草原の戦い

 草原を馬車が駆けている。

 舗装のされていない野原である。石を噛み、泥濘を踏み、その度に車軸が軋み、悲鳴を上げる。

 だが、馬の足を止めるわけにはいかない。


 走れ。走れ。走れ。


 蒼い顔をした御者が幌越しに後ろを振り返る。

 背の高い草々に紛れ、禍々しい紫色の影が見える。先程よりも、確実に近づいている。

 噛み締められた御者の口の端から泡となった涎が漏れる。


 走れ。走れ。走れ。


 びり。

 御者の心臓を凍りつかせる音が、後方から聞こえた。

 続いて聞こえる、甲高い悲鳴。


 ばう。がふ。


 風を切る音に紛れて、熱い鼻息が聞こえる。


「ううぅぅ」

 御者の目は血走り、洟水がてらてらと口髭を濡らしている。

 悲鳴。

 馬車に負荷がかかったのが分かる。

 再度後ろを振り返った御者の、その鼻先を、紫色の爪が掠めた。


「ひええぇぇぇぇぇ!!!」


 紫煙の吐息が風に靡いて消える。

 暗紅色の目を爛々と燃やし。

 腐れたような紫色の毛皮を波打たせ。

 悍ましい狩人が幌に取り付いている。

 悲鳴。

 千切れた幌の布が宙に舞う。


「旦那様! 奥様!」

 御者の叫び声に返すのは、ただ魔獣の荒い吐息のみ。


 ばう。がふ。


 眼前に迫る。

 紫色の悪魔が。

 ああ、その牙の。

 何と鮮烈な赤。

 

 御者が己の使命を諦めかけた、その時。

 御者の心臓をより暗い寒気が犯し。

 その視界が、赤黒い霧に覆われた。


 ぎゃん。

 魔獣の悲鳴が聞こえた。


 意識を失いかけた御者が涙に霞む目を見開いて後ろを振り返ると、草原を転がる二塊の紫が見えた。

 そして棚引く、赤い霧。

 黒い煙。

 むくりと草原に立ち現れる、黒い外套を靡かせた男の姿。


 御者は慌てて手綱を引いて馬を止めると、転がるように幌の後ろに回り込んだ。

「旦那様! 奥様!」

 無残に破られた幌の中から、手を取り合って震える主人たちと、それを庇うように塞がる同僚の姿が見えた。

 ご無事ですか。

 そんな言葉を口に出す余裕もなく、御者は腰の軍刀を引き抜くと、少し離れた場所で揉み合う、二つの紫と一つの黒に向けて駆け出した。


 ……。

 …………。



 ヨルは両手に一本ずつナイフを構えると、腰を落として二体の魔獣と睨み合った。

 人の腰程の背丈の、犬型の魔獣だ。

 ふしゅう。ふしゅう。

 その吐息に合わせて紫煙が燻る。

 暗紅色の双眸がぎらりと濡れ光り、突然の闖入者に滴るほどの殺意を向ける。


 ヨルは目を半眼にし、力を抜いて、息を吐いた。

 次の瞬間。

 向かって右側の魔獣が飛びかかった。

 片足を軸に半円を描きそれを躱す。

 すかさずもう一体にナイフの先端を向け、牽制する。

 顔を半分俯かせ、ヨルは静かな足取りで横にずれ、間合いを計る。

 魔獣はすかさず後ろに回り込み、挟み撃ちの体制を取る。


 そろり。

 そろり。

 魔獣が鏡合わせに円を描く。


 ヨルは切っ先を二つ、その暗紅色の眼光に合わせ、腰を低く保った。


 ばう。

 がふ。


 二体の息が合わさり、地面を駆けた。

 黒い外套が翻る。

 ヨルの足が地面を抉るように捩じ込まれ、回転する体を支える。

 牙と爪が空を切る。

 挟撃を躱したヨルは二歩後ろへ。

 二体を視界に収める。

 ナイフの切っ先が陽光を弾く。


 魔獣が再び挟み撃ちの体制をとるより早く、ヨルの足運びが機先を制して一体の前に回り込んだ。

 一瞬の動揺。

 動きを止めた相方の背を飛び越すように、すかさずもう一体が空中に躍り出る。

 その、二体の影が重なった時。


「『硯樹すずりいつき』」


 ヨルの唇が僅かに動く。

 その瞬間、魔獣の影から闇色の木が高々と聳え、その枝に、魔獣の体を絡め取った。


 ぎゃふ。

 ばふ。


 魔獣が激しく身悶えする度に、拘束する枝がぎちぎちと軋む。

 あと数秒もすれば解かれるような戒めであったが、当然、その時が訪れることはなかった。


「ごめんな」

 二本の刃が、暴れる魔獣たちの首元に同時に差し込まれ、一息に引き切られた。


 ……。

 …………。


「本当に、何とお礼を言えばいいか……」

「いえ、たまたま通りかかっただけですから」

 

 御者の男が震える手と膝を奮い立たせて駆けつけた時には、魔獣はこぽこぽと赤黒い血を流して絶命していた。返り血を浴びたのか、青白い顔をした男――いや、まだ少年と言ったほうがいい顔立ちだ――は口元に赤黒い血の跡をひいていた。

 命の危険が去ったことを知った男はその場でぺたんと尻餅をつくと、踵を返して馬車に駆け寄り、主人に安全を保証した。

 恐る恐る馬車から降りた、港国のさる商会の会長と名乗った初老の男は、自分たちの命を救ったのが目の前で遠慮気味に挨拶をする年若い少年だと知り驚愕したが、すぐに態度を改め深々と頭を下げた。

