致した。後は俺が騒ぎを大きくしてやればいい」

「それが、この結果か」

「そうだ」


 空の高くを、風が通り抜けていく。

 秋晴れの日差しの中、芥子色の草原を通り抜ける街道を、ジンゴとヨルを乗せた馬車が疾駆している。

 手綱を握るのは、黒い外套を風にはためかせるヨルである。

 満身創痍のジンゴは、馬車の揺れ一つに顔を顰めつつ、語るともなしに言葉を漏らした。


「俺にはやはり、人の心は分からん」

「あん?」

「マサナが何故、一度は養成校に放り出した娘を、本人の希望を無視してまで庇おうとするのか。何故ハズキが、己が使命を躊躇い、ヒカリに情を寄せるのか。何故、街の住人が、散々迷惑をかけられたはずの小娘の不在に、ああも消沈しているのか……」

「……」


「俺が慮るには、人間の心の機微とやらは複雑に過ぎる」

「嘘つけ」

「何?」


 ヨルが、前を向いたまま短くそれに答える。

「ならお前、何で迷ってたんだよ」

「迷っていただと? 俺が?」

「お前、俺に依頼持ってきた時、『別に来なくても構わん』とか言ってたじゃねえか。それで俺らがホントに行かなかったらどうするつもりだったんだよ」

「それは……」

「それに向こう行ったって、わざと依頼の達成遅らせるようなことばっかしやがって。迷ってんのがバレバレだっての。お前だってホントは、ヒカリを除籍処分になんかさせたくなかったんじゃねえのかよ」

「俺は……」


 ジンゴは一度下を向き、そして、空を仰いだ。

「俺は……迷っていたのか」


 強く吹く風が、ジンゴの黒髪を嬲る。

 ジンゴはしばらく無言で、目を閉じた。

 そして。


「ヨル」

「あん?」

「悪かった」

「いいよ」


 ……。

 …………。

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