不動の大樹
巨きな、銀杏の木であった。
大人10人でも抱えきれない程の幹は真っ直ぐ天に向かって伸び、頭上の遥か高くを広がる枝葉の天井を支えている。
それは、黄金色の爆発。
艶のある葉の一枚一枚が、高く昇った日から降り注ぐ陽光を複雑に跳ね返し、辺り一面を朝焼けのように明るく照らし出している。
その大樹を中心とした半径100メートル程の円の中には、一本の木も生えていない。
深緑に苔むした剥き出しの地面が、山の中に異界を作り出している。
強く、風が吹いている。
ざわざわと、その円の外側の木々が枝葉を揺らしている。
しかし、その大樹の足元には一枚の落葉も認められない。
揺れていないのだ。
枝葉の末節にいたるまで、鋼のように芯の通った大樹は、いかに風に吹かれようと、ただの一片も、その黄金の葉を落とすことがない。
神樹・
悠久の時の中に莫大な魔力を蓄えた、神代から地続きの存在。
夜明け前にタンシャンの街を出立した一行は、日の中天にかかる直前に、その神域に辿り着いた。
「で、でっかるちゃー……」
「何言ってんだ、ヒカリ?」
口を半開きにして、遠目からでもはっきりと分かるその威容を見上げるヒカリを、ハイジュンが胡乱げな目で見下ろす。
ヒカリの背中がいくらか曲がり、口から洩れる吐息が上がっているのを見て、ハイジュンは改めてこの小さな少女に感服した。
昨日一日山道を歩き続け、昨晩は碌な睡眠も摂らず、夜明け前からまた登山の強行軍。
山の禁域に近づいてからは魔獣も現れ始め、途中2回の戦闘を強いられた。
獣人の自分でさえ疲労を感じる程だ。この小さな体躯にどれだけの体力があるのか分からないが、もう限界が近いのは確かな筈。
なのに彼女は、弱音一つ溢さないのだ。
「一つ、聞いていいですか、ヘイシンさん?」
その横で、同じように息を切らしていたハズキが、前に立つ大きな背中に問いかけた。
「何だ」
ヘイシンが、前を向いたままそれに答える。
「ここが禁域と言われている理由です。確かに植生は少し違っているようですが、それほど犯し難いものがあるようには……。私はてっきり神樹が妄りに害されることのないように、とのことなのかと思いましたが、間近で見てはっきりと分かります。あれは、とても人の手で害せるようなものではないでしょう」
「…………」
ヘイシンは目を伏せ、しばし黙した。
重々しく口を開く。
「俺も、詳しくは聞かされておらん」
「……は?」
「俺は、山守の任を先人から引き継いだだけだからな。それも数人いる山守のうちの一人。大した情報は与えられておらん」
それを聞いたアヤが思わず鼻白む。
「何よそれ。じゃあ何であんなに渋ってたの? それがルールだからってだけで?」
「ふん。それが理由ではいかん訳が分からんが、それだけではない。俺もこの仕事を始めて数年になるからな。正直、大凡の事情は察しているのだ」
「事情?」
「俺の予想は当たっていたらしい。見てみるがいい」
樹木の途絶えた異界との境で、ヘイシンが木の幹に隠れながら神樹の根元を伺い見る。
続いた一行が別の木々からそれを覗き、揃って言葉を失った。
白い毛皮が見える。
ぼやけたような白色の、もこもことした毛皮。
頭から覗く巻き角は、濁った水晶色。
時折、景色に溶け込むようにその姿が滲む。
それは、幻像を操る山の魔物。
白澤羊。
「な、何頭いるんですか……?」
その、夥しい群れの姿だった。
「え……あれ。あれ全部白澤羊なんですか??」
ヒカリが戸惑ったようにヘイシンを見上げて問う。
黄金色の神樹の元に群がる羊たちは、とても50や100ではきかない。
自分たちが昨日、必死になってやっと1頭を見つけ、取り逃がしてしまった希少生物。
それが、こんなに。
「あ、兄貴。こりゃあ、一体……」
その横で、同じようにハイジュンも目の前の光景に愕然としていた。
ヘイシンは眉間に皺を寄せ、一行に鋭い視線を投げかける。
「これが、この地が禁域とされる理由だ」
「……どういうことよ」
最初に言葉を取り戻したのはアヤだった。その目に、危うい光が宿っている。
「分からんか。白澤羊が神樹の元に群を作っていることを、皇国は把握していたということだ」
「それは見りゃ分かるわよ。だから、どういうことなのかって聞いてんの。こんなんがあるなら、誰も苦労してはぐれ個体追っかけたりする必要なんかないじゃない」
「必要はある」
「はあ!?」
「いいか。白澤羊が希少な生物なのは確かなのだ。ここ以外の山で目撃された例はほぼない。つまり、ここの群れが人界に認知されたが最後、乱獲されて絶滅する虞が非常に高い」