 頻りに頭を下げる初老の男に、黒衣の少年――ヨルも恐縮して応じる。


「一体何があったんです?」

 ナイフの血糊を清めながら問うヨルに、御者と主人、馬車から降りた会長夫人と護衛の男も困惑しながら応える。

「それが、分からないのです」

「分からない?」

 御者が冷えた汗を拭いながら、事情を話しだした。


「ええ。私たちはバルの街に屋敷を持っています。商談のために数日来聖都に滞在していたのですが、その帰り道の途中、街道も半ばを過ぎたあたりで、突然奴らに襲いかかられたのです」

「突然?」

「はい。やけに馬が興奮していると思った時にはもう、背後にあの紫の毛皮が見えていて……。あんなものを見たのは初めてでした。ただひたすら恐ろしく……。一度は魔道具の煙幕で逃げおおせたのですが、追求はしつこく、ついには馬がパニックを起こし街道を外れてしまい、この広い草原を駆けずり回る羽目になってしまったのです。いつの間にか隣の街道まで来てしまっていたのですね。全く、不甲斐ない限りで」


 蒼い顔をしながら話す御者を、主人の男が労わる。

「お前が冷静に手綱を握っていてくれなければ、とうの昔に私たちは食われていた。この方の助けが間に合うこともなかっただろう」

「旦那様。勿体無いお言葉でございます」


「あなた様も、ただ行きずりの身を救って頂き、誠に有難う存じます。いくら感謝してもしきれません」

「いえ。間に合ってよかったです。目の前で死なれていたら、寝覚めの悪いところでした。こちらこそ、助かってくれてありがとうございます」

 青白い肌で、春の日差しのように穏やかに笑うヨルの顔を、一同は呆気に取られて見つめた。

「……不思議なお方だ」


 幌を張り直し、馬を落ち着かせてから発車した車に、丁度自分もバルの街に向かうところだというヨルも乗せてもらうことになった。


「あの魔獣は、紫呪狗ししゅいぬと言います」

「やはりあれは、魔獣だったのですか」

 会長と夫人が並び、それに向かい合ってヨルが座っている。

 護衛の男は幌の出口から外を見張っている。


「大陸各地の山間部の奥深くに生息していて、十数頭の群れをなして生活しています。こんな平野部で見かけることはまずありませんし、成獣が二頭きりで行動しているということもありません。本来であれば人の生活と交わることはない生き物なんですが……」

「では、一体なぜ……」

「わかりません。何か心当たりはありませんか」


「皆目、見当もつきません。そもそもあの街道は旅人の間でも安全なことで有名です。私自身、何度も使っていますが、今までこんなことは一度も……」

「そうですか。何でしょうね。何にせよ、港国の兵に報告したほうがいいでしょう。あの証拠を見せれば、流石に信用してくれると思います」

 ヨルは、馬車の隅に置かれた、微かな臭気を放つ革袋を目で示した。

「そうですね。そうしましょう。バルの警備隊長とは、親しくさせて貰ってますから。ところで、その……、あなたは、冒険者なのですか。魔法もお使いになるようでしたが」

 遠慮がちに尋ねる会長に、ヨルは涼しげな顔で応じた。


「いえ。ただの一般市民ですよ。子供の頃に傭兵団で下働きをしてたことがあって、荒事はその時に覚えました。必要に駆られて、という感じでしたが」

「随分と苦労をされたようだ。あれ程の魔獣を二体同時に相手取るとは」

「今は静かに暮らしてます。それに、魔法と言っても、簡単な幻惑魔法と拘束魔法しか使えません。正直、もう一体いたら苦しいところでした」

「謙遜をなさる」

 穏やかな笑みを浮かべるヨルに、会長が苦笑した。


「そういえば、あなたは今、メリィ・ウィドウに住んでらっしゃるとか。あそこの生糸の染色は素晴らしい。私も何度か取引させてもらったことがあります。なあ、お前も気に入っていただろう。あの、若草色のスカーフ」

「え、ええ。今でも使っていますわ。他所の絹とは色合いが少し違っていて……」

「あれは五色の魔力を使った染色なんですよ。元は魔国の技術なので、こちらにはあまり出回らないでしょうね。一度色素が定着すれば痛むことはないんですが、あまり高濃度の聖水をかけると色落ちするので気をつけて下さい」

「ほう、魔国の技術ですか。それは興味深いですな」


「奥様の髪なら、三つ編みに織り込んでも似合うと思いますよ。ウチだと、エルフの人がよくやってるんですけど」

「まあ、三つ編みに? 面白そうね」

「スカーフは街中にいっぱいありますからね。みんな使い方も凝ってきちゃって」

「いいわね。よかったら教えて頂けないかしら」

「よろこんで」

「あ、そうだ。あなた、あれ、召し上がって頂いたら。なんと言ったかしら、あの、赤い……」

「茘枝かね」

「茘枝! あるんですか? 夏頃の果実だと思ってました」


「南の方での栽培に成功しましてね。今ぐらいの時期には採れるんですよ。ただ、流通に出るほどの量ではないので、暫くは好事家の嗜好品というところでしょうが」

「子供の頃に食べた以来です」

「うふふ。美味しいわよ。遠慮なさらず召し上がって」

「はい。ありがとうございます」

 大人びた表情から一転して無邪気な笑顔を見せたヨルに、会長夫婦も破顔する。

 先程まで死と隣り合わせであった馬車の中が、春の陽射しのように、明るく賑わった。


 ……。

 …………。



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