「だから、隠したって?」
「奴らの素材が高値で取引されるのはそれだけ希少価値が高いからだ。これだけの群れが乱獲されてはその市場価値は一夜で暴落する。そして獲りつくしたが最後、二度と見つけることは叶わん。ならば、あえてひた隠しにするのではなく、時期を定めて催しとして一定量を狩猟させることで、市場を安定させようと考えたのだろう」
「だからってねぇ」
ヘイシンとアヤが、剣呑な顔で睨み合うこと暫し。
先に視線を逸らしたのは、アヤの方だった。
がしがしと頭を掻く。
「っあ~~もう!」
瞳を赤く燃やし、再びヘイシンを睨み付けた。
「言いたいことは積るほどあるけど、兎に角今は、白澤羊が目的じゃないわ。さっさとあの神樹から、苔だか藻だかを採集するわよ」
「そうしたいのは山々だが、そう簡単にはいかんだろう」
「ええ?」
その時、ヒカリとハヅキの肩が、びくりと跳ねた。
「ヒカリちゃん?」
二人の聖騎士の唇が震える。
頬を冷や汗が伝う。
「どうやら寝ていた奴が起きたようだ」
そのヘイシンの台詞に、訝しげな顔をしたアヤが再び木の幹から顔を覗かせて様子を伺う。
遠く、白い毛皮の海の中から、土色の山塊がむくりと起き上がった。
複雑に縮れた体毛は地面に届きそうな程伸び広がり。
毛皮の中からにょきりと生える黄玉の二角は、頭上の神樹が反射する陽光を弾き、眩く煌めいている。
その背中の稜線は、周囲の羊たちの三倍程の高さにある――。
「…………え。いやいやいや、おかしいでしょ」
アヤが目をごしごしと擦る。
「いやー、ちょっと、あれかな。眼が疲れちゃったのかしら。魔法使いすぎたのね、きっと。遠近感がおかしいわ」
「目を背けるな、魔法使い」
ヘイシンは腕を組み、一行を見渡して言った。
「通常、山で発見される白澤羊は、群から溢れた個体だ。溢れたということは生存競争に負けたということ。つまり――」
震える唇で、ハヅキがその後を継いだ。
「……つまり、昨日の個体よりも、強い雄がいるということ」
その時。
ぎゅえええええええええええええ。
野太い嘶きが。
ずずずずずずずずずずずずずずず。
そして、低く響く地鳴りが。
神樹の根本から、一斉に白い毛皮の海がかき消える。
代わりに、土色の大蛇が五匹、鎌首をもたげた。
黄玉の角が、光り輝いている。
「まずい、気付かれた!」
「ちょ、どうすんのよ!?」
唸り声を上げて、魔獣の体毛が襲いかかってくる。
豪速。
その質量。
昨日の個体とは、丸で比べ物にならない。
「一度退くぞ。縄張りを越えては追って来んはずだ!」
ヘイシンの声に、一同が踵を返して木々の奥へと駆け出した時。
一つだけ、逆向きに走る足音があった。
陽光が煌めき。
爆発する。
きゅごっ!!
真っ先に到達した体毛の触手を、朝焼けの光が打ち払う。
白い煙が清浄の空気を汚す。
栗色の髪が、爆風に棚引く。
「そんな時間は、ありません!!」
「ヒカリちゃん!?」
大きく踏み出したヒカリが、柏手を打つ。
開いた掌に、陽光の狩猟弓が顕れる。
真っ直ぐに構えた。
「いかん!」
それを見たヘイシンが駆け出す。
「ああ、もう!」
「ヒカリ!」
アヤとハイジュンがそれに続く。
ヒカリが番えた矢の先が大きく膨らむ。
その、小さな聖騎士の少女の周りには何者もいない。しかし、その横に姿の見えぬ蹄の音が近づいているのを、獣人の二人は聞き取っていた。
速度に勝るハイジュンが、ヘイシンを追い越し滑り込む。
ごっ。
「ぐおっ」
重い衝撃。
ハイジュンの体が弾き飛ばされる。
「え!?」
突然の事態に仰天したヒカリの魔法が掻き消える。
その時に漏れた陽光に晒され、襲撃者の姿が顕れる。
ぎゅいぃ。
雌体の白澤羊。
隠匿魔法で姿を隠し、強襲したのだ。
ざっ。
ざっ。ざっ。
ざっ。ざっ。ざっ。
ざっ。ざっ。ざっ。ざっ。
倒れ込んだハイジュンと硬直するヒカリ、そこに駆け付けたヘイシンとアヤの周囲を、重なり合う無数の足音が包んだ。
取り囲まれている。
「え? え? 何で」
「ぼさっとするな、ヒカリ!」
「ヒカリちゃん、構え!」
昨日は逃げの一手だった筈の雌の個体からの思わぬ攻撃、そして、自分を庇ってハイジュンがそれを喰らってしまった事実にヒカリが狼狽する。
ヘイシンとアヤが拳を構えて左右を固める。
天からは、土色の大蛇の追撃が。
地の四方からは不可視の軍団。
黄金色の天井の下、争乱の幕が上がった。
……。
…………。
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